業平餅(なりひらもち)(二番目 三番目)

▲アト「これは、近所の餅屋の亭主でござる。今日も店を出して、往来の人に餅を商はう。と存ずる。
{と云ひて、大小の前に居るなり。}
▲シテ「これは、朝臣在原の業平とは、我が事なり。我れ、和歌の道に交はる。といへども、未だ玉津島の明神に参らぬ。この度思ひ立ち、玉津島の明神へ参らう。と存ずる。やいやい。居るか、やい。
{と云ひて、呼び出す。出るも、常の如し。大名狂言、同断。}
汝呼び出す、別の事でない。我れ、和歌の道に交はる。といへども、玉津島の明神へ参らぬ。参る程に、供の用意をせい。
▲小アト「畏つてござる。なうなう、頼うだお方が、玉津島へ御参詣なさるゝ。お供の用意は良いか。
▲立衆「お供の用意、良うござる。
▲小アト「お供の用意、良うござる。
▲シテ「それならば、追つ付け行かう。さあさあ、来い来い。
▲小アト「畏つてござる。さあさあ、何(いづ)れも、おりあれ。
▲立衆「心得ました。
▲シテ「扨、何と思ふぞ。かう行く道すがらも、浦々の景色を眺め、歌などを詠む。といふは、良い慰みではないか。
▲小アト「御意なさるゝ通り、良いお慰みでござる。
▲シテ「この度は、暫く逗留する程に、その用意をせい。
▲小アト「その段は、お心の儘でござる。
▲シテ「いや、何かと云ふ内に、浜辺へ出た。
▲小アト「誠に、浜辺へ出ました。
▲シテ「何と思ふ。良い景ではないか。
▲小アト「御意なさるゝ通り、良い景でござる。
▲シテ「扨、汝等も、身共が内に年久しう居る者ぢやが、腰折れの一首も浮かまぬかいやい。
▲小アト「いや。私共は、何も浮かみませぬ。
▲シテ「汝等は、何とぢや。
▲立衆「いや。私共も、浮かみませぬ。
▲シテ「何。浮かまぬか。
▲立衆「左様でござる。
▲傘持「私が、一首浮かみましてござる。
▲シテ「あの、そちが。一首浮かんだ。
▲カサ「はあ。
▲シテ「扨々、それは、優しい事ぢや。して、何と浮かうだ。
▲カサ「かうもござりませうか。
▲シテ「何と。
▲カサ「ほのぼのと。
{シテ、吟ずる。}
明石の浦の朝霧に、島隠れ行く、船をしぞ思ふ。
▲シテ「やいやいやい、そこな者。
▲カサ「はあ。
▲シテ「それは、石打つ童(わらべ)までも知つてゐる、柿の本の人麿の古歌ぢやわいやい。
▲カサ「はあ、古歌でござるか。
▲シテ「おんでもない事。
▲カサ「はて、古歌ぢやよな。
▲シテ「古歌ぢやよな。
{と云ひて、皆々笑ふ。}
これに、休息所と見えて、庵がしつらうてある。これに暫く輿を立てう程に、汝等も、勝手次第に休息せい。
▲小アト「畏つてござる。
{と云ひて、皆々、切戸より入る。それよりシテ、床几に腰をかける。長柄持ち、一人残り、橋がゝりに居る。}
▲アト「上(うへ)つ方(かた)と見えて、某(それがし)が店先へお輿を立てられた。さらば、餅を商はう。と存ずる。
{と云ひて、三宝を持つて出るなり。}
申し上げまする。
▲シテ「何事ぢや。
▲アト「私は、この家の亭主でござる。旅と申すものは、高いも低いも、御不自由なものでござる。又、この餅は、この所の名物で、つゝと綺麗にござる程に、召し上げられて下されうならば、ありがたう存じまする。
▲シテ「むゝ。そちは、この家の亭主か。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「この餅は、この所の名物か。
▲アト「成程、名物でござる。
▲シテ「扨々、旨さうな餅ぢやなあ。
▲アト「つゝと風味の宜しい餅でござる。
▲シテ「して、これは、誰が所望しても与ふるか。
▲アト「どなたが御所望なされても、お足さへお出しなさるれば、随分上げまする。
▲シテ「それは、心安い事ぢや。さあ、足を出した。餅をくれい。
▲アト「いや、その事ではござりませぬ。料足(れうそく)の事でござる。
