鞍馬聟(くらまむこ)(初番物)

▲アト「この辺りの者でござる。某(それがし)、娘を両人持つてござる。姉は、鞍馬へ四、五年以前、嫁入りさせてござる。妹は、当春近所へ縁付け致させてござる。近所故、聟殿も度々、見舞うてくれらるゝ。又、鞍馬の聟は、殊の外渡世に精を出されて隙惜しみ故、終に身共が方へ参られぬが、今日(けふ)、聟入せう。とある内意を申し越された。太郎冠者を呼び出し、申し付くる事がござる。
{と云ひて、呼び出す。常の如し。}
汝呼び出す、別の事でない。鞍馬の聟殿が、初めて見ゆる筈ぢや。云ひ付けて置いた物は、皆用意が出来たか。
▲小アト「中々。悉く用意致いてござる。
▲アト「一家衆も、皆見舞はるゝ筈ぢや。何(いづ)れも見えたらば、この方へ申せ。
▲小アト「畏つてござる。
▲シテ「鞍馬の山の麓に住居(すまひ)する者でござる。京に舅を持つてござる。女共が参つてから、四、五年にもなれども、何かと渡世が忙しうて、え聟入致さぬ。女共が気の毒がつて、度々せがめども、とかく一日、隙(ひま)に致す事がならぬによつて、延引致す。今日(けふ)は幸ひ、京の得意衆へ用事がある。その序に聟入を致さう。と存ずる。さりながら、只も参られまい。と存じて、貴船(きぶね)の谷水で造つた銘酒を調(とゝの)へて参つた。これに、木の芽漬・山椒の皮を取り添へて、女共と同道して上(のぼ)らう。と存ずる。まづ、身拵へを致さう。
▲京聟「この辺りの者でござる。今日(けふ)は、女共が里へ、鞍馬の姉聟が初めて見ゆる程に、勝手へ取り持ちに来てくれい。と、頼うで参つたによつて、今朝(こんてう)より女共も参つてござる。某も、只今参らう。と存ずる。誠に、鞍馬からは遠方でござるによつて、定めて遅うなるでござらう。さりながら、早う参つて世話を致さう。と存ずる。参る程に、これぢや。
{と云ひて、案内乞ふ。出るも、常の如し。}
某ぢや。参つた通りを申せ。
▲小アト「その由、申しませう。暫くお待ちなされませ。
▲京「心得た。
▲小アト「申し上げます。おいちや様の聟殿が、お出でござる。
▲アト「何ぢや。おいちやの聟殿がわせたか。
▲小アト「左様でござる。
▲アト「かう通らせられい。と云へ。
▲小アト「畏つてござる。かうお通りなされませ。
▲京「心得た。今日は、めでたうござる。
▲アト「その通りでござる。鞍馬からは、程も遠うござれば、追つ付け参らるゝでござらう。まづ、奥へ通らせられて、何か見繕うて下されい。
▲京「それならば、台所へ参つて、世話を致しませう。
▲アト「万事、頼みまする。
▲京「心得ました。
▲女「これはいかな事。殊の外、道ばかゞ行きませぬ。あの方にも、待つてゐられませう。なうなう、もそつと急がせられい。
▲シテ「やれやれ、忙(せは)しう仰(お)せある。殊の外重うて、中々早うは歩かれぬ。まづ、ちと休まう。
▲女「人を一人(いちにん)いとはせらるゝによつて、妾(わらは)にも土産物を持たせ、そなたには辛労をさせらるゝ。その上、外聞悪い。聟入に、その様な形(なり)をして。早(はや)、程はござらぬが、何とさせらるゝ。
▲シテ「そなたは又しても又しても、その様な事を仰(お)せある。世に大切な物は、渡世ぢや。今日(けふ)の聟入に、内外の物入りは、何程の事ぢやと思はします。沢山さうに人を連れてはなりませぬ。
▲女「それでもそなたが、目口はだけて気張り廻つて、まづ見苦しい。顔の汗もふかせられい。
▲シテ「見苦しうて嫌ならば、そなたを去るまでの事ぢや。
▲女「どこにか聟入の道で、その様な忌々しい事を云ふものでござるか。
▲シテ「身共は嘘を云うたり、人にへつらう事は嫌いぢや。
▲女「何かと云ふ内に、これでござる。
