鳴子(なるこ)(二番目 三番目)
▲アト「この辺りの者でござる。当年は、充分の世の中で、諸国ともに悦ぶ事でござる。いつも稲に実の入る時分は、村鳥が荒す。両人の者を呼び出し、山田へ村鳥を追ひに遣はさう。と存ずる。
{と云ひて、二人とも呼び出す。但し、常の如く、両人を分けて呼び出すもあり。}
汝等を呼び出す、別の事でない。何と、当年は諸国ともに、豊年ぢや。と云うて、悦ぶではないか。
▲シテ「御意なさるゝ通り、当年は、世並(よなみ)が良うござる。別して、頼うだお方の田は、畦(あぜ)を限つて穂に穂が咲いて、この様なおめでたい事は。なあ、次郎冠者。
▲小アト「それそれ。
▲二人「ござりませぬ。
▲アト「それに付いて、いつも稲に実の入る時分は、村鳥が渡る。余所(よそ)の田にも、村鳥を追ふ音がする。汝等、今日(けふ)は山田へ村鳥を追ひに行(い)てくれい。
▲シテ「畏つてはござれども、鳥を追ふ程の事は、女童(わらべ)でも済む事でござる。私どもは、肩に棒を置きまするか、俵物(へうもつ)を背負ふか、私どもでなければならぬ事を、仰せ付けられませ。なあ、次郎冠者。
▲小アト「何(いづ)れ、田ばかり作らせらるゝではござらず、畑も大分持たせられてござるによつて、私どもは畑へ参つて、地をおこしませう。
▲アト「尤なれども、山田へは、猪(しゝ)・猿などが出るによつて、中々女童などは、遣つては置かれぬ。とかく、汝等行(い)てくれい。
▲シテ「左様ならば、両人の内、一人(いちにん)参りませう。
▲アト「いやいや。一人では、話の相手もなうて、淋しからう。とかく、両人行け。
▲シテ「それならば、畏つてござる。
▲アト「それに待て。
{と云ひて、鳴子を持ちて出る。}
こりあこりあ。この鳴子を遣らう程に、左右の稲木へ結ひつけて、油断をせぬ様に、鳥を追うてくれい。
▲シテ「その段は、そつともお気遣ひなされますな。
▲アト「扨、当分、稲を刈つて入れて置かう。と思うて、庵(いほり)を拵へて置いた。折々は、それへ入(はい)つて休息せい。
▲二人「畏つてござる。
▲アト「急いで行け。
{常の如く、詰める。二人、受ける。}
▲シテ「やいやい、次郎冠者。何と、変つた事を云ひ付けられたではないか。
▲小アト「何(いづ)れ、身共には似合(にあは)ぬ用を云ひ付けられた。
▲シテ「追つ付け、行かう。さあさあ、来い来い。
▲小アト「心得た。
▲シテ「頼うだお方は、仕合(しあは)せな人ぢや。近年不作といふ事がない。殊に、当年は充分に出来たによつて、夥(おびたゞ)しい米持ちにならるゝ。
▲小アト「これといふも、日頃、こち衆が精を出す故ぢや。
▲シテ「何かと云ふ内に、山田ぢや。
▲小アト「誠に、山田へ来た。
▲シテ「扨も扨も、よう稲に実が入つたではないか。
▲小アト「皆、傾いた。もはや、苅つても良からう。
▲シテ「頼うだ人が、昨日(きのふ)暦を出して見て、四、五日の内に、田苅り良し。といふ日がある。と仰(お)せあつた。油断はあるまいぞ。
▲小アト「さうであらう。
▲シテ「やいやい、次郎冠者。たくましい庵(いほり)を立てられたではないか。
▲小アト「何(いづ)れ、夥しい庵を立てられた。
▲シテ「田を苅つて、この庵へ入れて置いたらば、稲木にかけて置くと違うて、よう干(ひ)るであらう。
▲小アト「何(いづ)れ、雨露(うろ)を凌(しの)いで、よう干るであらう。
▲シテ「まづ、急いで鳴子を付けう。
▲小アト「一段と良からう。
▲シテ「身共はこれへ付けう。そなたは、あの稲木へ付けさしませ。
▲小アト「心得た。
{と云ひて、脇柱と目付柱へ付くるなり。}
▲シテ「いか様、この様に良う出来た田を、村鳥に荒さるゝは、勿体ない事ぢや。
▲小アト「あれあれ、余所(よそ)の田にも村鳥を追ふやら、鳴子の音がするわ。
▲シテ「いやいや。人をえ遣はぬ者は、手が廻らぬぞいやい。