▲シテ「おゝおゝ。一本出すも二本出すも、同じ事ぢや。そりや、両足(りやうそく)を出いたわ。
▲アト「上つ方でござるによつて、御存じないは、御尤でござる。その事ではござらぬ。鳥目の事でござる。
▲シテ「その様なさもしいものは、持たぬ。それならば、餅の代りに、歌を詠うでとらせうか。
▲アト「餅の代りに歌をお詠み下されう。とは、どうした事でござる。
▲シテ「扨は汝は、餅のめでたい威徳を知らぬ。と見えた。語つて聞かせう程に、よう聞け。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「《語》ひと年(とせ)、天下旱魃して、雨一滴も降らず。民百姓、農業の種を失ひ、五穀の費(つひ)えを悲しみ、後には飢ゑ死(し)なん事を歎く。帝、これを聞こし召され、貴僧・高僧を請じ、色々御祈祷なされども、更にその験(しるし)なし。こゝに、小野の良実(よしざね)が娘に小野の小町とて、隠れもなき歌人のありしを召され、雨乞ひの歌を詠め。とありしかば、小町は勅諚を蒙り、神泉苑の池辺(ちへん)において、理(ことわり)や、日の本なれば照りもせめ、さりとてはまた。あめが下かは。と、かやうに詠じければ、竜神も感応の余りにや、忽ち雨、車軸を流し、田畠潤ひ五穀成就し、民安全にめでたければ、小町へ餅を褒美に下さるゝ。則ち、餅を歌賃(かちん)と云ふも、この謂(いは)れなり。なんぼう餅は、威徳の備りたる、めでたき物にてあるぞとよ。
▲アト「代々商売に致せども、左様のお物語を、初めて承つてござる。さりながら、私どもは賤しい者でござるによつて、とかく、代りがござらいでは、餅を上げまする事はなりませぬ。
▲シテ「すれば、どうあつても、代りがなければ、餅をくるゝ事はならぬか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「むゝ。道理、道理。
{*1}店なる餅の旨げさよ。店なる餅の旨げさよ。価(あたひ)を持ちもせぬ故に、人の指ざし蕨餅。恥をかき餅。悲しみの、泪は雨や。さめがい餅。滝の白餅。寒の餅。降るは雪餅。氷餅。弥勒の出世に栗餅と、くりこの餅と繰り事を、云うてはよもやよもぎ餅。尻餅ついて装束の、身も業平もいらばこそ。あらひもじ。とため息を、つくづくながめおはします。
▲アト「これはいかな事。代りのないが、定(ぢやう)さうな。申し申し。お前は、どなたでござる。
▲シテ「身共を知らぬか。
▲アト「いゝや、存じませぬ。
▲シテ「朝臣在原の業平にてあるぞとよ。
▲アト「扨は、業平様でござるか。
▲シテ「中々。
▲アト「左様ならば、承り及うだ色好みでござる。それならば、ちとお願ひがござる。
▲シテ「それは、何事ぢや。
▲アト「私、娘を一人、持つてござる。かねがね、上方(かみがた)の奉公を致させたう存じますれども、その折がござらぬ。何とぞお連れなされて、宮仕へをおさせなされて下されうならば、ありがたう存じまする。
▲シテ「何ぢや。娘を持つた。と云ふか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「やれやれ、それは耳寄りな事を云ふ。女ひと通りの事なれば、身共が埒をあけぬ。といふ事はない。随分、世話をしてとらせうが、その娘を見る事はならぬか。
▲アト「左様ならば、これへ連れて参りませう。
▲シテ「早う連れて来い。
▲アト「追つ付け、連れて参りませう。
▲シテ「早う連れて来い、連れて来い、連れて来い。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「まづ、この間に、この餅を一つ喰はう。
{と云ひて、餅を喰ふ仕方、色々あり。その内にアト、楽屋より乙を伴れて出る。シテ、これを見て、急ぎ喰うて、喉に詰める。アト、驚き、シテの背中を叩く。仕様、口伝。}
