花子(はなご)(二番目)
▲シテ「洛外に住居(すまひ)致す者でござる。某(それがし)、一年(ひとゝせ)、東へ下るとて、美濃国野上と申す所に泊まり、花子と申す女に、かりそめに酌を取らせてござれば、女心のはかなさは、某を尋ねて上(のぼ)り、北白川に宿をとり、再々文をくるれども、例の山の神が薄知りに知つて、つけて廻るによつて、只一度ならで返事致さぬ。また、今宵参らずば、早(はや)お目にかゝるまい。いかなる淵川へ身を投げても。とある文をくれてござる。是非に及ばぬ。何とぞ、女共を謀(たばか)り、花子の方へ参らう。と存ずる。なうなう。これの人、居さしますか。おりあるか。
▲女「今めかしや。妾(わらは)を呼ばせらるゝは、何事でござる。
▲シテ「ちと相談する事がある。まづ、かう通らしめ。
▲女「それは、心元なうござる。何事でござるぞ。
▲シテ「某、この間は、打ち続いて夢見が悪い。それについて、後生程大事のものはあるまい。と思ふ。
▲女「なうなう、愚かな事を仰せらるゝ。合ふも夢、合はぬも夢、夢の浮世でござる。そつとも心にかけさせられな。
▲シテ「尤、夢は儚(はかな)いものなれども、又、人間の身の果敢(はか)ない事は、朝(あした)の露にも譬(たと)へられた。かゝる消え易き身を持ちながら、我人、油断をする。とかく、今日(けふ)よりは後生の道に入らう。と思ふ事ぢや。
▲女「それは、ともかくもでござる。
▲シテ「いや、後生を願ふ。と云うて、只は願はれぬ。
▲女「何ぞ、難しい事でござるか。
▲シテ「廻国をせねばならぬ。
▲女「廻国とは、何の事でござる。
▲シテ「廻国と云ふは、まづ我が家を出、国々の寺々を巡る事でおりある。
▲女「それは定めて、隙(ひま)のいる事でござらう。
▲シテ「いづれ、諸国を悉く廻ることぢや程に、およそ、十二、三年もかゝらう。
▲女「なうなう、軽忽や、軽忽や。そなたの一日の留守さへ、待ちかぬる妾が、十二、三年の留守が、何となるものでござる。
▲シテ「いや、仕様によつて、三年程で果つる様もおりある。
▲女「三年の事は、おかせられい。片時(かたとき)もなりませぬ。云うても下されな。
▲シテ「それは、そなたの合点が悪い。已に一人(いちにん)成仏すれば、七世の孫も悉く成仏する。と云ふ時は、わごりよのため、かつは子供のためではおりないか。
▲女「それ程に思し召さば、内での行をあそばせ。
▲シテ「内での行が、何がなるものでおりある。
▲女「はて、腕香(うでかう)なりとも頭香(づかう)なりとも、焚(た)かせられい。
▲シテ「扨も扨も、恐ろしい事を云ひ出した。大俗の身として、腕香・頭香が焚(た)かるゝものでおりあるか。
▲女「何と仰せられても、外へと云うては、堅うなりませぬ。
▲シテ「はて、気の毒な。折角思ひ立つた事ぢやに。いや、それならば、一日一夜(いちにちいちや)の隙(ひま)をおくれあれ。
▲女「十二、三年もかゝらう。と仰せらるゝに、一日一夜とは、どうした事でござる。
▲シテ「されば、内での行と仰(お)せあるによつての事ぢや。持仏堂に籠つて衾をかぶり、座禅工夫して悟道する事があるによつて、一日一夜、隙(ひま)をおくれあれ。と云ふ事ぢや。
▲女「あれもなるまい、これもなるまい。と申しても、いかゞでござる。一日一夜の事ならば、どうなりとも遊ばせ。
▲シテ「何ぢや。どうなりともせい。
▲女「中々。
▲シテ「思ふ様にはなけれども、同心召されて満足致した。まづ、一礼申す。
▲女「なうなう、これはいかな事。女に向かうて手を合(あは)すといふことがあるものでござるか。まづ、立たせられい。夜も更けましたらば、酒(さゝ)の燗をして、妾が見舞ひに参りませう。
▲シテ「いかないかな。座禅の場(には)で、女の声を聞いても、その行が空しうなる。必ず必ず、お見舞ひある事は、堅うなりませぬ。
▲女「扨は、見舞ふ事はなりませぬか。
▲シテ「思ひも寄らぬ事ぢや。
▲女「それならば、成程、見舞ひますまい。
▲シテ「明日は早々、お目にかゝるわ、さて。
▲女「誠に、明日は早々、お目にかゝりませう。
▲二人「さらば、さらば。
▲シテ「なうなう、これこれ。
▲女「何事でござる。
▲シテ「庫裡匆々(そうぞう)にして座禅得法(とくぼう)なりがたし。と云ふ。必ず必ず、お見舞ひある事は、堅うなりませぬぞや。
▲女「成程、見舞ふ事ではござらぬ。そつとも心にかけさせられな。
▲シテ「満足致した。
▲二人「さらば、さらば。
▲シテ「なうなう、嬉しや、嬉しや。うまうまと云うて、謀(たばか)つた。まづ、急いで花子の方へ参らう。はあ。こゝに、大事の思案がある。総じて、婦(おんな)の夫を謀(たばか)るは、男よりも勝る。と云ふ。その上、彼は、並々の女でないによつて、万一物影から見て、座禅の体(てい)がなうてはなるまい。何としようぞ。いや。太郎冠者、あるか。