▲シテ「こゝか。
▲女「中々。
▲シテ「こゝは、勝手が悪いが、是非に及ばぬ。この材木をこゝにおろして置いて、戻りがけに先へ届けう。
▲女「妾(わらは)は直(すぐ)に奥へ通りまする。そなたはちと休んで、袴の皺を伸ばして、取り繕うて出させられい。
▲シテ「心得た。
▲女「太郎冠者、来たわ。
▲小アト「ようお出なされました。
▲女「これは、土産ぢや。父様にお目に掛けてくれい。
▲小アト「畏つてござる。
▲女「父様、参りましてござる。
▲アト「おごう、ようおりあつた。
▲女「今日(けふ)は、めでたうござる。
▲アト「その通りでおりある。
▲小アト「これは、お持たせでござる。
▲アト「これは、夥(おびたゞ)しい持たせでおりある。扨、聟殿は。
▲女「定めて表に袴がな着てゐらるゝでござらう。
▲アト「太郎冠者、かう通らせられい。と云へ。
▲小アト「畏つてござる。申し申し、お前は鞍馬の聟殿でござるか。
▲シテ「まづ、その様な者ぢや。
▲小アト「かうお通りなされい。と申しまする。
▲シテ「心得た。不案内にござる。
▲アト「初対面でござる。
▲シテ「早々参らうを、何かと延引致してござる。
▲アト「只今は、夥しいお持たせ、過分にござる。
▲シテ「初めから何事も心安づくと申す御約束故、心ばかりでござる。
▲アト「供の衆が大勢あらう。勝手へ通して、休息せらるゝ様にしたらば良からう。
▲シテ「いやいや。大勢供を連れましたれども、ちと忘れた物があつて、取りに帰しました。
▲アト「大勢のお供を、皆お帰しなされたか。
▲シテ「かたみうらみの無い様に、皆帰してござる。
▲アト「おごう、そなたの妹聟が来て居らるゝ。聟殿と近付きにせう。
▲女「一段と良うござらう。
▲アト「太郎冠者。おいちやの聟殿に、出させられい。と云へ。
▲小アト「畏つてござる。申し、あれへお出なされませ。
▲京「心得た。これは、鞍馬の聟殿。ようお出なされた。
▲シテ「南無三宝。これは、もつけな所へ出くはした。何としたものであらう。
▲アト「おごう。聟殿は、何やら慌たゞしく立たせられた。太郎冠者を見せにやらう。
▲女「妾が見て参りませう。なうなう、何とさせられた。
▲シテ「そなたは知るまい。今出た聟殿は、身共と殊の外、差し支へがある。
▲女「それは、何事でござる。
▲シテ「いつぞや、あの人は、身共が所へ材木を買ひにわせた。口でぼつてともてなし、材木を売り付けて置いた。又、外からもその木を望まれて、値段も高直(かうぢき)にあつたによつて、この方へ遣つて、あの人の方へは、少し細い材木を渡したれば、約束をした木とは違うた。と云うて、さんざん悪口せられた。身共もむつけりと腹が立つて、気に入らずば売らぬまでぢや。と云うて、余程喧嘩をしたによつて、面目がない。良い様に云うてたもれ。身共は帰る。
▲女「これはいかな事。それは、そなたの余り欲が深いによつて、その様な事でござる。と云うて、一門に違ひはなし、一生出合(であは)ぬ事もなりますまい。妹も参つてゐまするによつて、妾が云ひ訳をしませう。知らぬ振りで出させられい。
▲シテ「でも、面(おもて)が合(あは)しにくい。いや、思ひ出した。顔を虫にさゝれて痛むによつて、薬を付けに立つた。と云うておかしめ。取り繕うて出ようぞ。
▲女「どうしてなりとも、早う出させられい。
▲シテ「心得た。
▲女「いや。見ましたれば、顔を虫がさいて痛む。と云うて、薬を付けに立たれたさうにござる。追つ付け、これへ出られます。
▲シテ「京の聟殿、初対面でござる。
▲京「今日(こんにち)は、めでたうござる。
▲アト「只今は、何とさせられた。