▲小アト「成程、それ故に、鳥を追うてゐる田は、少々ならでは見えぬ。
▲シテ「ありやありや、鳥が渡るわ。
▲小アト「追へ、追へ。
{「ほうほう」と云ひて、鳴子を引き、笑ふ。}
▲シテ「いか様、愚かなものぢや。両人の声と鳴子の音に怖(お)ぢて、皆、よその田へ下りた。
▲小アト「皆、森より下へおりたさうな。
▲シテ「朝から晩まで、鳥が渡り続けもせまい。暫く、庵へ入(はい)つて休まう。
▲小アト「それも良からう。
▲シテ「庵の柱に、鳴子の縄を止めておかしめ。
▲小アト「心得た。
{アト、橋懸りへ立つ。}
▲アト「両人の者を、山田へ村鳥を追ひに遣はしてござる。退屈するでござらう。樽を持参して、酒を飲ませう。と存ずる。
▲小アト「あの茂みから、まつ黒になつて村鳥が来るわ。
▲シテ「あれは、こちへは来はせまい。
▲小アト「何(いづ)れ、森を越すさうな。
▲シテ「ありやありや。後(あと)へ戻るわ。
▲小アト「追へ、追へ。
{二人、「ほうほう」と云ひて、追ふ。}
▲アト「鳥を追ふやら、鳴子の音が聞こゆる。やいやい、太郎冠者、次郎冠者。
▲シテ「ゑい、頼うだお方。これは、何としてお出なされました。
▲アト「退屈せう。と思うて、酒を持つて、見舞ひに来た。
▲シテ「それは、ありがたう存じまする。
▲アト「何と、鳥が渡るか。
▲シテ「夥しう渡りまして、少しも油断はなりませぬ。
▲アト「近頃、大儀ぢや。身共は帰る程に、この酒を、折々呑うで、泊まり鳥の渡り仕舞ふまで追うて、暮れに及うでから戻れ。
▲二人「畏つてござる。
▲アト「もはや、行くぞ。
▲シテ「御苦労に存じまする。
{アト、楽屋へ入るなり。}
やいやい、次郎冠者。何と、結構なお方ではないか。
▲小アト「何から何まで、お気の付かせらるゝお方ぢや。
▲シテ「夜も日も寝ずに鳥を追へ。と仰せられても、主命なれば、是非がないに。あのお慈悲の深いお主(しゆ)を悪う思うたらば、罰が当たらう。
▲小アト「必ず、冥加に尽きるであらう。
▲シテ「扨、呑みたいではなけれども、頼うだ人の志ぢや。一つ、呑まうか。
▲小アト「一段と良からう。
▲シテ「まづ、盃をお出しあれ。
▲小アト「心得た。さあさあ、盃をとつて来た。
▲シテ「そなたと云ひたけれども、身共から始めう。
▲小アト「一段と良からう。
▲シテ「ついでくれさしめ。
▲小アト「心得た。
▲シテ「扨も扨も、良い酒ぢや。そなたへさゝう。
▲小アト「頂かう。
▲シテ「身共がついでやらう。
▲小アト「これは、慮外でおりある。
▲シテ「何と、良い酒であらうが。
▲小アト「これは、念の入れられたやら、良い酒ぢや。
▲シテ「その通りぢや。
▲小アト「そなたへ戻さう。
▲シテ「どれどれ。これへくれさしめ。
▲小アト「ちと、謡はうか。
▲シテ「一段と良からう。
{と云ひて、小謡あるべし。こゝにて、二人とも、小舞舞ふ事あり。云ひ合せ次第にすべし。}
又、そなたへさゝう。
▲小アト「頂かうぞ。
{又、小謡あり。}
呑めば呑む程、良い酒ぢや。又、そなたへさゝう。
▲シテ「頂かう。
▲小アト「そりやそりや、鳥が渡るわ。
▲シテ「誠に、この田へおりる。
▲二人「追へ、追へ。
{と云ひて、追ふなり。}
▲シテ「扨々、油断をした。
▲小アト「その通りぢや。
▲シテ「この鳴子縄を、両人の腰に付けて置くまいか。
▲小アト「それが良からう。
{と云ひて、腰に付くる。仕方ばかりなり。}
▲シテ「さあさあ、ついでたもれ。
▲小アト「心得た。
▲シテ「これは、面白うなつたが、何と両人、連れ舞にせうか。
▲小アト「一段と良からう。
▲シテ「{*1}引く引く引くとて。
▲二人「鳴子は引かで。あの人の殿(との)引く。神の前には御注連(みしめ)縄引く。仏の前には善の縄引く。橋の下をば上(のぼ)り舟引く。危ふき所を下りて駒引く。われらはこゝにて鳴子引く。