▲太「はあ。
▲シテ「をるか。
▲太「はあ。
▲シテ「居たか、居たか。
▲太「御前に。
▲シテ「まづ、立て、立て。
▲太「これは、殊の外の御機嫌でござる。
▲シテ「機嫌の善いこそ道理なれ。山の神を騙して、花子の方へ行くわ。
▲太「これは、おめでたい事でござる。あのわゝしいかみ様の、何と仰せられましたれば、御合点なされました。
▲シテ「不審、尤ぢや。持仏堂に籠つて衾を被(かぶ)り、座禅工夫して悟道する事がある。と云うて、一日一夜の隙(ひま)を取つたが、何とこれは、でかしたではないか。
▲太「これは、重畳の御分別が出ましてござる。
▲シテ「扨、それに付いて、汝を頼む事がある。
▲太「それは、いか様な儀でござる。
▲シテ「な見舞そ。とは云うたれども、そちが知る通り、つゝと繰り{*2}の早い女ぢやによつて、万一、物影から見て、座禅の体(てい)がなうてはなるまい。近頃太儀ながら、そちは身共に替つて、今宵一夜、座禅をしてくれい。
▲太「畏つてござれども、並々の御方でござらぬによつて、もしこの事が後日に知れましたらば、中々生けては置かせられまい。これは、ご許されて下されませ。
▲シテ「見舞ふ事ではなけれども、念のためぢや。太儀ながら、座禅をしてくれい。
▲太「どうござりませうとも、この儀はご許されませう。
▲シテ「何ぢや。どうあらうとも許せ。
▲太「はあ。
▲シテ「扨は己は、女共が云ふ事は、怖いによつて聞かうず。身が云ふ事は聞くまい。と云ふ事か。
▲太「いや、左様ではござりませねども。
▲シテ「まだぬかし居る。扨々、憎い奴の。この中(ぢゆう)の使ひも、己ではなかつたか。賤しい奴には故事を引いて聞かせう。君は臣を使ふに恩を以つて主とし、臣は君につかふまつるに、命を惜しまざるを以つて忠臣とす。何ぞや、己が様な奴は、何(いづ)くに討つて捨て申さう。
▲太「まづ、お待ちなされませ。
▲シテ「何と待てとは。
▲太「成程、畏つてござる。
▲シテ「いゝや、お畏りあるまいものを。
▲太「畏つてござる。
▲シテ「畏つた。
▲太「はあ。
▲シテ「《笑》嘘ぢや、嘘ぢや。やいやい。かう云ふも、頼まう者がなさでの事ぢや。今のを心にかけずとも、座禅をしてゐてくれい。
▲太「一旦は御断り申してござれども、この上は、畏つてござる。
▲シテ「まづ、かう通れ。
▲太「畏つてござる。
▲シテ「扨、これへ腰をかけい。窮屈にあらうけれども、この衣をかついでくれい。云ふまではないが、自然、女共が来て、この上の衣を取れ。と云ふとも、必ず取るなよ。
▲太「その段は、お気遣ひなされますな。
▲シテ「明朝(あす)は早々、戻つて逢はうぞ。
▲太「明日は早々、お帰りなされませ。
▲シテ「心得た。あら嬉しや。まづ、急いで参らう。
▲女「な見舞そ。とは仰せられたれども、あまり心元なうござる程に、物影から見よう。と思ひまする。これはいかな事。扨も扨も、あれは窮屈さうな事かな。これはどうも、堪忍がならぬ。申し申し。妾でござる。な見舞そ。とは仰せられたれども、余り心元なさに、物影から見ましてござれば、扨も扨も窮屈さうでござる。まづ、その衣(きぬ)を取らせられい。
{太郎、かぶり振る。}
いや。と云ふ事があるものでござるか。命あつての座禅でござる。どうあらうとも、早う取らつしやれ。
{太郎、かぶり振る。}
まだそのつれを仰せらるゝ。妾が見ては、堪忍がなりませぬ。さあさあ、どうあらうとも、衣を取らつしやれ。
{太郎、いよいよかぶり振る。}
いや。と云ふ事があるものでござるか。
{と、無理に衣取る。}
やあ、太郎冠者ではないか。
▲太「あゝ。
▲女「えゝ、腹立ちや、腹立ちや。これの人を、どれへやりをつた、やりをつた。
▲太「どれへ御出なされましたも、存じませぬ。
▲女「存じませぬ。
▲太「はあ。
▲女「えゝ。己が知らいで、誰が知るものぢや。ぬかし居らぬか、ぬかし居らぬか。
▲太「いや。花子様とやらへ、御出なされたさうにござる。
▲女「花子様。えゝ、己までが一つになつて、花子様。めとぬかせいやい、ぬかせいやい。
▲太「まづ、物を云はせて下されませ。
▲女「何と、物を云はせいとは。
▲太「私が、真つかうござる。と存じて、色々御断り申してござれども、座禅をせぬにおいては、お手討になされう。と仰せられましたによつて、是非なうかやうに致して居りました。
▲女「何と云ふぞ。そちは、いや。と云うたれども、座禅せぬにおいては、和男が斬らう。と云うた。それが怖さに、今の様にして居た。と云ふか。
▲太「左様でござる。
▲女「すれば、そちに咎(とが)はないわいやい。
▲太「私に咎はござりませぬ。
▲女「まづ、聞いてくれい。妾には、座禅をするの、工夫をする。と云うて、花子めが所へ行き居つたと思へば、身がぶつぶつと燃えて、腹が立つわいやい。
