釣狐(つりぎつね)(二番目)

▲シテ「《次第》{*1}名残の後の古狐、名残の後の古狐。こんくわいの涙なるらん。
これは、この辺りに住む、百年(もゝとせ)にあまる古狐でござる。こゝに、或る者の候ふが、いつぞの程にか、狐を釣りそめて、それより面白う思うて、釣る程に釣る程に、某(それがし)が部類眷属、残らず釣りとつて、今また身共を狙ふといへども、そつとも油断をせぬによつて、左様の時節に参り逢うた事もござらぬ。又、彼が伯父坊主に、白蔵主(はくざうす)と云うてあるが、彼が申す事は、何事に依らず承引する程に、今日(けふ)は、かの白蔵主に化けて参り、異見をして、釣りを止(と)まらせう。と思うて、まづ、これ程までには化けてござる。急ぎ、かの者の私宅へ参らばや。と存じ候ふ。
《道行》{*2}住み馴れし我が古塚を立ち出でゝ、我が古塚を立ち出でゝ、足に任せて行く程に、足に任せて行く程に、猟師の元に着きにけり。
急ぎ候ふ程に、かの者の私宅に着いた。何(いづ)れ、ものには
取り得がござる。かの猟師が犬を飼うてござらば、かやうに心安うは参る事もなるまいに、犬を飼はぬによつて。犬の啼き声がする。いやいや、この辺りではありそもない。まづ、案内を乞はう。物申、案内申。
▲アト「表に案内がある。案内とは誰(た)そ。ゑい、白蔵主様。御前ならば、案内なしに通りはなされいで。殊に、暮れに及うで、何と思し召して御出でござる。
▲シテ「おゝ、その事、その事。今日(けふ)は、思ふ仔細あつて、案内を乞うですわ。
▲アト「それは、いか様な事でござる。
▲シテ「聞けば、そなたは狐を釣るとの。
▲アト「これは、存じも寄らぬ事を承りまする。私はつひに、狐を釣つた事はござりませぬ。
▲シテ「いやいや、隠さしますな。寺へ来る人ごとに、これの甥の殿こそ、狐を釣らるれ。あれが目には見えぬか。なぜ異見をせぬぞ。と仰せらるゝ。隠さずとも、ありやうに仰(お)せあれ。
▲アト「扨は、お聞きなされたが、定(ぢやう)でござるか。
▲シテ「おゝ、聞いておりあるとも。
▲アト「御存じの上は、隠しませう様はござらぬ。ふと一つ釣りまして、それより面白う存じて、二つ三つ四つ、五つばかりも釣りませうか。
▲シテ「それそれ、お見あれ。人の仰せらるゝに、少しも偽りはない。して又、狐を釣つて、何におしある。
▲アト「別に、何に致すと申す事もござらぬ。まづ、皮をはいで、引敷(ひつしき)に致す。
▲シテ「ほい。
▲アト「身は、料理して喰べまする。
▲シテ「ふん。
▲アト「骨は、黒焼にして、膏薬煉に売りまする。
▲シテ「聞くさへ、身が震(ふる)はるゝ。あの狐といふものは、執心の恐ろしいものぢや。その上、殺生は罪の深いもので、既に仏も五戒の第一に戒しめ置かれた程に、必ず必ず、お釣りある事は、無用でおりあるぞや。
▲アト「左様の事とも存ぜいで、釣りました。只今からは、釣りを止(と)まりませう。
▲シテ「何ぢや。釣を止(と)まらう。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「それならばこゝに、狐の執心の恐ろしい昔物語がある。これを語つて聞かせうか。但し、釣りを止(と)まるまいならば、いらぬものか。
▲アト「何が扨、釣りを思ひ止(と)まりませう程に、どうぞ、その物語が承りたうござる。
▲シテ「それならば、遥々(はるばる)来たれば、草臥(くたび)れた。まづ、その床机をくれさしめ。
▲アト「畏つてござる。御床机でござる。