{二人、笑ふ。}
▲シテ「扨々、面白い事ぢや。
▲小アト「その通りぢや。
▲シテ「又、そなたへさすぞ。
▲小アト「どれどれ、頂かう。
{小謡あり。}
又、わごりよへ戻さう。
▲シテ「身共は、余程過ごいた。
▲小アト「何の、過ぐるものぢや。献(こん)が悪い。是非とも、もう一つお呑みあれ。
▲シテ「それならば、軽うついでおくれあれ。
▲小アト「恰度(ちやうど)、恰度。
▲シテ「おゝ、あるある。扨も、呑うだり呑うだり。夥しう呑うだ。
▲小アト「身共も、良い機嫌になつた。
▲シテ「中々。これでは、鳥が渡るやら、渡らぬやら知れぬ。
▲小アト「その通りぢや。
▲シテ「身共が思ふは、鳥を追ひ追ひ鳴子を引いて、小拍子にかゝつて謡はう。と思ふが、何とあらう。
▲小アト「これは、猶面白からう。
▲シテ「それならば、盃もお取りあれ。
▲小アト「心得た。
▲シテ「さあさあ、謡へ、謡へ。
▲小アト「心得た、心得た。
▲シテ「{*2}上の山から。
▲二人「鳥が来るやらう。花が散り候(そろ)。いざゝらば、鳴子をかけて、ほうほう。
{*3}花の鳥追ふ。《ノル》見目が良いとて人は引けど。神の御注連(みしめ)か。琴か琵琶か茶臼か。舟か車か子(ね)の日(び)か鳴子か。明け方の雲か、扨は又、大もちが浦のあみ候(ぞろ)か。しや主(ぬし)の候(そろ)もの。《ノル》山田作れば庵寝する。寝(ぬ)るれば夢を見る。覚むれば鹿の音を聞く。《小歌》寝にくの枕や。寝にくの庵(いほ)の枕や。《ノル》麦搗(つ)く里の名にも。逢はで浮名の名取川。からおとの杵(きね)の音も何(いづ)れとも思はぬ。陸(みち)の国の武隈(たけくま)の松の葉や。衣の関や壺の石ぶみ。外の浜風更け行く月に。嘯(うそむ)く浦舟は魚取る。網を引けば鳥取る。鷹野に犬引く。《吟変》何よりも何よりも。契りの名残は有明の。別れ催す東雲(しのゝめ)の。山白(しら)む横雲は、引くぞ恨みなりける。《ノル》いざ引く物を謡はんや、いざ引く物を謡はん。春の小田には苗代水引く。秋の小田には鳴子引く。名所は都に聞こえたる。安達ケ原のしらま弓も、今この小田に止(とゞ)めた。浅香の沼には加津見草。信夫(しのぶ)の里にはもぢずり石。思ふ人に引かで見せばや、姉輪の松のひと枝。塩釜の浦に雲晴れて。誰も月を松嶋や。平泉は面白や。《上和》いとゞ暮れ行く秋の夜の。月出るまで隙なきを。いざ、さし置きて休まん。いざ、さし置きて休まん。
{二人とも、鳴子縄を解き、持ち入れて寝るなり。}
{但し、太郎冠者は、樽を枕にして寝るなり。次郎冠者は、盃を枕にして寝るなり。}
▲アト「もはや、日が暮れて余程間もあるに、両人とも帰らぬ。心元ない。山田へ参つて、連れて帰らう。と存ずる。合点の行かぬ事ぢや。今まで鳥が渡らう様もないが。もし、狐狸に化されはせぬか。何をして居る事ぢや。これはいかな事。月夜陰(つきよかげ)に見れば、両人とも、田の中に正体もなう寝てゐる。太郎冠者、次郎冠者。えゝ、熟柿臭やの、熟柿臭やの。酒に酔うて、日の暮れたも知らぬ。やいやいやい、そこなやつ。
▲小アト「やい、太郎冠者。鳥が渡るぞ。
{と云ひて起き、主を見て、驚き逃げる。}
▲アト「何をぬかし居る。
{シテは樽、小アトは盃にて、「ほうほう」と云ひて追ふ。主を見て驚くなり。}
身共ぢやわいやい、身共ぢやわいやい。
▲シテ「えい、頼うだお方でござるか。お許されませ、お許されませ。
{と云ひて、二人とも逃げて入るなり。主、追ひ込み入る。}
校訂者注
1:底本、ここから「われらはこゝにて鳴子引」まで、傍点がある。
2:底本、ここから「いざさらば鳴子をかけて」まで、傍点がある。
3:底本、ここから「いざさしおきて休まん(二字以上の繰り返し記号)」まで、傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.)