▲太「御尤でござります。
▲女「ちと、そちに頼みたい事がある。聞いてくるゝか。
▲太「何なりとも、承りませう。
▲女「今、そちがして居た様に、妾を拵へて置いてくれ。
▲太「いや。それは、ご許されませ。
▲女「なぜに。
▲太「この事が、頼うだ御方へ聞こえましては、私が迷惑致しまする。これは、とかくご許されませ。
▲女「いや。それは、気遣ひするな。そちを妾が親里へやつて置いて、和男に指もさゝす事ではないぞいやい。
▲太「それならば、畏つてござる。まづ、かう御通りなされませ。扨、御窮屈にはござらうずれども、これを召しませう。
▲女「云うても云うても、妾を欺(だま)して、花子の方へ行(い)た。と思へば、腹が立つわいやい。
▲太「御尤でござりまする。
▲女「扨、そちは、けな者{*3}ぢや。妾が事をよう聞いてくるゝ程に、美しい切れで、巾着や守り袋を縫うて取らせうぞ。
▲太「それは、忝う存じまする。
▲女「その外、何なりとも、用があらば云へ。叶へて取らせう。
▲太「それは、ありがたう存じまする。
▲女「見えぬ様にして置いてくれい。
▲太「畏つてござる。
▲後シテ「《小歌》{*4}更け行く鐘。別れの鳥も。一人寝(ぬ)る夜は。さはらぬものを。
《小歌》柳の糸の乱れ心。いついつ忘りやうぞ。寝乱れ髪の面影。
《詞》あゝ。扨、かの人の面影を。
《小歌》{*5}いつの春か。見初(そ)め思ひ初(そ)めて。忘られぬ。花の縁や。花の縁やろ。《ノル》寺々の鐘の撞くやつめは憎いの。恋ひ恋ひて。まれ逢ふ夜は。日の出るまでも。寝よとすれば。まだ夜深きに。かうかうかう。かうかうかうと。撞くにまだ寝られぬ。
《詞》ほう。太郎冠者に座禅をさせて置いたを、はつたと忘れた。やいやい、太郎冠者。今、戻つた。定めて待ち兼ねたであらうず。まづ、心元ない。山の神は来なんだか。
{女、かぶり振る。}
何ぢや、来なんだ。やれやれ、嬉しや。それのみ案じたが、来なんだ。と聞いて、安堵した。扨、汝を花子のいかうお褒めあつたぞよ。あの太郎冠者の様な、心の優しい者はござるまい。花中の鴬舌(あうぜつ)は花ならずして香ばし。人は堅に仕へよ。賤しきに交はるべからず。と申すが、さすが、こなたの遣はるゝ者程あつて、褄外れまでが優しい。と云うて、殊の外、お誉めあつた。嬉しいと思へ。扨、今宵の様子を、汝より外に語つて聞かす者がない。そと話して聞かしたけれども、いかにと云うても、面(めん)では恥づかしい。近頃云ひ兼ねたが、今暫く座禅をしてゐて、話を聞いてくれうか。
{女、うなづく。}
満足に思ふ。追つ付け、語つて聞かせう。まづ、あれへ行(い)て、かの人の表に佇(たゝず)み、内の様子を聞いてあれば、花子の声でな。
《小歌》{*6}黄昏時も早(はや)過ぎぬ。来ませぬ君に浮かるゝは。誰(た)が中言(なかごと)か夕顔の。露程も人な恨みそ。我を恨めよ。
《詞》と、歌はれた。この心は、たとへば、某の来ぬは、人の中言で来ぬか。されども、その身を恨むる。とある言の葉ぢや。やがて妻戸をあけう。としたれば。
《小歌》{*7}松風は音信(おとづ)るゝ。灯火(ともしび)暗うして。物の淋しき折節に。君が来たるにや。
《詞》この生男(きをとこ){*8}を、君。と仰せられてな。そこで、妻戸をほとほとゝ叩いたれば。
《小歌》{*9}ほとほとゝ叩いた。水鶏(くひな)にさへも。身はやつす。
《詞》と、歌はれた。この心は、水鶏と云ふ鳥が来て、妻戸を叩く。それさへ、身共か。と思うて、心が引かるゝ。とある言の葉ぢや。もはや身共もこらへかねて、くわたくわたと叩いたれば、誰(た)そ、誰そ。と仰(お)せあつた。やあら聞こえぬ。誰(た)そ。と云はれうはずはない。と思うて。
《小歌》{*10}雨の降る夜に。誰が濡れて来(こ)うづるに。誰(た)そよと咎むるは。人二人待つ身かの。
《詞》と、云ひたれば、足音がしたしたとして、妻戸がきりゝと開いた。誰(た)ぞ。と思うて見たれば、花子であつたと思へ。物をも云はずに走りかゝつて、腰の帯に取りついたれば。
《小歌》{*11}細い腰に細帯した者。のかひはなさいきらさしますな。しげない戯(たはむ)れはせぬものぢや。
《詞》とは、仰(お)せあつたれども、久々で逢うた事なれば、奥の間へ連れて行(い)て、恨みから申さうか。積もる物語から致さうか。と仰(お)せあつた。我に恨みはござるまいが。と申したれば、今度上(のぼ)つて進じた文の数、浜の砂(まさご)はいざ知らず、読み尽くされぬ程進じてござれども、只一度ならで御返事はござらぬ。その文を、こなたに添ふ。と思うて、明け暮れ肌を離さぬ。と云うて、かの文を持ちながら。
《小歌》{*12}身は蛤。文見る度に。濡るゝ袖かな、濡るゝ袖かな。