▲シテ「只今、顔がしくしく致してござるによつて、驚いて次へ立ちましたれば、山蜂が一疋とまつてゐました。やがて蜂を払ひ落として、跡へ薬を付けまして、見苦しうござらう。暫く御宥免なされませ。
▲アト「それは、苦しからぬ事でござる。太郎冠者、盃を出せ。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「何と、それへ参らぬか。
▲シテ「まづ、参つて下され。
▲アト「たべて進じませう。太郎冠者、つげ。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「扨、これを聟殿へ進じませう。
▲シテ「頂きませう。
▲アト「幾久しう、めでたうござる。
▲シテ「その通りでござる。
▲アト「めでたう諷(うた)はせられい。
▲京「心得ました。
▲シテ「辛し、辛し。茨を逆茂木にする様な酒ぢや。
▲アト「辛うて悪くば、甘いのを進じませうか。
▲シテ「いや。私は、この辛いが好きでござる。もう一つ、給(た)べませう。
▲アト「扨々、聟殿が機嫌良う酒を参つて、悦ぶ事ぢや。
▲シテ「扨、これを、舅殿へ進じませう。
▲アト「これへ下されい。
▲京「いや。お近付きのため、お間(あひだ)で私、戴きませう。
▲アト「それは、良うござらう。遣はされませ。
▲シテ「それならば、慮外ながら進じませう。
▲京「戴きませう。
▲シテ「給(た)べよごしてござる。
▲京「めでたうござる。
▲シテ「扨、舅殿は、果報人でござる。両人の娘達を仕付けさせらるゝ。やがて大勢、孫を見させられう。良いお楽しみでござらう。
▲アト「おごうがそれへ参つてから、余程になりまするが、まだ孫の沙汰もござらぬ。
▲シテ「いや。この中(ぢゆう)は、しきりに青梅を好うで給(た)べられまする。只事ではござりますまい。
▲女「何を、訳もない事を云はせらるゝ。
▲アト「それは、耳よりでござる。
▲京「扨、これを上げませう。
▲シテ「これへ下され。
▲京「たべよごしてござる。
▲シテ「めでたうござる。
▲アト「おいちやの聟殿、めでたうひとさし舞はせられい。
▲京「心得ました。
▲アト「良いや、良いや。
▲シテ「面白さうな事でござる。遅なはりました。舅殿へ進じませう。
▲アト「これへ下され。
▲シテ「慮外でござる。
▲アト「一つ、受け持ちました。聟殿、何ぞ肴が所望でござる。
▲シテ「肴は何もござらぬが。いや、ござる、ござる。これこれ。これは、鞍馬の名物、木の芽漬。京の聟殿へは、山椒の皮。名物でござる。何と、良い肴でござらう。
▲アト「いやいや、この事ではござらぬ。肴に何ぞ、立ち姿が見たうござる。
▲シテ「私は、つゝと不調法にござるが。
▲アト「何でも苦しうござらぬ。ちよつと立ち姿が見たうござる。
▲シテ「立ち姿。成程、仕(つかまつ)りませう。
▲アト「それは、忝うござる。
▲シテ「さあさあ、手伝うてたもれ。
▲女「何をさせらるゝ。
▲シテ「立ち姿を所望ぢや。とある。好物の相撲を取る。
▲女「訳もない事を云はせらるゝ。置かせられい。
▲シテ「そなたが何を知つて。早うぬがせ。やあ、おてつ。一番参らう。
▲アト「これはこれは。聟殿は、相撲が好きさうな。扨々、気さくな人ぢや。いやも、お肴には及ばぬ。元の座敷へ直らせられい。
▲シテ「舅殿。それは、御卑怯でござる。鞍馬に於いては、誰彼と撰(え)つた某ぢや。相手には構はぬ。さあさあ、出させられい。
▲女「人を取つて投げて、何の手柄になりまする。平(ひら)に置かせられい。
▲シテ「おのれが差し出る事はない。すつこうでゐよ。
▲京「それならば、身共がお相手になりませう。
▲シテ「いやいや。あの人は、相手に不足な。
