鬼丸(おにまる)(二番目 三番目)

▲シテ「《次第》{*1}行衛(ゆくへ)定めぬ旅なれや、行衛定めぬ旅なれや、身の果て何となるらん。
これは、西国方の者でござる。この度、思ひ立ち、東国に下らう。と存ずる。誠に、出家ほど心安い者はござらぬ。衣(ころも)一貫、珠数一連あれば、何方(いづかた)へ参らうと、まゝでござる。いや、何かと云ふ内に、勢州鈴鹿山に着いた。殊の外、草臥(くたび)れた。その上、もはや、暮るゝに間もない。宿を借りたいものぢやが。これに、家がある。まづ、案内を乞はう。物申、案内も。
▲小アト「ゑいゑい。表に、案内がある。案内とは誰(た)そ。
▲シテ「はあ、御免ありませ。旅の出家でござる。一夜(いちや)の宿を借して下され。
▲小アト「成程、安い事でござる。お宿申しませう。
▲シテ「それは、忝うござる。
▲小アト「まづ、お通りなされませ。
▲シテ「心得ました。なうなう、嬉しや。緩(ゆる)りと休息致さう。
▲小アト「扨、御坊様には、どれからどれへ御出なされます。
▲シテ「愚僧は、西国方の者でござるが、この度思ひ立ち、東国修行致す事でござる。
▲小アト「扨々、それは、御殊勝な事でござる。
▲シテ「はあ。これに、持仏堂がござるが、御本尊はどなたでござるぞ。
▲小アト「某(それがし)は、常々、清水の観世音を信仰致しまする。即ち、本尊は観世音でござる。
▲シテ「扨々、それは、結構なお志でござる。観世音を信仰致せば、三悪道を遁れ、臨終正念に守らせらるゝことでござる。その外、様々奇瑞のある事でござれば、この上は、いよいよ信仰召されたが、良うござる。
▲小アト「忝う存じます。私も、古(いにし)へは、さる者でござつたが、仔細あつて、この所に引つ籠(こ)うで居りますが、鬼丸と申して、一人(いちにん)の伜がござる。何かと渡世を致して、楽々と養うてくれますが、これと申すも、ひとへに観世音のお蔭と存ずる事でござる。
▲シテ「御尤でござる。扨々、御子息には、奇特な事でござる。
▲小アト「扨、御草臥(おくたび)れでもござらう程に、まづ、ゆるりとお休みなされ。
▲シテ「それならば、ちとまどろみませう。
▲小アト「良うござらう。御用ござらば、お呼びなされて下され。
▲シテ「忝うござる。さらば、緩(ゆる)りとまどろまう。あゝ、楽やの、楽やの。
{と云うて、寝るなり。}
▲鬼丸「これは、この鈴鹿山に住居(すまひ)する、鬼丸と云ふ者でござる。某(それがし)、親を一人(いちにん)持つてござるが、養ふ手立てがないによつて、いつも街道へ出て、強盗して渡世致す。夜前、某の方に、旅の出家の泊まらせられた。とある。道に待つて居て、剥ぎ取らう。と存じて、罷り出た。まづ、この辺りに忍うで居(を)らう。
▲シテ「あゝ、よう寝た事かな、よう寝た事かな。緩(ゆる)りと寝た。明くるに間があらうが、何とぞ、夜の明けぬ内に、立ちたいものぢやが。さりながら、夜明けぬに立たう。と云うたらば、定めて亭主が止(と)むるであらう。何としたものであらう。いや、亭主に知らせずに、忍うで立たう。と存ずる。中々、未だ早い様子ぢや。まづ、急いで参らう。扨々、暗い事ぢや。
▲鬼丸「やいやいやい、そこなやつ。
▲シテ「こちの事か。
▲鬼丸「己が、その負うて居る物や着て居る物を、この方へおこせ。
▲シテ「何。負うた物や着る物をおこせ。
▲鬼丸「おゝ、扨。
▲シテ「扨は、汝は山賊(やまだち)か。
▲鬼丸「何であらうとまゝ、早うおこせ。もしおこさずば、この長刀にのせてくれうぞ。
▲シテ「その長刀にのすればとて、少しも厭はぬ。さりながら、欲しいと思ふ物は、皆やらう。それ、やるぞ。
▲鬼丸「どれどれ。
▲シテ「やい、山賊(やまだち)よ。
▲鬼丸「何ぢや。