《詞》恨みはこれまで。いざ、酒(さゝ)を参れ。とて、酒肴を出された。仲直りに一つ参つて下されい。と云うたれば、そのまゝ呑うでおさしやつた。そこで身共も、半分程受けたれば。
《小歌》{*13}ひとつこしめせ{*14}。たふたふ。たふたふと。夜の殿。夜の殿。お伽(とぎ)にや。身。身がまゐろ。身がまゐろ。
《詞》と、仰(お)せあつたによつて、また恰度(ちやうど)受けて、この上をちと参つて下されい。と申したれば、につとお笑ひあつた。その顔の美しさ、絵にも画(ゑが)かれはせまい。花子の顔を見れば見る程美しいによつて、山の神が事をふと思ひ出して、物。と歌うた。
《小歌》{*15}余所(よそ)の女郎見て我が妻見れば、余所の女郎見て我が妻見れば。深山(みやま)の奥のこけ猿めが。雨にしよぼ濡れて。つい蹲(つくば)うたにさも似た。
《詞》と、歌うたれば、まだ山の神が面(つら)が、人の様なか。と思うて、さうもござるまいに。悪口を仰せられて。と仰(お)せあつた。扨、さいつさゝれつする内に、夜がほつてと更けたによつて、しばらくまどらうたれば、鴉が、こかあこかあ。と鳴いた。早、夜が明くるさうな。と云うたれば。
《小歌》{*16}音もせで。およれおよれ。鴉は月に啼き候ふぞ。
《詞》と、仰(お)せあつた程に、又、とろとろとしたれば、今度は東が白うだと見えて、障子に映つた。南無三宝、もはや帰らう。と思うて。
《小歌》{*17}寝乱れ髪を押し撫でゝ。今帰り候ふの。かまへて心変るな。
《詞》と、云うたれば、その時、花子のむくと起きて。
《小歌》{*18}夫の身にさへ変らぬに。まして女の身としてなう。思ひは増すとも。心変るまい。
《詞》扨、忝い事ではないか。さりながら、もはやこゝは思ひ切る所ぢや。と思うて。
《小歌》{*19}名残の袖を振り切りて、名残の袖を振り切りて。扨往(い)なうずよの吹上(ふきあげ)の砂の数。あら名残惜しやの。遥々(はるばる)と送り来て。面影の立つ方を。返り見たれば。月細く残りたりや。名残惜しやの。
《詞》誠に、思ふに別れ、思はぬに添ふ。と云ふは、身共の事ぢや。何とぞ、今少し居たい事ぢや。と思うたれども、もし、この事が山の神へ知れては、某は云ふに及ばず、そちまでが迷惑する。と思うて、戻りにくい所を、思ひ切つて戻つた。いつまで話しても、尽くる事ではない。さあさあ、その衣をとれ。
{女、かぶり振る。}
いやぢや。よしない長物語に腹を立てゝの事か。堪忍をして、まづ衣を取れ。
{女、かぶり振る。}
これはいかな事。とかう云ふ内、ひよつと女共が来れば、迷惑ぢや。早う取れ。
{女、しきりにかぶり振る。}
いやぢや。と云ふ事があるものか。
{と云うて、被衣を取る。}
▲女「やい、そこな奴。おゝ、結構な座禅の、結構な座禅の。どこへうせ居つた、どこへうせ居つた。
▲シテ「物へ行(い)た。
▲女「物とは。
▲シテ「筑紫の五百羅漢へ行(い)た。
▲女「えゝ。一日一夜に、筑紫へ行かるゝものか。ぬかしをれいやい、ぬかしをれいやい。
▲シテ「今のは違うた。若衆に誘はれ、連歌の座敷へ行(い)た。
▲女「まだその様な事をぬかし居る。つかみつかうか、喰ひつかうか。腹立ちやの、腹立ちやの。
▲シテ「もはや、許してくれい、許してくれい。
▲女「よう妾を騙して、花子めが方へ行き居つた。腹立ちや、腹立ちや。
校訂者注
1:「匆々(そうそう)」は、「あわただしいさま」。
2:「繰(く)り」は、「察し。勘ぐり」。
3:「異者(けなもの)」は、「けなげな者」。
4:底本、ここから「いつ忘りやうぞ。寝乱れ髪の。面影」まで、傍点がある。
5:底本、ここから「撞くにまだ寝られぬ」まで、傍点がある。
6:底本、ここから「我を恨よ」まで、傍点がある。
7:底本、ここから「君が来たるにや」まで、傍点がある。
8:「生男(きをとこ)」は、「無骨な男」。
9:底本、「ほとほとと叩いた。水鶏にさへも。身はやつす」に、傍点がある。
10:底本、ここから「二人待つ身かの」まで、傍点がある。
11:底本、ここから「せぬ者ぢや」まで、傍点がある。
12:底本、ここから「濡るゝ袖かな(二字以上の繰り返し記号)」まで、傍点がある。
13:底本、ここから「身がまいろ(二字以上の繰り返し記号)」まで、傍点がある。
14:「こしめせ」は、「きこしめせ」の略。
15:底本、ここから「ついつくぼうたにさも似た」まで、傍点がある。
16:底本、ここから「鴉は月に啼き候ぞ」まで、傍点がある。
17:底本、ここから「かまえて心変るな」まで、傍点がある。
18:底本、ここから「心変るまい」まで、傍点がある。
19:底本、ここから「名残おしやの」まで、傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.)