鳴子(ナルコ)(二番目 三番目)
▲アト「此辺りの者で御座る、当年は充分の世の中で、諸国共に悦ぶ事で御座る、毎も稲に実の入る時分は、村鳥があらす、両人の者を呼出し、山田へ村鳥を追ひに遣はさうと存ずる{ト云て二人共呼出す但し如常両人を分て呼出すも有}{*1}汝等を呼出す別の事でない、何と当年は諸国共に豊年ぢやといふて、悦ぶではないか▲シテ「御意なさるゝ通り、当年は世なみがよう御座る、別して頼うだお方の田は、畦を限つて穂に穂がさいて、此様なお目出たい事は、なあ次郎冠者▲小アト「それそれ▲二人「御座りませぬ▲アト「夫に付て、いつも稲に実の入る時分は村鳥が渡る、余所の田にも村鳥を追ふ音がする、汝等けふは山田へ村鳥を追ひにいてくれい▲シテ「畏つては御座れ共、鳥を追う程の事は女わらべでもすむ事で御座る、私共は肩に棒を置まするか、俵物を背負うか、私共でなければならぬ事を、仰せ付けられませ、なあ次郎冠者▲小アト「いづれ田計り作らせらるゝでは御座らず、畑も大分持たせられて御座るに依つて、私共は畑へ参つて地をおこしませう▲アト「尤もなれ共、山田へはしゝ猿などが出るに依つて、中々女わらべ抔はやつては置れぬ、兎角汝等いて呉れい▲シテ「左様ならば両人の内一人参りませう▲アト「いやいや一人では咄の相手もなうて淋しからう、兎角両人行け▲シテ「夫ならば畏つて御座る▲アト「それにまて{ト云て鳴子を持て出る}{*2}こりあこりあ、此鳴子をやらう程に、左右の稲木へ結ひつけて、油断をせぬ様に鳥を追ふてくれい▲シテ「其段は卒都もお気遣ひなされますな▲アト「扨当分稲を刈つて入て置うと思ふて、庵りを拵へて置た、折々は夫へはいつて休息せい▲二人「畏つて御座る▲アト「急ひで行け{如常つめる二人請る}▲シテ「やいやい次郎冠者、何とかはつた事を言付けられたではないか▲小アト「何れ身共には似合ぬ用を言付られた▲シテ「追付け行かうさあさあこひこひ▲小アト「心得た▲シテ「頼うだ{*3}お方は仕合せな人ぢや、近年不作といふ事がない、殊に当年は充分に出来たに依つて、おびたゞしひ米持にならるゝ▲小アト「是といふも日頃{*4}こち衆が精を出す故ぢや▲シテ「何かと{*5}いふ内に山田ぢや▲小アト「誠に山田へ来た▲シテ「扨も扨もよう稲に実が入つたではないか▲小アト「皆かたむいた、最早苅てもよからう▲シテ「頼うだ人がきなふ暦を出して見て、四五日の内に田苅よしといふ日があるとおせあつた、油断はあるまいぞ▲小アト「さうで有らう▲シテ「やいやい次郎冠者、たくましい庵りを立てられたではないか▲小アト「何れおびたゞしい庵りを立てられた▲シテ「田を苅つて此庵りへ入れて置たらば、稲木にかけて置と違うて、ようひるで有らう▲小アト「何れ雨露をしのいで、ようひるで有らう▲シテ「先づ急いで鳴子を付けう▲小アト「一段とよからう▲シテ「身共は之へ付けう、そなたはあの稲木へ付けさしませ▲小アト「心得た{ト云て脇柱と目付柱へ付るなり}▲シテ「いか様此やうによう出来た田を、村鳥に荒さるゝは勿体ない事ぢや▲小アト「あれあれ、余所の田にも村鳥を追ふやら、鳴子の音がするは▲シテ「いやいや人を得遣はぬ者は手が廻らぬぞいやい▲小アト「成程夫故に鳥を追ふている田は、少々ならでは見へぬ▲シテ「ありやありや鳥が渡るは▲小アト「おへおへ{ほうほうと云て鳴子を引き笑ふ}▲シテ「いか様おろかな者ぢや、両人の声と鳴子の音におじて、皆よその田へ下りた▲小アト「皆森より下へおりたさうな▲シテ「朝から晩まで鳥が渡りつゞけもせまい、暫らく庵りへはいつて休まう▲小アト「夫もよからう▲シテ「庵りの柱に鳴子の縄を止めておかしめ▲小アト「心得た{アト橋懸りへたつ}▲アト「両人の者を山田へ村鳥を追ひに遣はして御座る、退屈するで御座らう、樽を持参して酒を飲せうと存ずる▲小アト「あのしげみからまつ黒に成つて村鳥が来るは▲シテ「あれはこちへは来はせまい▲小アト「何れ森を越すさうな▲シテ「ありやありや跡へ戻るは▲小アト「追へ追へ{二人ほうほうと云て追ふ}▲アト「鳥を追ふやら鳴子の音が聞ゆる、やいやい太郎冠者次郎冠者▲シテ「ゑい頼うだお方、是は何としてお出なされました▲アト「退屈せうと思ふて、酒を持つて見舞に来た▲シテ「夫は有難う存じまする▲アト「何と鳥が渡るか▲シテ「おびたゞしう渡りまして、少しも油断はなりませぬ▲アト「近頃大儀ぢや身共は帰る程に、此酒を折々呑うで、泊鳥の渡り仕舞う迄追ふて、暮に及うでから戻れ▲二人「畏つて御座る▲アト「最早行くぞ▲シテ「御苦労に存じまする{アト楽屋へ入るなり}{*6}やいやい次郎冠者、何と結構なお方ではないか▲小アト「何から何迄お気の付かせらるゝお方ぢや▲シテ「夜も日も寝ずに鳥を追へと仰せられても、主命なれば是非がないに、あのお慈悲の深いお主を悪う思ふたらば、罰が当らう▲小アト「かならず冥加につきるであらう▲シテ「扨飲たいでは無けれども、頼うだ人の志ぢや一つ呑うか▲小アト「一段とよからう▲シテ「先づ盃をお出しあれ▲小アト「心得た、さあさあ盃をとつて来た▲シテ「そなたといひたけれども身共から始めう▲小アト「一段とよからう▲シテ「ついでくれさしめ▲小アト「心得た▲シテ「扨も扨もよい酒ぢや、そなたへさそう▲小アト「いたゞかう▲シテ「身共がついでやらう▲小アト「是は慮外でおりある▲シテ「何とよい酒であらうが▲小アト「是は念の入られたやら、よい酒ぢや▲シテ「その通りぢや▲小アト「そなたへ戻さう▲シテ「どれどれ是へくれさしめ▲小アト「ちと謡うか▲シテ「一段とよからう{ト云て小謡あるべし爰にて二人共小舞舞う{*7}事あり云合次第にすべし}{*8}又そなたへさそう▲小アト「いたゞかうぞ{亦小謡あり}{*9}飲めばのむ程よい酒ぢや、又そなたへさそふ▲シテ「いたゞかう▲小アト「そりやそりや鳥が渡るは▲シテ「誠に此田へおりる▲二人「おへおへ{ト云て追ふなり}▲シテ「扨々油断をした▲小アト「其通りぢや▲シテ「此鳴子縄を両人の腰に付けて置まいか▲小アト「夫がよからう{ト云て腰に付る仕方計りなり}▲シテ「さあさあついでたもれ▲小アト「心得た▲シテ「是は面白うなつたが、何と両人つれ舞にせうか▲小アト「一段とよからう▲シテ「ひく引ひく{*10}とて▲二人「鳴子はひかで。あの人のとのひく神の前にはみしめ縄ひく仏の前には。善の縄ひく。橋の下をばのぼり舟ひくあやうき所を。