▲シテ「汝もよう聞け。そちが様に、人の物を取らずとも、世渡りはあらうに、浅ましい。強盗をして世を渡るといふ様な、不得心な事があるものか。既に、仏も、殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒戒とて、この五つを戒しめ給ふ。中にも、偸盗は、別して戒しめ置かれた。今よりしては、強盗をふつゝとお止(と)まりあれ。
▲鬼丸「尤なれども、おれが強盗は、世の常の盗人とは違ふ。親を養ふための強盗ぢやによつて、親孝行にこそなれ、少しも罪になる事ではないぞ。
▲シテ「扨々、愚かな事を仰(お)せある。この強盗を止(と)まらぬにおいては、この世にては長く天命に尽き、愛染明王にも見離され、死しては汝が悪心故、親も共に無間地獄に堕在す。或る時は、獄卒ども、笞(しもと)を振り上げ剣(つるぎ)の山に追ひ登す。登らんとする時は、下れ。と云ふ。下らんとする時は、怒る声を出し、急げ急げ。と追つ立つる。これ皆、地獄にあらず。おのれが罪、おのれを責むる。登れば剣(つるぎ)、身を貫く。泣かんとすれば、涙出ず。猛火、眼(まなこ)を焦がす。叫ばんとすれども、声出ず。鉄丸(てつぐわん)、喉(のんど)を塞ぐが如し。その時、何程悔やみ、口に仏語を唱ふといへども、その甲斐なし。長く親子ともに、浮かむ事あるべからず。何と、怖ろしい事ではないか。
▲鬼丸「扨々、それは恐ろしい事でござる。すれば、今まで親孝行のためぢや。と存じて致した事は、皆、悪道で、親へも通じ、二人ともに地獄へ落つる事でござるか。
▲シテ「おゝ、扨。そち達が様な不得心な者は、疑ひもなう、皆、地獄へ落つる事ぢや。
{鬼丸、泣く。口伝。}
▲鬼丸「扨も扨も、悲しい事でござる。今までは、左様の事をも存ぜず、悪逆を致しました。私のみならず、親者人まで地獄へ落といて、何となりませう。あゝ、悲しや。《泣》
▲シテ「これこれ。それ程に思はしまさば、今より悪逆をふつゝと思ひ止(と)まらしめ。
▲鬼丸「何が扨、思ひ止(と)まりませいでは。今よりは、きつと思ひ止(と)まります程に、何とぞ、今までの罪の滅びます様に、お頼み申しまする。
▲シテ「それは、奇特な事ぢや。悪逆さへ已(や)むれば、何も案ずる事はない。又、こゝに、ありがたい文(もん)がある。よう聞け。鈴鹿山盗者鬼丸(れいろくざんたうじやきぐわん)。といふ事ぞ。ゑい。
{と云うて、切戸より入るなり。}
▲鬼丸「はあ。《泣》何と仰せられまする。鈴鹿山盗者鬼丸。といふ事でござるか。成程、覚えました。《泣》鈴鹿山盗者鬼丸、鈴鹿山盗者鬼丸、鈴鹿山盗者鬼丸。
{と、辺りを見まはし、}
今までこれにござつたが、どれへ行かせられた。未だ、何方(いづかた)へも行かせらるゝ間もないが。
{と云うて、笈を見て、}
ほ。これも、皆返すのであつたものを。今のお僧は、どれへござつた。扨も扨も、気の毒な事ぢや。扨、今の文(もん)は、何とやらであつたが。おゝ、それそれ。鈴鹿山盗者鬼丸。と云ふ事であつた。まづ、宿へ帰らう。
{と云うて、左に笈・衣を抱(かゝ)へ、右に長刀を持ち、「鈴鹿山」を云々、脇座へ行く。親、一の松へ立つ。}
▲小アト「殊の外、鬼丸の帰りが遅い。心元ない。尋ねに参らう。もはや、夜も明くであらうが、何とした事ぢやぞ。はあ、人音がする。今時分、何者ぢやぞ。や、鬼丸の声ぢや。これは、不審な事ぢや。まづ、どれに居る事ぢやぞ。さればこそ、鬼丸なれ、やいやい。そちは、この様な所に、何をして居る。
▲鬼丸「はあ。
▲小アト「これは、山賊(やまだち)の体(てい)ぢやが、何とした事ぢや。
▲鬼丸「悲しい事でござる。今更、後悔致す事でござる。《泣》