花子(ハナゴ)(二番目)
▲シテ「洛外に住居致す者で御座る、某一と年せ東へ下るとて、美濃国野上と申す所に泊り、花子と申す女に、仮初に酌を取らせて御座れば、女心のはかなさは、某を尋て上り、北白川に宿をとり、再々文をくるれ共、例の山の神が薄じりに知つて、つけてまわるに依つて、唯一度ならで返事致さぬ、また今宵参らずば、はやお目にかゝるまい、いかなる淵川へ身をなげてもとある文をくれて御座る、是非に及ばぬ、何卒女共をたばかり、花子の方へ参らうと存ずる、なうなう是の人いさしますか、おりあるか▲女「今めかしや妾を呼ばせらるゝは何事で御座る▲シテ「ちと相談する事がある、先かう通らしめ▲女「それは心許なう御座る、何事で御座るぞ▲シテ「某此間は、打続いて夢見がわるい、夫について、後生程大事のものはあるまいと思ふ▲女「なうなう愚な事を仰せらるゝ、合うも夢合はぬも夢、夢の浮世で御座る、そつとも心にかけさせられな▲シテ「尤夢ははかないものなれども、又人間の身のはかない事は、朝たの露にもたとへられた、かゝる消え易き身を持ちながら、我れ人油断をする、兎角今日よりは後生の道に入らうと思ふ事ぢや▲女「夫は兎も角もで御座る▲シテ「いや後生を願ふと云うて只は願はれぬ▲女「何ぞむつかしい事で御座るか▲シテ「廻国をせねばならぬ▲女「廻国とは何の事で御座る▲シテ「廻国と云ふは、先づ我が家を出、国々の寺々をめぐる事でおりある▲女「夫は定めて隙の入る事で御座らう▲シテ「いづれ諸国を悉く廻ることぢや程に、凡十二三年もかゝらう▲女「なうなう軽忽や軽忽や、そなたの一日の留守さへ待かぬる妾が、十二三年の留守が何となる者で御座る▲シテ「いや仕様によつて三年程で果つるやうもおりある▲女「三年の事はをかせられい、片時もなりませぬ、云うても下されな▲シテ「夫はそなたの合点がわるい、已に一人成仏すれば、七世の孫も悉く成仏すると云ふ時は、わごりよの為、かつは子供のためではおりないか▲女「それ程に思し召さば、内での行をあそばせ▲シテ「内での行が何がなる者でおりある▲女「はて腕香なり共頭香なりとも焚かせられい▲シテ「扨も扨も恐ろしい事を云ひ出した、大俗の身として腕香頭香がたかるゝ者でおりあるか▲女「何と仰せられても、外へと云ふてはかたう成りませぬ▲シテ「はて気の毒な、折角思ひ立つた事ぢやに、いや夫ならば一日一夜の隙をおくれあれ▲女「十二三年もかゝらうと仰せらるゝに、一日一夜とはどうした事で御座る▲シテ「されば内での行とおせあるによつての事ぢや、持仏堂に籠つて衾をかぶり{*1}、座禅工夫して悟道する事があるによつて、一日一夜隙をおくれあれと言ふ事ぢや▲女「あれもなるまい是もなるまいと申てもいかゞで御座る、一日一夜の事ならばどうなりとも遊ばせ▲シテ「何ぢやどう成り共せい▲女「中々▲シテ「思ふ様にはなけれ共、同心召されて満足致した、先づ一礼申す▲女「なうなう是はいかな事、女に向うて手を合すと云ふことがある者で御座るか、先づ立たせられい、夜も更けましたらばさゝ{*2}のかんをして、妾が見舞に参りませう▲シテ「いかないかな、座禅の場で、女の声を聞いても、其行がむなしうなる、必ず必ずお見舞ある事は堅うなりませぬ▲女「扨は見舞ふ事はなりませぬか▲シテ「おもひもよらぬ事ぢや▲女「夫ならば成程見舞ひますまい▲シテ「明日は早々お目にかゝるわさて▲女「誠に明日は早々お目にかゝりませう▲二人「さらばさらば▲シテ「なうなう是々▲女「何事で御座る▲シテ「くりそうぞうにして座禅とくぼう成りがたし{*3}と云ふ、必々お見舞ある事は、かたうなりませぬぞや▲女「成程見舞ふ事では御座らぬ、卒度も心にかけさせられな▲シテ「満足致した▲二人「さらばさらば▲シテ「なうなう嬉しや嬉しやうまうまと云うてたばかつた、先づ急いで花子の方へ参らう、はあ、爰に大事の思案がある、総じて婦の夫をたばかるは{*4}、男よりも勝ると云ふ、其上彼は、なみなみの女でないに依つて万一物影から見て、座禅の体がなうてはなるまい、何としようぞ、いや太郎冠者あるか▲太「はあ▲シテ「おるか▲太「はあ▲シテ「居たか居たか▲太「御前に▲シテ「先づ立て立て▲太「是は殊の外の御機嫌で御座る▲シテ「機