▲シテ「語らう程に、ようお聞きあれ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「そもそも、狐と申すは、神にておはします。天竺にては、やしほの宮、唐土(もろこし)にては、きさらぎの宮、我が朝にては、稲荷五社の大明神と申すも、皆、これ狐なり。
▲アト「はあ。
▲シテ「こゝに、玉藻の前とて、女御一人(いちにん)おはします。かの女、容色美麗にして、四角八方より見れど、更に裏のなき女なり。総じて、玉には裏表なきものなればとて、玉藻の前とは付けられたり。又、化生(けしやう)の前と申すは、何ぞなれば、一年(ひとゝせ)、御門(みかど)に御歌合せありて後(のち)、御管絃のありし時、永祚の大風吹き来たつて、禁中の灯(ともしび)、一灯も残らず消えぬ。その時、かの玉藻の前が身より、金色(こんじき)の光を出し、玉殿を照らす。帝、叡覧ありて後、玉藻の前は人間になし、化生にてありや。とて、化生の前とぞ召されける。その後、帝、程なく御悩とならせ給ひしかば、安倍の泰成参り、一徳六害二義三生八難はろくがい。と、置き散らし占ひ申しけるは、これ皆、玉藻の前がしわざなり。それをいかに。と申すに、玉藻の前は、根本、狐なるが、既に大唐にては幽王の后褒姒となつて、七帝まで取り奉り、今又、日本に渡り、この君の御命を取り奉らんとする。かゝる一大事の御事なれば、御祈祷なくては叶ふまじい。とて、貴僧・高僧を請じ、色々御祈祷をなされども、更にその験(しるし)なし。四壇を築(つ)いて五壇を飾り、薬師の法を行ふべし。とありし時、大内(おほうち)にたまりかね、下野の国・那須野の原に落ちて行く。国内通化(つうげ)のものなれば、おろそかにしては叶ふまい。犬は狐の相を得たるものなれば、犬追ふ物といふ事を以つて御退治あるべき。とて、三浦の介・上総の介、両介に仰せ付けらるゝ。両人は、お受けを申し、家の子・若党を引き具し、那須野の原に下着して、百日の犬追ふ物とぞ聞こえける。百日の犬満じければ、尾頭七尋に余る狐一つ出でたりしを、一の矢は三浦の介、二の矢は上総の介、ひようどつきと射る。得たりやおゝど、飛んで下(お)り、剣を抜いて彼を害し、帝へ奏聞ありければ、君の御悩も忽ち御平癒あり。国土治まり、泰平の御代になるぞとよ。されども狐の執心は残つて大石(たいせき)となり、人を取る事数知らず。地を走る獣、空を翔くる翅(つばさ)までも地に落つ。かゝる殺生をする石なればとて、殺生石とは名付けられたり。こゝに、玄翁といへる僧あり。かの石に向かつて喝す。汝元来殺生石等石霊性。何(いづ)れの所より来たり、何(いづ)れの所にか去る。と、柱杖を以つて三つ打つ。打たれてこの石割れしより以来、猶も狐の執心は、残つて人を取るぞとよ。かゝる執心の恐ろしいものなれば、今日(けふ)よりしては、釣りをはつたとお止(と)まりあれかし。と思ひすわ。
▲アト「扨も扨も、恐ろしい御物語を承つてござる。只今までは、左様の執心恐ろしいものとも存ぜず、只うかうかと釣りましてござる。只今の御物語で、私も発起致してござる。この後(のち)は、ふつふつ釣りを思ひ止(と)まりませう程に、お心安う思し召しませ。
▲シテ「何ぢや。釣りを、ふつふつ思ひ止まらう。
▲アト「はあ。
▲シテ「それならば、こゝに、狐を釣る、あれは、者。わ、わ、なとやら云ふ物があるげな。それをも捨てさしめ。
▲アト「それは、お帰りなされた後(あと)で、捨てませう。