▲小アト「何とも、合点の行かぬ事ぢやが。扨は、常々悪逆をして、某を養うた。と見えた。やいやい。
▲鬼丸「はあ。
▲小アト「もし、汝は、今まで悪逆をして、親を養ひはせぬか。
▲鬼丸「さればの事でござる。何を隠しませうぞ。今日を暮らさう手立てもござらぬによつて、只今まで、色々悪逆を致し、渡世致いてござる。今夜ござつたお僧も、剥ぎ取らう。と存じて、途中に待つて居まして、則ち、この如く剥ぎ取つてござるが、殊の外、貴いお僧で、色々教化(けうけ)なされ、悪逆の悪い仔細の、怖ろしい事どもを申されましたによつて、今よりは、悪道を止(と)まらう。と申したれば、あらたな文(もん)を授けて下されてござる。
▲小アト「むう。それはまづ、何といふ文(もん)ぢや。
▲鬼丸「鈴鹿山盗者鬼丸(れいろくざんたうじやきぐわん)。といふ事でござる。
▲小アト「鈴鹿山盗者鬼丸。
{と云うて、合点して、}
扨々、うつけたやつの。おのれ、それ程の事が、合点が行かぬか。それは、鈴鹿山の盗人(ぬすびと)は鬼丸。といふ事ぢやわいやい。
▲鬼丸「扨は、その様な事でござるか。思へば思へば、後悔致す事でござる。《泣》
▲小アト「言語道断、憎い奴の。常の人を剥ぎ取るさへあらうに、出家を剥ぎ取るといふ様な、胴欲な事があるものか。おのれ、生けておく奴でない。
{と云うて、長刀を拾ひ持つて、}
この長刀で、身共が手にかけう。
{と云うて、追ひ廻す。この内に、観音、楽屋より出る。}
▲後シテ「あゝ、やいやい。過ちすな、過ちすな。まづ、待て。
▲二人「はあ。
▲シテ「これは、汝等が常々信仰する清水の観音なるが、鬼丸が悪を翻(ひるが)へし、仏道に引き入れう。と思ひ、仮に出家と顕はれ、教化しければ、誠に、悪に強ければ善にも強い。と云ふが、鬼丸、悪心を翻へし、善心となつた。猶々行末守らん。と。
《つよく 上》{*2}異香薫じ花降りて。
▲同音「《上》異香薫じ花降りて。光を放ちて失せければ。あらありがたの御事と。御跡三度伏し拝み。今に絶えせぬ観音の御誓ひ。仰ぐもおろかなりけり。仰ぐもおろかなりけり。
▲鬼丸「あら、ありがたや。南無観世音、南無観世音。
{と云うて、留めて入るなり。}

校訂者注
 1:底本、ここから「身の果何となるらん」まで、傍点がある。
 2:底本、ここから「あほぐもおろかなりけり」まで、傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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鬼丸(オニマル)(二番目 三番目)

▲シテ「《次第》行衛定めぬ旅なれや行衛定めぬ旅なれや身の果何となるらん。是は西国方の者で御座る、此度思ひ立ち、東国に下らうと存る、誠に、出家ほど心易ひ者は御座らぬ、衣一貫珠数一連あれば、何方へ参らうとまゝで御座る、いや何彼と云ふ内に勢州鈴鹿山に着いた、殊の外草臥た、其上最早暮るゝに間もない、宿を借り度い物ぢやが、是に家がある、先づ案内を乞はう、物申案内も▲小アト「ヱイヱイ、表に案内がある、案内とは誰そ▲シテ「ハア御免ありませ、旅の出家で御座る、一夜の宿を借して下され▲小アト「成程安い事で御座る、お宿申しませう▲シテ「夫は忝う御座る▲小アト「先づお通りなされませ▲シテ「心得ました、のうのう嬉しや、緩りと休息致さう▲小アト「扨御坊様には、どれからどれへ御出なされます▲シテ「愚僧は西国方の者で御座るが、此度思ひ立ち東国修行致す事で御座る▲小アト「扨々夫は御殊勝な事で御座る▲シテ「ハア是に持仏堂が御座るが、御本尊はどなたで御座るぞ▲小アト「某は常々清水の観世音を信仰致しまする、即ち本尊は観世音で御座る▲シテ「扨々夫は結構なお志で御座る、観世音