嫌の善いこそ道理なれ、山の神をだまして花子の方へ行くは▲太「是は御目出度い事で御座る、あのわわしいかみ様の、何と仰せられましたれば御合点なされました▲シテ「不審尤ぢや、持仏堂に籠つて衾を被り、座禅工夫して悟道する事があるといふて、一日一夜の隙を取つたが、何と是はでかしたではないか▲太「是は重畳の御分別が出まして御座る▲シテ「扨夫に付いて汝を頼む事がある▲太「夫はいか様な儀で御座る▲シテ「な見舞そとは云ふたれども、そちが知る通り、つゝとくりの早い女ぢやによつて、万一物影から見て、座禅の体がなうてはなるまい、近頃太儀ながらそちは身共に替つて、今宵一夜座禅をしてくれい▲太「畏つて御座れ共、並々の御方で御座らぬに依つて、もし此の事が後日に知れましたらば、中々いけてはおかせられまい、是は御許されて下されませ▲シテ「見舞ふ事ではなけれ共、念の為ぢや、太儀ながら座禅をしてくれい▲太「どう御座りませう共此儀は御許されませう▲シテ「何ぢや、どうあらう共許せ▲太「はあ▲シテ「扨は己{*5}は、女共が云ふ事はこわいによつてきかうず、身が云ふ事は聞くまいと云ふ事か▲太「いや左様では御座りませね共▲シテ「まだぬかし居る、扨々憎い奴の、此中の使も己{*6}ではなかつたか、賤い奴には故事をひいて聞かせう、君は臣をつかふに恩を以つて{*7}主とし、臣は君につかふまつるに、命を惜まざるを以つて{*8}忠臣とす、なんぞや己{*9}がやうな奴は、いづく{*10}にうつて捨て申さう▲太「先づお待ちなされませ▲シテ「何と待てとは▲太「成程畏つて御座る▲シテ「いゝやお畏りあるまい物を▲太「畏て御座る▲シテ「畏つた▲太「はあ▲シテ「《笑》うそぢやうそぢや、やいやい、かう云ふもたのまう者がなさでの事ぢや、今のを心にかけず{*11}とも、座禅をしてゐてくれい▲太「一旦は御断り申して御座れ共、此上は畏つて御座る▲シテ「先づかう通れ▲太「畏つて御座る▲シテ「扨是へ腰をかけい、窮屈にあらうけれ共、此衣をかついでくれい、云ふ迄はないが自然女共が来て、此上の衣を取れと云ふとも必取るなよ▲太「其段はお気遣なされますな▲シテ「明朝は早々戻つてあはうぞ▲太「明日は早々お帰りなされませ▲シテ「心得た、あら嬉しや、先づ急いで参らう▲女「な見舞そ{*12}とは仰せられたれ共、あまり心許なう御座る程に、物影から見やうと思ひまする、是はいかな事、扨も扨もあれは窮屈さうな事哉、是はどうも堪忍がならぬ、申し申し、妾で御座る、な見舞そとは仰せられたれ共、余り心許なさに物影から見まして御座れば、扨ても扨ても窮屈さうで御座る、先づ其衣を取らせられい{太郎かぶりふる}{*13}{*14}いやと云ふ事がある者で御座るか、命あつての座禅で御座る、どうあらうとも早う取らつしやれ{太郎かぶりふる}{*15}{*16}まだ其つれを仰せらるゝ、妾が見ては堪忍が成りませぬ、さあさあどうあらうとも衣を取らつしやれ{太郎いよいよかぶりふる}{*17}{*18}いやと云ふ事がある者で御座るか{トむりに衣取る}やあ太郎冠者ではないか▲太「あゝ▲女「えゝ腹立や腹立や、是の人をどれへやりをつたやりをつた▲太「どれへ御出なされましたも存じませぬ▲女「存じませぬ▲太「はあ▲女「えゝ己が知らいで誰が知る者ぢや、ぬかし居らぬかぬかし居らぬか▲太「いや花子様とやらへ御出なされたさうに御座る▲女「花子様、えゝ己{*19}迄がひとつに成つて、花子様、めとぬかせいやいぬかせいやい▲太「先づ物を云はせて下されませ▲女「何と物を云はせいとは▲太「私が真ツかう御座ると存じて、種々御断り申して御座れ共、座禅をせぬにおいては、お手討になされうと仰せられましたによつて、是非なう斯様に致して居りました▲女「何と云ふぞ、そちはいやと云ふたれ共座禅せぬにをいては、和男が斬らうと云ふた、夫がこはさに今の様にして居たと云ふか▲太「左様で御座る▲女「すればそちにとがは無いわいやい▲太「私にとがは御座りませぬ▲女「先づ聞いてくれい、妾には座禅をするの、工夫をすると云うて、花子めが所へ行き居つたと思へば、身がぶつぶつともえて腹が立つわいやい{*20}▲太「御尤で御座ります▲女「ちとそちに頼み度い事