▲シテ「いやといへば、その釣る道具を見ては、又も釣りたい心も出(づ)るものぢやげな。とても釣りを止(と)まらうならば、愚僧が見る前でお捨てあれ。
▲アト「畏つてござる。これでござる。
▲シテ「むゝ、生臭い。出家法師の鼻の先へ、その様な生臭い物を差し寄するといふ事があるものか。早うお捨てちや。
▲アト「はあ。
▲シテ「早う捨てさしめ。
▲アト「畏つてござる。はあ、捨てましてござる。
▲シテ「何ぢや、お捨てちやつた。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「やれやれ、嬉しや。愚僧が云ふ事を承引召されて、満足した。ちと奥へ通つて、子供にも逢ひたいけれども、今日は日が悪い。重ねて日を改めて来て逢はう。わごりよも、ちと寺へお出あれ。寺へお出あつたと云つて、愚僧が事なれば、別に振舞ふものもない。昆布に山椒をまいて、良い茶を申さう。
▲アト「それは、忝うござる。
▲シテ「愚僧が事なれば、別に振舞ふものもない。昆布に山椒。
▲アト「はあ。
▲シテ「茶ばかり申さう。
▲アト「ようお出なされました。
▲シテ「そなたもちと、寺へお出あれ。寺へお出あつても、愚僧が事なれば、別に振舞ふ物もない。昆布に山椒茶ばかり、山椒茶ばかり、山椒茶ばかり、山椒茶ばかり。なうなう、嬉しや嬉しや。まんまと云うて、釣りを思ひ止まらせた。この後は、何処(いづく)何方(いづかた)へ参つても、そつとも心にかゝる事はない。この様な心面白い時は、小唄ぶしで古塚へ戻らう。
《小唄》{*3}この里に住めばこそ。浮名も立ての。いのうやれ。我が古塚へ。しやなら。しやならと。
《詞》ほい。なうなう、恐ろしや恐ろしや。罠を捨てた。と云ふ程に、遠いへも捨てた。と思へば、身共が帰る道の真ん中に捨てゝ置いた。猟師といふ者は、疑ひの心の深い者ぢやなあ。はあ。何やらあそこに、黒い小さい物がある。身共はあの、罠といふ物を、終に見た事がない。今日(けふ)は幸ひぢや。立ち寄つて、罠の様子を見て来う。やい、おのれ。その黒い小さい形(なり)をしをつて、某が部類眷属を、よう釣りとつたなあ、よう釣りとつたなあ。ゑいゑいゑい、くんくんくん。あゝ、若者が大勢かゝつたこそ、道理なれ。上々の若鼠を油揚にして置いた。何、これを喰はぬ。といふ事があるものか。たつた一口に飛びかゝつて。ほ。いやいや、目の前に大勢かゝつたを見ながら、今又、身共が罠にかゝるではあるまい。いらぬ物ぢや。古塚へ戻らう。くんくんくんくん。あゝ、戻らうとは思へども、あの匂ひを嗅いでからは、どうも戻られぬ。又、よう思へば、部類眷属のためには敵(かたき)ぢや。その上、若者どもが、餌ばかりむしつて喰ふ事を知らいで、罠に懸(かゝ)る。餌ばかり喰ふに、何の事があらう。飛びかゝつて、とは思へども、身に青緑を着て居れば、身が重うて、どうも食はれぬ。ゑゝ、喰ひたいなあ、喰ひたいなあ。やい、おのれ。部類眷属の敵討ちに、この青緑を取つて来て、たつた今、己を取つてぶくする程に、かまへてそこを去りをるな。ゑいゑい。くさい。茶ばかり。わい、わいわいわいわい。