を信仰致せば、三悪道を遁れ、臨終正念に守らせらるゝこと{*1}で御座る、其外様々奇瑞のある事で御座れば、此上は弥信仰召されたがよう御座る▲小アト「忝う存じます、私も古へは去る者で御座つたが、仔細あつて此所に引籠うで居りますが、鬼丸と申して一人の忰が御座る、何彼と渡世を致して、楽々と養うてくれますが、是と申すも偏に観世音のお蔭と存ずる事で御座る▲シテ「御尤で御座る{*2}扨々御子息には奇特な事で御座る▲小アト「扨御草臥でも御座らう程に、先づゆるりとお休なされ▲シテ「夫ならば些とまどろみませう▲小アト「よう御座らう、御用御座らばお呼びなされて下され▲シテ「忝う御座る、さらば緩りとまどろまう、アゝ楽やの楽やの{ト云ふて寝るなり}▲鬼丸「是は此鈴鹿山に住居する鬼丸と云ふ者で御座る、某親を一人持つて御座るが、養う手立がないに依つて、毎も街道へ出て強盗して渡世致す、夜前某の方に、旅の出家の泊らせられたとある、道に待つて居て剥取らうと存じて罷り出た、先づ此辺りに忍うで居らう▲シテ「アゝよう寝た事かなよう寝た事かな、緩りと寝た、明くるに間があらうが、何卒夜の明けぬ内に立ち度い者ぢやが、去ながら、夜明けぬに立うと云ふたらば、定めて亭主が止むるであらう、何とした者であらう、いや亭主に知らせずに忍うで立うと存ずる、中々未だ早い様子ぢや、先づ急で参らう、扨々暗い事ぢや▲鬼丸「やいやいやいそこなやつ▲シテ「こち{*3}の事か▲鬼丸「己が其負うて居る物や着て居る物を此方へ起こせ▲シテ「何負うた物や着る物をおこせ▲鬼丸「おゝ扨▲シテ「扨は汝は山賊か▲鬼丸「何であらうとまゝ早うおこせ、若しおこさずば此長刀に、のせてくれうぞ▲シテ「其長刀にのすればとて、少しも厭はぬ去ながら、欲しいと思ふ物は皆やらう、夫やるぞ▲鬼丸「どれどれ▲シテ「やい山賊よ▲鬼丸「何ぢや▲シテ「汝もよう聞け、そちが様に人の物を取らずとも、世渡りはあらうに浅間しい、強盗をして世を渡ると云ふ様な、不得心な事がある物か、既に仏も殺生偸盗邪淫{*4}妄語飲酒戒とて、此五つを戒給ふ、中にも偸盗は別して戒おかれた、今よりしては強盗をふツつとおとまりあれ▲鬼丸「尤なれども、おれが強盗は、世の常の盗人とは違う、親を養う為の強盗ぢやに依つて、親孝行にこそなれ、少しも罪になる事ではないぞ▲シテ「扨々愚な事をおせある、此強盗をとまらぬにおいては、此世にては長く天命に尽き、愛染明王にも見離され、死しては汝が悪心故、親も共に無間地獄に堕在{*5}す、或る時は獄卒共笞{*6}を振り上げ、剣の山に追ひ登す、登らんとする時は下れと云ふ、下らんとする時は、怒る声を出し、急げ急げと追つ立つる、是皆地獄にあらず、おのれが罪おのれを責る、登れば剣身を貫く、泣かんとすれば涙出ず、猛火眼をこがす、叫ばんとすれ共声出ず、鉄丸喉を塞ぐが如し、其時何程悔み、口に仏語を唱うと雖其甲斐なし、長く親子共に浮かむ事あるべからず、何と怖ろしい事ではないか▲鬼丸「扨々夫は恐ろしい事で御座る、すれば今迄親孝行の為ぢやと存じて致した事{*7}は皆悪道で、親へも通じ、二人共に地獄へ落る事で御座るか▲シテ「おゝ扨そち達が様な不得心な者は、疑もなう皆地獄へ落る事ぢや{鬼丸泣口伝}▲鬼丸{*8}「扨も扨も悲しい事で御座る、今迄は左様の事をも存ぜず悪逆を致しました、私のみならず、親者人迄地獄へ落て何と成ませう、アゝ悲しや、《泣》▲シテ「是々、夫程に思はしまさば、今より悪逆をふツつと思ひとまらしめ▲鬼丸「何が扨思ひとまりませいでは、今よりは急度思ひとまります程に、何卒今迄の罪の滅び{*9}ます様にお頼み申しまする▲シテ「夫は奇特な事ぢや、悪逆さへやむれば何も案ずる事はない、又爰に難有い文があるようきけ、鈴