がある、聞いてくるゝか▲太「何成共承りませう▲女「今そちがして居た様に、妾を拵らへて置いてくれ▲太「いやそれは御許されませ▲女「なぜに▲太「此事が頼うだ御方へ聞えましては、私が迷惑致しまする、是は兎角御許されませ▲女「いや夫は気遣するな、そちを妾が親里へやつて置いて、和男に指もさゝす事ではないぞいやい{*21}▲太「それならば畏つて御座る、先づかう御通りなされませ、扨て御窮屈には御座らうずれ共、是を召しませう▲女「云うても云うても妾を欺して、花子の方へいたと思へば、腹が立つわいやい{*22}▲太「御尤で御座りまする▲女「扨てそちはけな者ぢや、妾が事をよう聞いてくるゝ程に、美しい裂れで、巾着や守り袋を縫うて取らせうぞ▲太「それは忝う存じまする▲女「其外何成共用があらば云へ、叶へて取らせう▲太「それは有難う存じまする▲女「見えぬ様にして置いてくれい▲太「畏つて御座る▲後シテ「《小歌》ふけ行く鐘。わかれの鳥も。一人ぬる夜は。さはらぬ者を《小歌》柳の糸の乱れ心いつ。いつ忘りやうぞ。寝乱れ髪の。面影《詞》あゝ扨て彼人の面影を《小歌》いつの春か。見初めおもひそめて。わすられぬ。花の縁や。花の縁やろ《ノル》寺々の鐘のつくやつめはにくいの。恋こひて。まれあふ夜は。日の出る迄も。寝よとすれば。まだ夜深きに。かうかうかう。かうかうかうと。撞くにまだ寝られぬ《詞》ほう、太郎冠者に座禅をさせて置いたを、はつたと忘れた、やいやい太郎冠者今戻つた、定めて待ち兼たであらうず、先づ心元ない山の神はこなんだか{女かぶりふる}{*23}{*24}何ぢやこなんだ、やれやれ嬉しや、それのみ案じたが、こなんだと聞いて安堵した、扨汝を花子のいかうおほめあつたぞよ、あの太郎冠者の様な心の優しい者は御座るまい、花中の鴬舌は花ならずして香ばし、人は堅に仕へよ、賤敷に交はるべからずと申すが、流石こなたの遣はるゝ者程あつて、褄外れ迄が優しいと云うて、殊の外御誉あつた、嬉しいと思へ、扨今宵の様子を、汝より外に語つて聞かす者が無い、そと話して聞かしたけれ共、いかにと云うても、面でははづかしい、近頃云ひ兼ねたが今暫らく座禅をしてゐて、話を聞てくれうか{女うなづく}{*25}{*26}満足に思ふ、追付語つて聞かせう、先づあれへいて{*27}、彼の人の表にたゝずみ{*28}、内の様子を聞いてあれば、花子の声でな《小歌》黄昏時もはやすぎぬ。来ませぬ君に浮かるゝわ。誰中ごとか夕かほの。露程も人な恨そ{*29}。我を恨よ《詞》ト歌はれた、此心は、たとへば某の来ぬは、人の中言で来ぬか、されども其身を恨るとある言の葉ぢや、頓て妻戸を明うとしたれば《小歌》松風は音信るゝ。灯火暗うして。物の淋敷折節に。君が来たるにや{*30}《詞》此木男を君と仰せられてな、そこで妻戸をほとほとと叩いたれば{*31}《小歌》ほとほとと叩いた。水鶏にさへも。身はやつす《詞》ト歌はれた。此心は水鶏と云ふ鳥がきて妻戸を叩く、それさへ身共かと思うて、心が引かるゝとある言の葉ぢや、最早身共もこらへかねて、くわたくわたとたゝいたれば、誰そ誰そとおせあつた、やあら聞えぬ、誰そと云はれうはずは無いと思うて《小歌》雨の降る夜に。誰が濡れてかうづるに{*32}、誰そよととがむるは人。二人待つ身かの《詞》ト云ひたれば、足音がしたしたとして、妻戸がきりゝと開いた、誰ぞと思うて見たれば花子であつたと思へ、物をも云はずに走りかゝつて、腰の帯に取りついたれば《小歌》細い腰に細帯した者。のかひはなさいきらさしますな。しげないたはむれは。せぬ者ぢや《詞》トは、おせあつたれ共{*33}、久々で逢うた事なれば、奥の間へつれていて、恨から申さうか、つもる物語から致さうかとおせあつた、我に恨は御座るまいがと申したれば、今度のぼつて進じた文の数、浜の砂はいざ知らず、よみつくされぬ程進じて御座れ共、只一度ならで御返事は御座らぬ、其文をこなたに添うと思うて、明暮肌を離さぬと云うて、彼文を持ちながら《小歌》身は蛤。文見る度に。濡るゝ袖かな濡るゝ袖かな《詞》恨は是迄、いざさゝ{*34}を参れとて、酒肴を出された、中なほりに一つ参つて下されいと云ふたれば、其まゝ呑うでおさしやつた、そこで身共も半分程受たれば《小歌》ひとつこしめせたふたふ。