▲アト「最前、伯父の白蔵主のお出なされて、某が狐を釣る事をお聞きなされて、いつにない、殊の外の御異見に預つて、罠まで捨てゝござる。さりながら、何とも合点の行かぬ事がござつた程に、罠を捨てかけと申すものに致して置いた。まづ、あれへ参り、罠の様子を見よう。と存ずる。誠に、不思議な事でござる。終に、暮れに及うでお出なされた事もなし。又、あの様に、ものをくどう云ふ人ではござらぬ。その上、帰らるゝ時、見送つてござれば、そのまゝ姿を見失うてござる。とかく合点が参らぬ。わあわあ。これはいかな事。罠がせゝり探してある。これは中々、人間のしたものではない。狐がせゝつたものぢや。はあ。扨は、最前の白蔵主は、身共日頃狙ふ古狐であつたよな。扨も扨も、口惜しい事かな。身共が合点の行かぬ事ぢや。と思うた。これは、口惜しい。何とせうぞ。いや、かやうに餌に付いては、又参るものぢや。さらば、罠をとつくりと張り済まして置いて、今宵中に、きやつを釣つてのけう。総じて、狐といふものは、通を得たものぢやによつて、いつ何時、何になつて来うも知れぬ事ぢや。あの様によう化けた事ぢや。その儘の白蔵主であつた。誰に見せたりとも、そでない。と云ふ者はあるまい。云うても云うても口惜しい。最前、きやつを狐と存じてござらば、罠までに及ぶまい。手どらまへにしてのけうものを、残り多い事ぢや。さりながら、罠の加減をとつくりとし済まして、釣り果(おほ)せいでは置くまい。最前、合点の参らぬ事がござつたによつて、捕らへて吟味せう。と存じたれども、もし誠の白蔵主様ならば、後難もいかゞぢや。と存じて、了簡をした。云うても云うても、この様な腹の立つ事はござらぬ。これこれ。大方、罠の加減をとつくりとし済ました。これで、釣り果(おほ)せいで置くまい。これで良からう。扨、いつも、あの道からこの道へ参るによつて、むゝ、これで良い。まづ、某はこの松陰に隠れて居て、かの古狐を待たう。と存ずる。そりや、かゝつた。よう来をつた。おのれ、最前身共をよう騙しをつた。おのれ、それが良いか、これが良いか。おのれ、今拝うだと云うて、何の許すものぢや。又、罠を外しをつて、取り逃した。なう、腹立ちや。誰もないか。あの古狐を捕らへてくれい。やるまいぞ、やるまいぞ。

校訂者注
 1:底本、ここから「こんくわいの涙なるらん」まで、傍点がある。
 2:底本、ここから「猟師の許に着にけり」まで、傍点がある。
 3:底本、ここから「しやなら。しやならと」まで、傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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釣狐(ツリギツネ)(二番目)

▲シテ「《次第》名残の後の古狐名残の後の古狐。こんくわいの涙なるらん。是は此辺りに住む、百年せにあまる古狐で御座る、爰に或る者の候が、いつぞの程にか狐を釣そめて夫より、面白う思ふて、釣る程に釣る程に、某が部類眷属残らず釣りとつて、今また身共をねらうといへ共、卒度も油断をせぬに依つて、左様の時節に参り逢ふた事も御座らぬ、又彼が伯父坊主に白蔵主と云うてあるが、彼が申す事は、何事に依らず承引する程に、今日は彼の白蔵主に化けて参り、異見をして釣を止らせうと思うて、先づ是程迄にはばけて御座る、急ぎ彼者の私宅へ参らばやと存じ候《道行》住馴し我古塚を立出て{*1}住馴し我古塚を立出て。足に任せて行く程に。足に任せて行く程に猟師の許に着にけり。