▲アト「なうなう、さる上つ方のお出でなされて、そなたを上方(かみがた)へ奉公に連れてお出なされう。とのお事ぢや。ありがたう思はしめ。これはいかな事。申し、業平様。申し申し、業平様。何となされました。
▲シテ「なうなう、恥づかしや、恥づかしや。あまり旨さうにあつたによつて、一つ二つ喰うたれば、喉に詰まつた。真つ平、許してくれい、許してくれい。
▲アト「その儀はそつとも苦しうござりませぬ。扨、娘を連れて参つてござる。
▲シテ「何、娘を連れて来たか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「して、何処(どこ)にゐるぞ。
▲アト「あれに居りまする。
▲シテ「あれか。
▲アト「はあ。
▲シテ「あれは、どうやら容儀も良さゝうな。何と、あの娘を身共にくれまいか。
▲アト「ありがたう存じますれども、まづ、娘の容儀を御覧なされた上の事になされて下されい。
▲シテ「いやいや、見るには及ばぬ。身共にくれい。直(すぐ)に上方へ連れて行かうぞ。
▲アト「左様ならば、いか様(やう)とも致しませう程に、御不憫の加へられて下され。
▲シテ「その段は、そつとも気遣ひするな。
▲アト「それならば、お門出を祝ひませう。暫くお待ちなされて下されい。
▲シテ「いやいや。その様な事は、無用にせい。
▲アト「隙(ひま)は取りませぬ。暫くお待ちなされて下されい。
▲シテ「やいやい。必ず、馳走がましい事は止(よ)しにせいよ。《笑》今日(けふ)は、思ひも寄らぬ娘を貰うた。やいやい、そちは今、とゝに貰うて置いたによつて、追つ付け、上方へ連れて行くが、嬉しいか。
{乙、うなづく。シテ、笑ふ。}
それならば、対面をせう程に、その衣(きぬ)をとれ。
{乙、かぶり振る。この類、同断なり。相応のしかじかあるべし。}
あれは、何ぢや。興(きよう)がつた者ぢや。やいやい、誰もないか。随身、随身。沓持ち、沓持ち。かさ持ち。こりや、一人もをらぬ。どれへ行きをつた事ぢや。やい、そこな者、そこな者、そこな者。
{と云ひて、長柄を起こす。初めより居眠り居る。傘持ち、あくびなどして目を覚まし、驚き、傘をかたげて出るなり。仕様、口伝。}
▲傘持「はあ、はあ。
▲シテ「苦しうない。これへ来い。
▲カサ「畏つてござる。
▲シテ「よう寝て居たさうな。何と、目は覚めたか。
▲カサ「大方、覚めましてござる。
▲シテ「扨、そちは身共が内に、年久しう律義に勤むるによつて、良い妻を肝煎(きもい)つてとらせうぞ。
▲カサ「あの、私にや。
▲シテ「中々。
▲カサ「それは、ありがたう存じまする。私も、いまだ定まる妻がござらぬ。かねがねの望みでござりまする。かやうのありがたい事はござりませぬ。
▲シテ「何と、嬉しいか。
▲カサ「嬉しうござりまする。
▲シテ「それならば、あれに居る程に、行(い)て対面して来い。
▲カサ「何の、それに及びませう。
▲シテ「いやいや、念のためぢや程に、行(い)て対面して来い。
▲カサ「これは、御念のいつたお事でござる。早(はや)、お前の世話でござるによつて、見まするには及びませぬ。
{と云ひて、乙の傍へ行き、見て肝をつぶして、}
▲シテ「何とぢや、何とぢや。
▲カサ「私は、はつたと失念致いた事がござる。
▲シテ「それは、何事ぢや。
▲カサ「友達どもが世話で、うす約束を致いた事がござる。あれは、お断りを申しまする。
▲シテ「これはいかな事。汝は最前、未だ定まる妻がない。と云うたではないか。
▲カサ「忘れましてござる。
▲シテ「その方は断りを云うて、あれにせい。
▲カサ「もはや、盃までを致いてござるによつて、変がへはなりませぬ。
▲乙「申し申し、業平様。
▲シテ「何ぢや。
▲乙「私や、お前がいとしい。
▲シテ「これは、迷惑な事ぢや。
▲カサ「それよそれよ。まづ、逃れた。うるさや、うるさや。
{と云ひて、傘を持ちて入るなり。}
