狂言五十番はしがき

 我が国文学には、諧謔的方面は、概して尠(すくな)い。その最も古く、最も発達した形としては、狂言を推さなければならぬ。狂言の起源に遡(さかのぼ)つたならば、恐らくは、神代に帰着{*1}するだらう。天窟戸(あまのいはと)の舞楽を天鈿女命(あまのうずめのみこと)が奏された時、「爾(か)くありて、高天原(たかまがはら)動(とよ)みて、八百万の神、共に咲(わら)ひき。」とあるのを見ても、火闌命(ほのすそりのみこと)が、「是(こゝ)に、兄、犢鼻(たふさき)を著(つ)け、赭(あか)を以(も)ち掌(たなごゝろ)に塗り、面(かほ)に塗り、弟に告(まを)さく、『吾が汚なき身(からだ)、此(か)く如(あ)り。永く汝が俳優(わざをき)と為(な)りたまはめば。』と曰(まを)しき。乃ち、足を挙げ、踏み行なひ、その溺れ苦しみし状(さま)を学(まね)び。」とあるのを見ても、最初に発達した舞楽は、滑稽を主としたものであつたことが分かる。西洋の詩歌学者が、戯曲としては、滑稽的のものが最初に発達するといふのは、正に我が国の場合にも恰当(かふたう)する。それが、下つて中古の時代までも、猿楽といへば、常に滑稽の動作を主としたものであつた。鎌倉の末頃から、元劇の影響と時代の進歩に促されて、最初に田楽の能が発達し、次に猿楽の能が発達する様になり、猿楽の能は、悲劇的を主としたものとなつたが、昔からの猿楽の実質そのものは、決して消滅はしない。能楽の発達に伴つて、同じく整頓され、面目を改めて、今日の狂言の様なものと発達して来た。そうして、能に伴うて行はれる一種の滑稽劇となつて、能の悲哀・真面目なのと相対して、玩(もてあそ)ばれる様になつたのである。それ故、能の発達が義満将軍の頃から始まつて、豊太閤頃に大成したとすれば、狂言も、それと並行して、同時代の間に発達したものらしい。謡曲の作者がよく分からぬと同様、狂言の作者も、まづ分からぬとしておかねばならぬ。その分からぬことが、かへつて面白いのである。謡曲の方は、昔からの文学から材料を採り、古文句を補綴して文章を為(つく)つたので、技術詩の性質をもつて居るが、狂言は、古来の伝説や童話に基づいて、昔から国民に親密な滑稽を結び付けたので、いはゆる国民詩の性質を備へて居る。作者の詮索は、強(あなが)ちせぬでも良いのである。狂言の中の話は、今でも童話の様になつて、伝はつて居るものである。それは、狂言が本になつて、童話が出来たのでは無い。童話を本にして、狂言が出来たのだと、私は信ずるのである。それ故、太古以来の国民の滑稽・諧謔の趣味が、すべてこの狂言の上に発展されたものとして、非常に価値のあるもの、面白いものと信ずるのである。後世の滑稽文学との関係も又、忽(ゆるが)せにしてはならぬ。徳川の世に出来た落(おと)し噺や、「七偏人」「八笑人」「膝栗毛」などの類、皆、その淵源を狂言に{*2}
ある。一例を挙げていへば、本書に収めた「とぶかつちり」の如きは、「膝栗毛」の中にも取られて居る。しかし、さすがに上流の間に行はれただけ、後世の滑稽の様な卑猥なものはない。足利の世は、概していへば、国民文学の種々な萌芽の生じた時代である。歴史の上では、戦国争乱の最中で、生民塗炭に苦しんだ時代として知られて居るが、連歌の方面でも、俳諧などの発達もある。又、お伽草紙の発達もある。それらと相並んで、狂言も、この時代の重要な産物の一つであつた。狂言の主人公は、シテ、即ち「為手(して)」の義である。ワキは「脇」で、シテの相手になる人物。これは、能にもある。その外に、アド。これも、脇と同様、シテの相手となる客である。シテに取られた人物は、大名・山伏・僧侶の類から、鬼・閻魔などまである。多くは、主人公の無学なこと、無風流なこと、無作法なこと、弱みそなこと、臆病なこと、忘れつぽいこと、気のきかぬこと、等を材料として、滑稽を巧んだもので、偶然の行き違ひから、滑稽な結果の生ずる場合は、あまりない。謡曲の方では、僧侶も、山伏も、霊験のある立派なものが多いが、狂言では、全くの売僧(まいす)坊主、えせ山伏ばかり。古英雄の偉いのに引き較べて、大名・太郎冠者のふがひない有り様。これが、謡曲と相対して、一日の歓を尽くさせたのである。曲の性質から、成立の順序やらによつて分類すれば、面白いが、今は、それは省いた。能に諸流のある様に、狂言にも、大蔵・鷺・和泉の三流があつて、演ずる狂言の数にも違ひがあり、言葉にも異同がある。狂言のこれまで版になつて居るものには、『狂言記』といふのがあつて、続・拾遺を合はせて十五巻、百五十番ある。これは、幸田露伴氏の校訂本で、世に行はれて居る。尚、三流を通じて異つた物を集めたならば、少くとも二百五十番内外はあらう。
 終りに、この本には、世に特に多く、流布しない鷺流のものを採つて、題名を「狂言五十番」としたが、頁数が意外にかさんで、その中、数番を割愛するのやむなきに至つたことである。ひとへに、読者諸君の御諒恕を乞ふ次第である。

   大正十五年十一月上旬
校訂者しるす


校訂者注
 1:底本は「起着」。
 2:底本画像に難があり、約23字分判読不能。