おりて駒引われらは爰にて鳴子引{二人笑ふ}▲シテ「扨々面白い事ぢや▲小アト「其通りぢや▲シテ「又そなたへさすぞ▲小アト「どれどれいたゞかう{小謡あり}{*11}又わごりよへ戻さう▲シテ「身共は余程すごいた▲小アト「何の過る物ぢや、献がわるひ、是非共最一ツお飲みあれ▲シテ「それならば軽うついでおくれあれ▲小アト「恰度恰度▲シテ「おゝあるある、扨も呑うだり呑うだりおびたゞしう呑うだ▲小アト「身共もよい機嫌になつた▲シテ「中々是では鳥が渡るやら、渡らぬやらしれぬ▲小アト「其通りぢや▲シテ「身共が思ふは鳥を追ひ追ひ鳴子を引て、小拍子にかゝつて謡はうと思ふが何と有らう▲小アト「是は猶面白からう▲シテ「それならば盃もお取りあれ▲小アト「心得た▲シテ「さあさあ謡へ謡へ▲小アト「心得た心得た▲シテ「うえの山から▲二人「鳥が来るやらふ。花が散りそろ。いざさらば鳴子をかけて。ほうほう。花の鳥追ふ《ノル》見めがよいとて人はひけど。神のみしめか{*12}琴か琵琶か茶うすか。舟か車かねのびか鳴子か。あけ方の雲か扨は又大もちが浦のあみぞろか。しやぬしのそろもの《ノル》山田作れば庵寝する。ぬるれば夢を見る。さむれば鹿の音を聞く。《小歌》寝にくの枕や。ねにくのいほの枕や《ノル》麦つく里の名にも。あはで浮名の名取川。からおとのきねの音もいづれとも思はぬ。みちの国のたけくまの。松の葉や衣の関や壺の石ぶみ。外の浜風ふけゆく月にうそむく。浦舟は魚取る。あみをひけば鳥取る。鷹野に犬ひく《吟変》何よりも何よりも。契りの名残はありあけの。わかれもよふす{*13}しののめの山しらむ横雲はひくぞ恨みなりける《ノル》いざひく物を謡はんやいざひく物を謡はん。春のお田にはなはしろ水ひく。秋の小田には鳴子ひく。名所は都にきこえたる安達ケ原の。しらま弓も今此お田にとゞめた。浅かの沼には加津見草しのぶの里にはもぢずり石。思ふ人に。ひかで見せばや姉輪の松の一ト枝。塩がまの浦に。雲はれて。誰も月を松嶋や。ひら泉はおもしろや《上和》いとゞくれゆく秋の夜の。月出る迄隙なきを。いざさしおきて休まんいざさしおきて休まん{二人共鳴子縄をとき持入て寝也}{但し太郎冠者は樽を枕にして寝るなり次郎冠者は盃を枕にして寝るなり}▲アト「最早日がくれて余程間もあるに、両人共帰らぬ心元ない、山田へ参つてつれて帰らうと存ずる、合点のゆかぬ事ぢや、今迄鳥が渡らう様もないが、若し狐狸に化されはせぬか、何をして居る事ぢや、是はいかな事、月夜陰に見れば、両人共田の中に正体もなう寝てゐる、太郎冠者次郎冠者、えゝ熟柿くさやの熟柿くさやの、酒に酔ふて日のくれたもしらぬ、やいやいやいそこなやつ▲小アト「やい太郎冠者鳥が渡るぞ{ト云て起主を見て驚きにげる}▲アト「何をぬかし居る{シテは樽小アトは盃にてほうほうと云て追ふ主を見ておどろくなり}{*14}身共ぢやわいやい身共ぢやわいやい▲シテ「えい頼うだお方で御座るか、おゆるされませおゆるされませ{ト云て二人共にげて入なり主追込入る}
校訂者注
1・2・14:底本、全て「▲アト「」がある(全て略)。
3:底本は、「頼うた」。
4:底本は、「日比(ひごろ)」。
5:底本は、「何かいふ内に」。
6・8:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
7:底本は、「小舞謡う」。
9・11:底本、全て「▲小アト「」がある(全て略)。
10:底本は、「ひく引(二字以上の繰り返し記号)とて」。
12:底本は、「神のみしめが」。
13:底本は、「わかれとよふすしののめの」。
コメント