▲乙「お前と妾(わらは)とは五百八十年、万々年も連れ添ひませうぞ。
▲シテ「あゝ、こりやこりや。人が見るわいやい。おのれが様な者は、かうして置いたが良い。いかに業平ぢやというて、あれが何となるものぢや。
▲乙「なう、これ。どこへ行かつせある、行かつせある。
{と云ひて、追ひ込む。この類、同断なり。口伝。}

校訂者注
 1:底本、ここから「つく(二字以上の繰り返し記号)ながめをはします」まで、傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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業平餅(ナリヒラモチ)(二番目 三番目)

▲アト「是は近所の餅屋の亭主で御座る、今日も店を出して、往来の人に餅を商はうと存ずる{ト云て大小の前に居るなり}▲シテ「是は朝臣在原の業平とは我事なり、我れ和歌の道に交るといへ共、未だ玉津島の明神に参らぬ、此度思ひ立、玉津島の明神へ参らうと存ずる、やいやい居るかやい{ト云て呼出す出るも如常大名狂言同断}{*1}汝呼出す別の事でない、我れ和歌の道に交るといへ共玉津島の明神へ参らぬ、参る程に供の用意をせい▲小アト「畏つて御座る、なうなう頼うだお方が、玉津島へ御参詣成さるゝ、お供の用意はよいか▲立衆「お供の用意よう御座る▲小アト「お供の用意よう御座る▲シテ「夫ならば追付行かう、さあさあこいこい▲小アト「畏つて御座る、さあさあ何れもおりあれ▲立衆「心得ました▲シテ「偖何と思ふぞ、かうゆく道すがらも、浦々の景色を眺め、歌抔をよむといふは、よい慰ではないか▲小アト「御意被成るゝ{*2}通り、よいお慰みで御座る▲シテ「此度はしばらく逗留する程に其用意をせい▲小アト「其段はお心の儘で御座る▲シテ「いや何彼といふ内に浜辺へ出た▲小アト「誠に浜辺へ出ました▲シテ「何と思ふよい景ではないか▲小アト「御意なさるゝ通りよい景で御座る▲シテ「偖汝等も、身共が内に年久しう居る者じやが、腰をれの一首もうかまぬかいやい▲小アト「いや私共は何も浮みませぬ▲シテ「汝等は何とぢや▲立衆「いや私共もうかみませぬ▲シテ「何うかまぬか▲立衆「左様で御座る▲傘持「私が一首うかみまして御座る▲シテ「あのそちが一首うかんだ▲カサ「はあ▲シテ「偖々夫は優しい事ぢや、して何と浮うだ▲カサ「かうも御座りませうか▲シテ「何と▲カサ「ほのぼのと{シテ吟ずる}{*3}あかしの浦の朝ぎりに、島かくれゆく、船をしぞ思ふ▲シテ「やいやいやいそこな者▲カサ「はあ▲シテ「夫は石打つわらべ迄もしつてゐる、柿の本の人麿の古歌ぢやわいやい{*4}▲カサ「はあ古歌で御座るか▲シテ「おんでもない事▲カサ「はて古歌ぢやよな▲シテ「古歌ぢやよな{ト云て皆々笑ふ}{*5}是に休息所と見へて庵がしつらふてある、是にしばらく輿{*6}を立う程に、汝等も勝手次第に休息せい▲小アト「畏つて御座る{ト云て皆々切戸より入る夫より、シテ床几に腰をかける長柄持一人残り橋がゝりに居る}▲アト「上つ方と見へて、某が店先へお輿{*7}を立られた、去らば餅を商はうと存ずる{ト云て三宝を持つて{*8}出るなり}{*9}申し上げまする▲シテ「何事ぢや▲アト「私は此家の亭主で御座る、旅と申すものは、高いも低いも御不自由なもので御座る、又此餅は此所の名物で、つゝときれいに御座る程に、召し上げられて下されうならば有難う存まする▲シテ「むゝそちは此家の亭主か▲アト「左様で御座る▲シテ「此餅は此所の名物か▲アト「成程名物で御座る▲シテ「偖々うまさうな餅ぢやなあ▲アト「つゝと風味の宜しい餅で御座る▲シテ「して是は誰が所望してもあたゆるか▲アト「どなたが御所望被成てもおあしさへお出し被成るれば随分上げまする▲シテ「夫は心易い事ぢや、さあ足を出した餅をくれい▲アト「いや其事では御座りませぬ、料そくの事で御座る▲シテ「おゝおゝ一本出すも二本出すもおなじ事ぢや、そりや両足を出いたわ▲アト「上つ方で御座るに依つて、御存じないは御尤で御座る、其事では御座らぬ鳥目の事で御座る▲シテ「其様なさもしいものはもたぬ、夫ならば餅の代りに歌をようでとらせうか▲アト「餅の代りに歌をおよみ下されうとはどふした事で御座る▲シテ「偖は汝は、餅の目出たい威徳をしらぬと見へた、語つてきかせう程によう聞け▲アト「畏つて御座る▲シテ「《語》一ト年天下旱魃して、雨一滴もふらず、民百姓農業の種を失ひ、五穀の費をかなしみ、後には飢死なん事を歎く、帝是を聞し召され、貴僧高僧を請じ、色々御祈祷なされ共更に其験なし、爰に小野の良実が娘に、小野の小町とて隠れもなき歌人の有しを召され、雨乞の歌をよめと有しかば、小町は勅諚を蒙り、神泉苑の池辺において、ことわりや、日の本なれば照りもせめ、さりとてはまた、あめが下かは、と、斯様に詠じければ、竜神も感応の余りにや、忽雨車軸を流し、田畠潤ひ五穀成就し、民安全に目出たければ、小町へ餅を褒美に下さるゝ、則餅を歌賃といふも此謂なり、なんぼう餅は威徳の備りたる、目出度き物にてあるぞとよ▲アト「代々商売に致せども、左様のお物語りを初て承つて御座る去ながら、私共は賤い者で御座るに依つて、兎角代りが御座らいでは、餅を上げまする事はなりませぬ▲シテ「すればどうあつても、代りがなければ、餅をくるゝ事はならぬか▲アト「左様で御座る▲シテ「むゝ道理道理{*10}、店なる餅のうまげさよ、店なる餅のうまげさよ、価を持ちも{*11}せぬゆへに、人の指ざし蕨餅、恥をかき餅悲しみの泪は雨やさめがい餅、滝の白餅寒の餅、降るは雪餅氷餅、弥勒の出世に栗餅と、くりこの餅とくり事を、いふてはよもやよもぎ餅、尻餅ついて装束の、身も業平もいらばこそ、あらひもじとためいきを、つくづくながめをわします▲アト「是はいかな事、代りのないが定{*12}さうな、申し申し、お前はどなた{*13}で御座る▲シテ「身共を知らぬか▲アト「いゝや存じませぬ▲シテ「朝臣在原の業平にて有るぞとよ▲アト「偖は業平様で御座るか▲シテ「中々▲アト「左様ならば承り及ふだ色好みで御座る、夫ならばちとお願ひが御座る▲シテ「夫は何事ぢや▲アト「私娘を一人持つて御座る、兼々上方の奉公を致させたう存じますれ共、其折が{*14}御座らぬ、何卒おつれ被成て、宮仕をおさせ被成て下されうならば有難う存じまする▲シテ「何ぢや娘をもつたといふか▲アト「左様で御座る▲シテ「やれやれ夫はみゝよりな事をいふ、女一ト通りの事なれば、身共が埒をあけぬといふ事はない、随分世話をしてとらせうが、其娘を見る事はならぬか▲アト「左様ならば是へつれて参りませう▲シテ「早うつれて来い▲アト「追付つれて参りませう▲シテ「早ふつれてこい、つれてこい、つれてこい▲アト「畏つて御座る▲シテ「先づ此間に此餅を一つ喰はう{ト云て餅を喰ふ仕方{*15}色々あり其内にアト楽屋より乙を伴れて出るシテ是を見て急ぎ喰て喉につめる、アト驚きシテの背中を叩く仕様口伝}▲アト「なうなう去る上つ方のお出でなされて、そなた{*16}を上み方へ奉公につれてお出被成れうとのお事ぢや、有難ふ思わしめ、是はいかな事、申し業平様、申し申し業平様、何と被成ました▲シテ「のふのふ恥かしや恥かしや、あまりうまさうに有たに依つて、一つ二つ喰ふたれば喉につまつた、真平ゆるしてくれいゆるしてくれい▲アト「其儀は卒つとも苦しう御座りませぬ、偖娘をつれて参つて御座る▲シテ「何むすめをつれて来たか▲アト「左様で御座る▲シテ「して何処にゐるぞ▲アト「あれに居りまする▲シテ「あれか▲アト「はあ▲シテ「あれはどうやらよふぎもよささうな、何とあの娘を身共にくれまいか▲アト「有難う存じますれ共{*17}、先づ娘のよふぎを御覧被成た上の事に被成て下されい▲シテ「いやいや見るには及ばぬ、身共にくれい直ぐに上み方へつれて行かうぞ▲アト「左様ならばいかやう共致ませう程に、御不便のくわへられて下され▲シテ「其段はそつとも気遣いするな▲アト「夫ならばお門出を祝ひませう、しばらくお待被成て下されい▲シテ「いやいや其様な事は無用にせい▲アト「隙は取ませぬ、しばらくお待被成て下されい▲シテ「やいやい必ず馳走がましい{*18}事はよしにせいよ《笑》{*19}けふは思ひもよらぬ娘を貰うた、やいやいそちは今とゝに貰うておいたに依つて、追付上み方へつれて行が嬉しいか{乙うなづくシテ笑ふ}{*20}夫ならば対面をせう程に、其きぬをとれ{乙かぶり振る此類同断なり相応のしかじかあるべし}{*21}あれは何んぢや、きやうがつた者ぢや、やいやい誰もないか、随身随身{*22}、沓持沓持{*23}かさ持、こりや一人もおらぬ、どれへ行をつた事ぢや、やいそこな者そこな者そこな者{ト云て長柄をおこす初めより居眠り居る傘持あくび抔{*24}して目をさまし驚き傘をかたげて出る也仕様口伝}▲傘持「はあはあ▲シテ「苦敷うない是へこい▲カサ「畏つて御座る▲シテ「よう寝て居たさうな何と目はさめたか▲カサ「大方さめまして御座る▲シテ「偖そちは身共が内に、年久しう律義に勤るに依つて、よい妻を肝煎てとらせうぞ▲カサ「あの私にや▲シテ「中々▲カサ「夫は有難う存じまする、私もいまだ定る妻が御座らぬ、兼々の望で御座りまする、斯様の有難い事は御座りませぬ▲シテ「何と嬉しいか▲カサ「嬉しう御座りまする▲シテ「夫ならばあれに居る程に、いて対面して来い▲カサ「何の夫に及ませう▲シテ「いやいや念の為ぢや程に、いて対面してこい▲カサ「是は御念のいつたお事で御座る、はやお前の世話で御座るに依つて、見まするには及ませぬ{ト云て乙の側へ行見て肝をつぶして}▲シテ「何とぢや何とぢや▲カサ「私ははつたと失念致た事が御座る▲シテ「夫は何事ぢや▲カサ「友達共が世話で、うす約束を致た事が御座る、あれはお断りを申しまする▲シテ「是はいかな事、汝は最前未定る妻がないといふたではないか▲カサ「忘れまして御座る▲シテ「其方は断りをいふてあれにせい▲カサ「最早盃迄を致て御座るに依つて、変がへはなりませぬ▲乙「申し申し業平様▲シテ「何ぢや▲乙「わたしやお前がいとしい▲シテ「是は迷惑な事ぢや▲カサ「それよそれよ、先づのがれた、うるさやうるさや{ト云て傘を持て入なり}▲乙「お前とわらわとは五百八拾年万々年もつれそいませうぞ▲シテ「あゝこりやこりや、人が見るわいやい、おのれがやうな者は、かうしておいたがよい、如何に業平ぢやといふて、あれが何となる者ぢや▲乙「のふ是、どこへゆかつせあるゆかつせある{ト云て追込此類同断なり口伝}

校訂者注
 1・5・20・21:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
 2:底本は、「御意被成る通り」。
 3:底本、ここに「▲カサ「」がある(略す)。
 4:底本は、「古歌ぢわいやい」。
 6・7:底本は、「轡(こし)」。
 8:底本は、「三宝を以て」。
 9:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
 10:底本は、「道理々(だうり(二字以上の繰り返し記号))」。
 11:底本は、「価をちもせぬ」。
 12:底本は、「誠う」。
 13:底本は、「殿方(どなた)」。
 14:底本は、「其折か」。
 15:底本は、「仕方しかた」。
 16:底本は、「それた」。
 17:底本は、「存しますれ共」。
 18:底本は、「馳走かましい」。
 19:底本は「笑ふ」。但し、ト書きと同じ大きさの活字で縦一行書き。
 22:底本は、「随身々(ずいしん(二字以上の繰り返し記号))」。
 23:底本は、「沓持々」。
 24:底本は、「杯」。