急ぎ候程に、彼者の私宅に着いた、何れ者にはとり得が御座る、彼猟師が犬を飼うて御座らば、斯様に心易うは参る事もなるまいに、犬を飼はぬに依つて、犬の啼声がする、いやいや此辺りではありそもない、先づ案内を乞はう、物申案内申▲アト「表に案内がある、案内とは誰そ、ゑい白蔵主様、御前ならば案内なしに通りはなされいで、殊に暮に及うで、何と思し召して御出で御座る▲シテ「おゝ其事其事、今日は思ふ仔細あつて、案内を乞うですは{*2}▲アト「夫はいか様な事で御座る▲シテ「聞けばそなたは狐を釣るとの▲アト「是は存じも寄らぬ{*3}事を承りまする、私はついに狐を釣つた事は御座りませぬ▲シテ「いやいや隠さしますな、寺へ来る人毎に、是の甥の殿こそ狐を釣らるれ、あれが目には見えぬか、なぜ異見をせぬぞと仰せらるゝ、隠さずとも有様におせあれ▲アト「扨はお聞きなされたが定{*4}で御座るか▲シテ「おゝ聞いておりあるとも▲アト「御存じの上は隠しませう様は御座らぬ、ふと一つ釣りまして夫より面白う存じて、二つ三つ四つ、五つ計も釣りませうか▲シテ「夫々お見あれ、人の仰せらるゝに少しも偽はない、して又狐を釣つて何におしある▲アト「別に何に致すと申す事も御座らぬ、先づ皮をはいで引敷に致す▲シテ「ほい▲アト「身は料理してたべまする▲シテ「ふん▲アト「骨は黒焼にして膏薬煉に売りまする▲シテ「聞さえ身が振るはるゝ、あの狐と云ふ者は、執心{*5}の恐ろしい者ぢや、其上殺生は罪の深い者で、既に仏も五戒の第一に戒め置かれた程に、必ず必ず、お釣ある事は無用でおりあるぞや▲アト「左様の事とも存ぜいで釣りました、唯今からは釣を留りませう▲シテ「何ぢや釣を留らう▲アト「左様で御座る▲シテ「夫ならば爰に狐の執心{*6}の恐ろしい昔物語がある、是を語つて聞かせうか、但し釣を留るまいならば、いらぬ物か▲アト「何が扨釣を思ひ留りませう程に、どうぞ其物語が承りたう御座る▲シテ「夫ならば遥々来たれば草臥た、先づ其床机をくれさしめ▲アト「畏つて御座る、御床机で御座る▲シテ「語らう程によう御聞きあれ▲アト「畏つて御座る▲シテ「抑々狐と申すは、神にておはします、天竺にてはやしほの宮、唐土にてはきさらぎの宮、我朝にては稲荷五社の大明神と申すも、皆是狐なり▲アト「はあ▲シテ「爰に玉藻の前とて女御一人おはします、彼女容色美麗にして、四角八方より見れど更に裏のなき女なり、総じて玉には裏表なき者なればとて玉藻の前とは付けられたり、又化生の前と申すは何ぞなれば、一と年せ御門に御歌合せありて後御管絃の有りし時、永祚の大風吹き来つて禁中の灯一灯も残らず消えぬ、其時彼の玉藻の前が身より金色の光を出し玉殿を照す、帝叡覧ありて後、玉藻の前は人間になし、化生にてありやとて、化生の前とぞ召されける、其後帝程なく御悩{*7}とならせ給ひしかば、安倍の泰成{*8}参り、一徳六害二義三生八難はろくがいと、おきちらし占ひ申しけるは、是皆玉藻の前がしわざなり、夫をいかにと申すに、玉藻の前は根本狐なるが、既に大唐にては幽王の后褒[じ]{*9}と成つて七帝迄取奉り、今又日本に渡り、此君の御命を取奉らんとする、かゝる一大事の御事なれば、御祈祷なくては叶うまじいとて、貴僧高僧を請じ、色々御祈祷をなされ共、更に其験なし、四壇{*10}をついて五壇{*11}を飾り、薬師の法を行うべしと有りし時、大内にたまりかね、下野の国那須野の原に落ちて行く、国内通化の者なれば、おろそかにしては叶うまい、犬は狐の相を得たる者なれば、犬追ふ物と云ふ事を以つて{*12}、御退治あるべきとて、三浦の介上総の介、両介に仰せ付らるゝ、両人はお請を申し、家の子、若党を引具し、那須野の原に下着して、百日の犬追ふ者とぞ聞えける、百日の犬満じければ、尾頭七尋に余る狐一つ出たりしを、一の矢は三浦の介二の矢は上総の介ひようどつきと射る、得たりやおゝど、飛んでおり、剣を抜て彼を害し、帝へ奏聞有ければ、君の御悩{*13}も忽ち御平癒あり、国土納り、泰平の御代になるぞとよ、され共狐の執心{*14}は残つて大石となり、人を取る事数しらず、地を走る獣、空を翔る翅{*15}迄も地に落つ、かゝる殺生をする石なればとて、殺生石とは名付けられたり、爰に玄翁といへる僧あり、彼の石に向つて喝す、汝元来殺生石等石霊性、何れの所より来たり何れの所にか去ると、柱杖を以つて三つ打つ、打たれて此石割しより以来、猶も狐の執心{*16}は残つて人を取るぞとよ、かゝる執心{*17}の恐ろしい者なれば、今日よりしては釣をはつたと、お止りあれかしと思ひすは▲アト「扨も扨も恐ろしい御物語を承つて御座る、唯今迄は左様の執心{*18}恐ろしい者とも存ぜず、只うかうかと釣まして御座る、唯今の御物語で私も発起致して御座る、此後はふつふつ釣を思ひとまりませう程に、お心易う思し召しませ▲シテ「何ぢや、釣をふつふつ思ひ止らう▲アト「はあ▲シテ「夫ならば爰に狐を釣あれは者、わ、わ、なとやら云ふ物があるげな夫をも捨さしめ▲アト「夫はお帰りなされた後で捨ませう▲シテ「いやといへば、其釣道具を見ては、又も釣たい心も出る者ぢやげな、迚も釣を止らうならば、愚僧が見る前でお捨あれ▲アト「畏つて御座る、是で御座る▲シテ「むゝなまぐさいなまぐさい、出家法師の鼻の先へ、其様な腥い物を差し寄すると云ふ事が有る者か、早うお捨ちや▲アト「はあ▲シテ「早う捨さしめ▲アト「畏つて御座る、はあ捨まして御座る▲シテ「何ぢや御捨ちやつた▲アト「左様で御座る▲シテ「やれやれ嬉しや、愚僧が云ふ事を承引召されて満足した、ちと奥へ通つて子供にも逢いたいけれ共、今日は日が悪い、重ねて日を改めて来てあはう、わごりよもちと寺へ御出あれ、寺へお出あつたと云つて、愚僧が事なれば、別に振舞ふものもない、昆布に山椒{*19}をまいて、よい茶を申さう▲アト「夫は忝う御座る▲シテ「愚僧が事なれば別に振舞ふ者もない、昆布に山椒{*20}▲アト「はあ▲シテ「茶ばかり申さう▲アト「ようお出なされました▲シテ「そなたもちと{*21}寺へお出あれ、寺へお出あつても、愚僧が事なれば、別に振舞ふ物もない、昆布に山椒{*22}茶ばかり{*23}ばかりばかりばかりなうなう嬉しや嬉しや、まんまと云ふて釣を思ひ止らせた、此後は何処{*24}何方へ参つても卒度も心にかゝる事はない、此様な心面白い時は小唄ぶしで古塚へ戻らう《小唄{*25}》此里に住めばこそ。浮名もたての。いのうやれ。我古塚へ。しやなら。しやならと《詞》ほい、なうなう恐ろしや恐ろしや罠を捨たと云ふ程に、遠いへも捨たと思へば、身共が帰る道の真ン中に捨ておいた、猟師と云ふ者は疑の心の深い者ぢやなあ、はあ、何やらあそこに黒い小さい物が有る、身共はあの罠と云ふ物を終に見た事がない、今日は幸ひぢや、立寄つて罠の様子を見てこう、やいおのれ其黒い小さいなりをしおつて、某が部類眷属を、よう釣とつたなあよう釣とつたなあゑいゑいゑいくんくんくん、あゝ若者が大勢かゝつたこそ道理なれ、上々の若鼠を油揚にしておいた、何是を喰はぬと云ふ事がある物か、たつた一口に飛かゝつて、ほ、いやいや目の前に大勢かゝつたを見ながら、今又身共が罠にかゝるではあるまい、いらぬ物ぢや古塚へ戻らう、くんくんくんくん、あゝ戻らうとは思へ共、あの匂を嗅でからは、どうも戻られぬ、又よう思へば、部類眷属の為には敵ぢや、其上若者共が餌ばかりむしつて喰ふ事を知らいで罠に