たふたふと。夜の殿。夜の殿。おとぎにや身。身がまいろ身がまいろ。《詞》トおせあつたによつて、また恰度うけて、此上をちと参つて下されいと申したれば、につとお笑あつた、其顔の美しさ絵にも画かれはせまい、花子の顔を見れば見る程美しいによつて、山の神が事を不図思ひ出して物と歌うた《小歌》余所の女郎見て我妻見れば余所の女郎見て我妻見れば。深山の奥のこけ猿めが。雨にしよぼ濡れて。ついつくぼうたにさも似た《詞》ト歌うたれば、まだ山の神がつらが、人の様なかと思うて、さうも御座るまいに、悪口を仰せられて、とおせあつた、扨さいつさゝれつする内に、夜がほつてと更けたによつて、しばらくまどらうたれば、鴉がこかあこかあとないた、早夜が明るさうなと云ふたれば{*35}《小歌》音もせでおよれおよれ。鴉は月に啼き候ぞ《詞》トおせあつた程に又とろとろとしたれば、今度は東が白うだと見えて障子にうつつた、南無三宝最早帰らうと思うて《小歌》寝みだれ髪を押撫て。今帰り候の。かまえて心変るな《詞》ト云ふたれば、其時花子のむくと起きて《小歌》夫の身にさへ変らぬに。まして女の身としてなう。思ひは増す共。心変るまい《詞》扨忝い事ではないか、乍去、最早爰は思ひ切る所ぢやと思うて《小歌》名残の袖を振切りて名残の袖を振切りて。扨いのふすよの吹上げ{*36}の砂の数、あら名残おしやの。はるばるとおくりきて。面影のたつかたを。帰り見たれば。月細く残りたりや。名残おしやの《詞》誠に思ふに別れ、思はぬに添ふと云ふは身共の事ぢや、何とぞ今少し居たい事ぢやと思ふたれ共、もし此事が山の神へしれては、某は云ふに及ばず、そち迄が迷惑すると思うて、戻りにくい所を思ひ切つて戻つた、いつ迄話しても尽る事ではない、さあさあ其衣をとれ{女かぶりふる}{*37}{*38}いやぢや、よしない長物語に腹を立てゝの事か、堪忍をして先づ衣を取れ{女かぶりふる}{*39}{*40}是はいかな事、とかういふ内ひよつと女共が来れば迷惑ぢや、早う取れ{女しきりにかぶりふる}{*41}{*42}いやぢやと云ふ事がある者か{ト云ふて被衣を取る}▲女「やいそこな奴、おゝ結構な座禅の結構な座禅の、どこへうせ居つたどこへうせ居つた▲シテ「物へいた▲女「物とは▲シテ「筑紫の五百羅漢へいた▲女「えゝ一日一夜に筑紫へ行かるゝものか、ぬかしをれいやいぬかしをれいやい▲シテ「今のは違うた、若衆にさそはれ連歌の座敷へいた▲女「まだ其様な事をぬかし居る、つかみつかふか、喰ひつかふか、腹立やの腹立やの▲シテ「最早許してくれい許してくれい▲女「よう妾をだまして花子めが方へ行き居つた、腹立や腹立や。
校訂者注
1:底本は、「かふり」。
2・34:底本は、「竹葉(さゝ)」。
3:底本は、「成りかたし」。
4:底本は、「婦の夫をだばかるは」。「の」はカスレ、判読困難。
5・6・9・19:底本は、「已(おのれ)」。
7・8:底本は、「持(も)つて」。
10:底本は、「いつく」。
11:底本は、「心にかけづ」。
12:底本は、「な見舞(みまひ)た」。
13・15:底本は、「▲太「カブリフル」。
14・16・18:底本、全て「▲アト「」がある(全て略)。
17:底本は、「▲太「イヨイヨカブリフル」。
20・22:底本は、「腹が立つわやい」。
21:底本は、「ないぞやい」。
23・37・39:底本は、「▲女「カブリフル」。
24・26・38・40・42:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
25:底本は、「▲女「ウナヅク」。
27:底本は、「あれへゐて」。
28:底本は、「たゞずみ」。
29:底本は、「人な恨ぞ」。
30:底本は、「君が来たろにや」。
31:底本は、「叩いたれは」。
32:底本は、「かうづろに」。
33:底本は、「御(お)せあつたれ共」。
35:底本は、「云ふたけば」。
36:底本は、「吹上け」。
41:底本は、「▲女「シキリニカブリフル」。
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