▲京「太郎冠者、行司をせい。
▲小アト「畏つてござる。
▲シテ「待たしめ。後(のち)に取りませう。
▲アト「扨もあぶない。怪我はないか。おごう、おみあれ。
▲女「これぢやによつて、おかせられい。と云ふに。何処(どこ)も痛みはしませぬか。
▲シテ「身共が力を見ておけ。
▲アト「危ない、危ない。まづ、待たせられい、待たせられい。
▲女「ゑゝ、恥知らず。これは、悲しい事ぢや。危ない。早う逃げさせられい、逃げさせられい。
▲シテ「せめて、おのれなりとも、只は置くまい。
▲小アト「私でござります。私でござる。
{と云ひて、太郎冠者を材木にて追ひ込み、入るなり。}

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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鞍馬聟(クラマムコ)(初番物)

▲アト「此辺りの者で御座る、某娘を両人持て御座る、姉は鞍馬へ四五年以前嫁入りさせて御座る、妹は当春近所へ縁付いたさせて御座る、近所故聟殿も度々見舞うて呉らるゝ又鞍馬の聟は殊の外渡世に精を出されて隙惜みゆへ、終に身共が方へ参られぬが、今日聟入せうと有る内意を申し越された、太郎冠者を呼出し申し付くる事が御座る{ト云て呼出す如常}汝呼出す別の事でない鞍馬の聟殿が初て見ゆる筈ぢや、云ひ付けて置いた物は、皆用意が出来たか▲小アト「中々悉く用意致て御座る▲アト「一家衆も皆見舞るゝ筈ぢや、何れも見へたらば此方へ申せ▲小アト「畏つて御座る▲シテ「鞍馬の山の麓に住居する者で御座る、京に舅を持つて御座る、女共が参つてから四五年にもなれ共何かと渡世が忙しうてゑ聟入致さぬ、女共が気の毒がつて度々せがめ共、兎角一日隙に致す事がならぬに依つて、延引致す今日は幸ひ京のとくい衆へ用事が有る、其序に聟入を致さうと存ずる乍去、唯も参られまいと存じて、貴船の谷水で造つた銘酒を調て参つた、是に木の芽漬山椒の皮を取添て、女共と同道して上らうと存ずる、先づ身拵を致さう▲京聟「此あたりの者で御座る、今日は女共が里へ、鞍馬の姉聟が初て見ゆる程に勝手へ取持に来て呉いと頼うで参つたに依つて、今朝より女共も参つて御座る、某も唯今参らうと存ずる、誠に、鞍馬からは遠方で御座るに依つて、定て遅う成で御座らう乍去、早う参つて世話を致さうと存ずる、参る程に是ぢや{ト云て案内乞出るも如常{*1}}{*2}某ぢや参つた通りを申せ▲小アト「其由申しませう、暫お待ち被成ませ▲京「心得た▲小アト「申し上げますおいちや様の聟殿がお出で御座る▲アト「何ぢやおいちやの聟殿がわせたか▲小アト「左様で御座る▲アト「斯う通らせられいといへ▲小アト「畏つて御座る、かうお通り被成ませ▲京「心得た、今日は目出たう御座る▲アト「其通りで御座る鞍馬からは程も遠う御座れば、追付参らるゝで御座らう、先づ奥へ通らせられて、何か見繕て下されい▲京「夫ならば台所へ参つて世話を致しませう▲アト「万事頼まする▲京「心得ました▲女「是はいかな事、殊の外道ばかが行ませぬ、あの方にも待つてゐられませう、なうなう最そつと急がせられい▲シテ「やれやれせわしうおせある、殊の外重うて、中々早うは歩れぬ、先づちと休まう▲女「人を一人いとはせらるゝに依つて、妾にも土産物を持たせ、そなたには辛労をさせらるゝ、其上外聞わるい聟入に其様ななりをして、早程は御座らぬが、何とさせらるゝ▲シテ「そなたは又しても又しても其様な事をおせある、世に大切な物は渡世ぢや、けふの聟入に内外の物入は何程の事ぢやと思はします、沢山そうに人を連れては成ませぬ▲女「夫でもそなたが、目口はだけて気張