懸る、餌ばかり喰ふに何の事があらう飛びかゝつて、とは思へ共、身に青緑りを着て居れば、身が重うてどうも食はれぬ、ゑゝ喰たいなあ喰たいなあ、やい、おのれ部類眷属の敵討に、此青みどりを取つて来て、たつた今己{*26}を取つてぶくする程に、かまへてそこを去りおるな、ゑいゑい、くさい、茶ばかり、わい、わいわいわいわい▲アト「最前伯父の白蔵主のお出なされて、某が狐を釣る事をお聞きなされて、いつにない殊の外の御異見に預つて、罠まで捨て御座る乍去、何共合点のゆかぬ事が御座つた程に、罠を捨かけと申す物に致しておいた、先づあれへ参り罠の様子を見うと存ずる、誠に不思議{*27}な事で御座る、終に暮に及うでお出なされた事もなし、又あの様に者をくどう云ふ人では御座らぬ、其上帰らるゝ時見送つて御座れば、其のまゝ姿を見失うて御座る、兎角合点が参らぬ、わあわあ、是はいかな事{*28}、罠がせゝりさがしてある、是は中々人間のした者ではない、狐がせゝつた者ぢや、はあ扨は最前の白蔵主は、身共日頃ねらう古狐で有たよな、扨も扨も口惜い事哉、身共が合点の行かぬ事ぢやと思ふた、是は口惜い何とせうぞ、いや斯様に餌に付ては、又参る者ぢや、さらば罠をとつくりと張すまして置て、今宵中にきやつを釣つてのけう、総じて狐と云ふ者は、通を得た者ぢやに依つて、いつ何時何に成つてこうも知れぬ事ぢや、あの様によう化た事ぢや、其儘の白蔵主であつた、誰に見せたり共、そでないと云ふ者はあるまい、云ふても云ふても口惜い、最前きやつを狐と存じて御座らば、罠迄に及ぶまい手どらまへにしてのけう者を、残り多い事ぢや、去ながら罠の加減をとつくりと仕すまして、釣おゝせいではおくまい、最前合点の参らぬ事が御座つたに依つて、捕へてぎんみせうと存じたれ共、もし誠の白蔵主様ならば、後難もいかゞぢやと存じて、了簡をした、云うても云うても此様な腹の立つ事は御座らぬ、是々大方罠の加減をとつくりと仕すました、是で釣おゝせいでおくまい、是でよからう、扨いつもあの道から此道へ参るに依つて、むゝ、是でよい、先づ某は此松陰にかくれて居て、彼古狐を待たうと存ずる。そりやかゝつた、よう来おつた、おのれ最前身共をようだましおつた、おのれ夫がよいか是がよいか、おのれ今拝うだと云ふて何のゆるす者ぢや、又罠をはずしおつて取逃した、のう腹立ちや誰もないかあの古狐を捕へてくれいやるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、「我古塚を立出で」。
 2:底本は、「案内を乞うてすは」。
 3:底本は、「存じも依(よ)らぬ」。
 4:底本は、「誠(じやう)」。
 5・6・14・16~18:底本は、「犱心(しうしん)」。
 7・13:底本は、「御脳(ごのう)」。
 8:底本は、「安部(あべ)の康成(やすなり)」。
 9:底本、「[じ]」は[女偏に以]。「Windowsメモ帳」で表示不可能。
 10・11:底本は、「檀(だん)」。
 12:底本は、「持つて」。
 15:底本、「翅」は、「[走繞に羽]」。「Windowsメモ帳」で表示不可能。
 19・20・22:底本は、「山枡(さんしやう)」。
 21:底本は、「少(ち)と」。
 23:底本は、「はぶり(二字以上の繰り返し記号三つ)」。
 24:底本は、「何国(いづく)」。
 25:底本は、「小詞」。
 26:底本は、「已」。
 27:底本は、「不思儀(ふしぎ)」。
 28:底本は、「是はないかな事」。