鹿山盗者鬼丸といふ事ぞヱイ{ト云ふて切戸より入るなり}▲鬼丸「ハア、《泣》{*10}、何と仰せられまする、鈴鹿山盗者鬼丸といふ事で御座るか、成程覚えました、《泣》鈴鹿山盗者鬼丸鈴鹿山盗者鬼丸、鈴鹿山盗者鬼丸{と辺り{*11}を見まはし}今迄是に御座つたが、どれへ行かせられた、未だ何方へも行かせらるゝ間もないが{ト云ふて笈を見て}ほ、是も皆返すのであつた物を、今のお僧はどれへござつた、扨も扨も気の毒な事ぢや、扨今の文は何とやらであつたが、おゝそれそれ、鈴鹿山盗者鬼丸と云ふ事であつた、先づ宿へ帰らう{ト云ふて左に笈衣をかゝえ右に長刀を持ち鈴鹿山を云々脇座え行く親一の松へ立つ}▲小アト「殊の外鬼丸の帰りが遅い、心許ない尋に参らう、最早夜も明くであらうが、何とした事ぢやぞ、ハア人音がする、今時分何者ぢやぞ、や、鬼丸の声ぢや、是は不審な事ぢや、先づどれに居る事ぢやぞ、さればこそ鬼丸なれ、やいやい、そちは此様な所に何をして居る▲鬼丸「ハア▲小アト「是は山賊の体ぢやが、何とした事ぢや▲鬼丸「悲しい事で御座る、今更後悔致す事で御座る、《泣》▲小アト「何共合点の行かぬ事ぢやが、扨は常々悪逆をして、某を養うた{*12}と見へた、やいやい▲鬼丸「ハア▲小アト「若し汝は、今迄悪逆をして、親を養ひ{*13}はせぬか▲鬼丸「去ればの事で御座る、何を隠しませうぞ、今日をくらさう手立も御座らぬに依つて、只今迄種々悪逆を致し、渡世致いて御座る、今夜御座つたお僧も剥取らうと存じて、途中に待つて居まして、則ち此如く剥取つて御座るが、殊の外貴ひお僧で、種々教化なされ、悪逆の悪い仔細の、怖ろしい事共を申されましたに依つて、今よりは悪道をとまらうと申したれば、あらたな文を授けて下されて御座る▲小アト「ムウ夫は先づ何といふ文ぢや▲鬼丸「鈴鹿山盗者鬼丸といふ事で御座る▲小アト「鈴鹿山盗者鬼丸{ト云ふて合点して}扨々うつけたやつの、おのれ夫程の事が合点がゆかぬか、夫は鈴鹿山の盗人は鬼丸といふ事ぢやわいやい▲鬼丸「扨は其様な事で御座るか、思へば思へば後悔致す事で御座る、《泣》▲小アト「言語道断{*14}憎い奴の、常の人を剥取るさへあらうに、出家を剥取ると云ふ様な、胴欲な事があるものか、おのれ生けておく奴でない{ト云ふて長刀を拾い持つて}此長刀で身共が手にかけう{ト云ふて追ひまわす此内に観音楽屋より出る}▲後シテ「アゝやいやい、あやまちすなあやまちすな先づ待て▲二人「ハア▲シテ「是は汝等が、常々信仰する清水の観音なるが、鬼丸が悪を翻へし、仏道に引き入れうと思い、仮に出家とあらはれ教化しければ、誠に{*15}悪につよければ善にも強いといふが、鬼丸悪心を翻し善心となつた、猶々行末守らんと《ツヨク上》異香薫じ花ふりて▲同音「《上》異香薫じ花ふりて。光を放ちて失せければ。あら有難の御事と。御跡三度伏し拝み。今に絶せぬ観音の御誓ひ。あほぐもおろかなりけり。あほぐもおろかなりけり。▲鬼丸「あらありがたや。南無観世音南無観世音{ト云ふて留めて入るなり}

校訂者注
 1:底本、「こと」は合略仮名。
 2:底本、ここに「▲小アト「」がある。
 3:底本は、「此方(こち)」。
 4:底本は、「邪媛(じやいん)」。
 5:底本は、「隋在(だざい)」。
 6:底本は、「杖揺(しもと)」。
 7:底本は、「致し事」。
 8:底本は、「▲鬼丸「泣口伝扨も」。但し「泣口伝」は、ト書きと同じ大きさの活字で縦一行書き。
 9:底本は、「没(ほろ)び」。
 10:底本は、「泣」。
 11:底本は、「傍り」。
 12:底本は、「育(やしな)うた」。
 13:底本は、「育(やしな)ひ」。
 14:底本は、「言語同断」。
 15:底本は、「実(まこと)に」。