廻つて、先づ見苦敷い顔の汗もふかせられい▲シテ「見苦敷ていやならばそなたを去る迄の事ぢや▲女「どこにか聟入の道で、其様ないまいましい事をいふもので御座るか▲シテ「身共は嘘を云ふたり、人にへつろう事は嫌いぢや▲女「何彼といふ内に是で御座る▲シテ「爰か▲女「中々▲シテ「爰は勝手がわるいが、是非に及ぬ此材もくを爰におろして置いて戻りがけに先ゑ届けう▲女「妾は直に奥へ通りまする、そなたはちと休んで袴のしはをのばして、取繕ふて出させられい▲シテ「心得た▲女「太郎冠者きたは▲小アト「ようお出なされました▲女「是は土産ぢや、父様にお目に掛けて呉い▲小アト「畏つて御座る▲女「父様参りまして御座る▲アト「おごう{*3}ようおりあつた▲女「けふは目出たう御座る▲アト「其通りでおりある▲小アト「是はお持たせで御座る▲アト「是は夥敷い持せでおりある、偖聟殿は▲女「定て表に袴がな着てゐらるゝで御座らう▲アト「太郎冠者かう通らせられいといへ▲小アト「畏つて御座る、申し申し、お前は鞍馬の聟殿で御座るか▲シテ「先づ其様な者ぢや▲小アト「かうお通りなされいと申しまする▲シテ「心得た、不案内に御座る▲アト「初対面で御座る▲シテ「早々参らうを何かと延引致て御座る▲アト「唯今は夥敷いお持たせ過分に御座る▲シテ「初めから何事も心易づくと申すお約束ゆへ、心斗りで御座る▲アト「供の衆が大勢有らう勝手へ通して休息せらるゝ様にしたらばよからう▲シテ「いやいや大勢供を連れましたれ共ちと忘た物が有つて取に帰しました▲アト「大勢のお供を皆お帰しなされたか▲シテ「かたみうらみの無い様に、皆帰して御座る▲アト「おごうそなたの妹聟が来て居らるゝ、聟殿と近付にせう▲女「一段とよう御座らう▲アト「太郎冠者、おいちや{*4}の聟殿に出させられいといへ▲小アト「畏つて御座る申しあれへお出なされませ▲京「心得た、是は鞍馬の聟殿ようお出なされた▲シテ「南む三宝、是はもつけな所へ出くはした、何とした者で有らう▲アト「おごう聟殿は、何やらあわたゞ敷立たせられた、太郎冠者を見せにやらう▲女「妾が{*5}見て参りませう、なうなう何とさせられた▲シテ「そなたは知るまい、今出た聟殿は身共と殊の外差支がある▲女「夫は何事で御座る▲シテ「いつぞやあの人は、身共が所へ材木を買にわせた{*6}、口でぼつてともてなし、材木を売り付けて置いた、又外からも其木を望れて、値段も高直に有つたに依て、此方へ遣つて、あの人の方へは少し細い材木を渡したれば、約束をした木とは違うたと云ふて、さんさん悪口せられた、身共もむつけりと腹が立つて、気に入らずば売らぬ迄ぢやと云ふて、余程喧嘩をしたに依て、面目がないよい様に云ふてたもれ身共は帰る▲女「是はいかな事、夫はそなたの余り欲が深いに依つて其様な事で御座る、兎云ふて一門に違はなし、一生出合ぬ事も成ますまい、妹も参てゐまするに依つて、妾が云ひ訳をしませう、知らぬ振りで出させられい▲シテ「でも面が合しにくい、いや思ひ出した{*7}顔を虫にさゝれて痛むに依つて、薬を付に立つたと云ふておかしめ、取繕うて出うぞ▲女「どうして成共、早う出させられい▲シテ「心得た▲女「いや見ましたれば、顔を虫がさいて痛むと云ふて、薬を付に立たれたさうに御座る、追付是へ出られます▲シテ「京の聟殿初対面で御座る▲京「今日は目出たう御座る▲アト「唯今は何とさせられた▲シテ「唯今顔がしくしく致して御座るに依つて、驚て次へ立ちましたれば山蜂が一疋とまつてゐました、頓て蜂を払い落して跡へ薬を付まして見苦敷う御座らう、暫く御宥めん被成ませ▲アト「夫は苦しからぬ事で御座る、太郎冠者盃を出せ▲小アト「畏つて御座る▲アト「何とそれへ参らぬか▲シテ「先づまいつて下され▲アト「たべて進じませう、太郎冠者つげ▲小アト「畏つて御座る▲アト「偖是を聟殿へ進じませう▲シテ「いたゞきませう▲アト「幾久敷う目出たう御座る▲シテ「其通で御座る▲アト「目出たう諷はせられい▲京「心得ました▲シテ「からしからし、茨を逆もぎにする様な酒ぢや▲アト「辛うてわるくば、甘いのを進じませうか▲シテ「いや私は此からいが好で御座る、最一ツ給べませう▲アト「偖々聟殿が機嫌よう酒を参つて悦ぶ事ぢや▲シテ「偖是を舅どのへ進じませう▲アト「是へ下されい▲京「いやお近付の為お間で私戴きませう▲アト「夫はよう御座らう遣はされませ▲シテ「夫ならば慮外ながら進じませう▲京「戴きませう▲シテ「給べよごして御座る▲京「目出たう御座る▲シテ「偖舅殿は果報人で御座る、両人の娘達を仕付させらるゝ、頓て大勢孫を見させられう、よいお楽で御座らう▲アト「おごうが夫へ参てから余程に成まするが、まだ孫の沙汰も御座らぬ▲シテ「いや此中はしきりに青梅を好うで給べられまする、只事では御座りますまい▲女「何を訳もない事をいはせらるゝ▲アト「夫は耳よりで御座る▲京「偖是を上げませう▲シテ「是へ下され▲京「たべよごして御座る▲シテ「目出たう御座る▲アト「おいちやの聟殿、目出たう一さし舞はせられい▲京「心得ました▲アト「よいやよいや▲シテ「面白さうな事で御座る、遅なはりました、舅殿へ進じませう▲アト「是へ下され▲シテ「慮外で御座る▲アト「一つ請け持ちました、聟殿何ぞ肴が所望で御座る▲シテ「肴は何も御座らぬが、いや御座る御座る、是々、之は鞍馬の名物木の芽漬、京の聟殿へは山椒の皮名物で御座る、何とよい肴で御座らう▲アト「いやいや此事では御座らぬ、肴に何ぞ立姿が見たう御座る▲シテ「私はつゝと不調法に御座るが▲アト「何でも苦敷う御座らぬ、ちよつと{*8}立姿が見たう御座る▲シテ「立姿、成程仕ませう▲アト「夫は忝う御座る▲シテ「さあさあ手伝うてたもれ▲女「何をさせらるゝ▲シテ「立姿を所望ぢやとある、好物の相撲を取る▲女「訳もない事をいはせらるゝ、おかせられい▲シテ「そなたが何を知つて、早うぬがせやあおてつ一番参らう▲アト「是は是は、聟殿は相撲がすきさうな、偖々気さくな人ぢやいやもお肴には及ばぬ、元の座敷へ直らせられい▲シテ「舅殿夫は御ひ怯で御座る、鞍馬に於ては誰彼と撰た某ぢや、相手には構はぬ{*9}、さあさあ出させられい▲女「人を取つて投て、何の手柄に成まする、ひらにおかせられい▲シテ「おのれが差出る事はない、すつこうでゐよ▲京「夫ならば身共がお相手に成ませう▲シテ「いやいやあの人は相手に不足な▲京「太郎冠者行司をせい▲小アト「畏つて御座る▲シテ「待たしめ、後に取ませう▲アト「偖もあぶない怪我はないか、おごう{*10}おみあれ▲女「是ぢやに依つておかせられいと云ふに何処も痛はしませぬか▲シテ「身共が力を見ておけ▲アト「あぶないあぶない、先づ待たせられい待たせられい▲女「ゑゝ恥知らず、是はかなしい事ぢや、あぶない早う逃させられい、逃させられい▲シテ「責ておのれ成共唯は置くまい▲小アト「私で{*11}御座ります{*12}私で御座る{ト云て太郎冠者を材木にて追込み入るなり。}

校訂者注
 1:底本は、「常如」。
 2:底本、ここに「▲京」がある(略す)。
 3・10:底本は、「おこう」。
 4:底本は、「おちいや」。
 5:底本7は、「妾か」。
 6:底本は、「買にかわせた」。
 7:底本は、「思ひ出しだ」。
 8:底本は、「寸渡(ちよつと)」。
 9:底本は、「搆(かま)はぬ」。
 11:底本は、「私て」。
 12:底本、ここに「▲小アト」がある(略す)。