船頭聟(せんどうむこ)

▲シテ「これは、矢橋(やばせ)の渡し守でござる。最前は、松本へ越してござるが、又、戻り船もあらば、乗せて参らう。と存ずる。まづ、あれへ船を寄せて、待たう。と存ずる。えいえい。
▲聟「これは、都方(みやこがた)の者でござる。某(それがし)、矢橋に舅を持つてござるが、いまだ聟入りを致さぬ程に、今日(けふ)は、日柄もようござるによつて、参らう。と存じて、罷り出でた。まづ、そろりそろりと参らう。疾(と)うにも参りたうはござれども、我等如きのことなれば、渡世に隙(ひま){*1}を得いで、今まで延引致いてござる。この段は、参つて断りを申さう。と存ずる。いや、行く程に、大津松本ぢや。これから渡しに乗りませう。船はどれに居るぞ。いや、あれに居る。呼びませう。ほういほうい。なうなう、船頭殿、船頭殿。
▲シテ「やあやあ。こちの事か。
▲聟「申し申し。それは、矢橋への渡し船か。
▲シテ「申し申し。矢橋への戻り船よ。
▲聟「それは、幸ひぢや。乗らう程に、これへ船を寄せさしませ。
▲シテ「心得た。えいえいえい。さあさあ、乗らしませ。
▲聟「心得ておりやる。某は、急ぐ者ぢや程に、早う出いてくれさしませ。
▲シテ「心得ておりやる。今一両人乗せたいものぢや。
▲聟「なうなう。早う出いてくれさしませ。
▲シテ「心得た。せめて今一両人乗せたいが。いや、あれへ見ゆる。おゝいおゝい。矢橋への出船がござる。早うござれ、ござれ。
▲聟「これこれ、今も云ふ通り、急ぐ者ぢや程に、早う出(だ)いてたもれ。
▲シテ「いや、なう。いかに急ぐと仰(お)しやればとて、この大事の渡りが、一人(ひとり)や二人で出さるゝものではない。もそつと待たしませ。
▲聟「いや、これこれ。我御料(わごれう)の骨折りは、無にせまい程に、早う出いてくれさしませ。
▲シテ「やあやあ。骨折りは、無にせまい。
▲聟「中々。
▲シテ「それならば、船を出しておまさう。えいえいえい。さて、そなたは、この寒空に、いづくからいづ方へ行かします。
▲聟「都方の者ぢやが、矢橋へ所用あつて参るよ。
▲シテ「それは、遥々(はるばる)と大儀にござる。さて、例年の事とは云ひながら、当時ほど冷ゆる事はござらぬが、都では何とも取り沙汰はござらぬか。
▲聟「仰(お)しやる通り、いつもよりは冷えが強いとあつて、都でも、その風聞でおりやる。
▲シテ「その筈でござる。あれ、あの比良の山、伊吹が嶽の雪を見さしませ。冷ゆるは尤でおりやる。
▲聟「まこと、夥(おびたゞ)しい雪でおりやる。
▲シテ「いや、なう。その前なは、良いものでおりやる。
▲聟「これは、よそへ進上に持つて行くよ。
▲シテ「某も、さう見受けておりやる。さて、何とも云ひかねてござるが、その酒を一杯振舞ふ事はなるまいか。
▲聟「まこと、某も呑うだり、そなたへも振舞ひたいものなれども、今申す通り、先へ進上に持つて行く程に、振舞ふ事はなるまいよ。
▲シテ「仰(お)しやるは尤なれども、あの日枝(ひえ)の山嵐が烈しうて、別して寒(かん)じて、艪も押されぬ程に、平(ひら)に一杯呑まさしませ。
▲聟「そなたは、聞き分けもない事を云はします。進上にするものを、何と、路次であらさるゝものぢや。これは、思ひきらしませ。
▲シテ「あゝ、我御料(わごれう)は、律義な事を云ふ人ぢや。一つやなど、振舞はしましたと云うて、何の知れうぞ。手が凍えて、艪が押されぬ程に、平(ひら)に一つ呑まさしませ。
▲聟「まだ、くどい事を仰(お)しやる。何程云うても、ならぬ。と云へば。
▲シテ「さては、これ程に云うても、しかとならぬか。
▲聟「いかないかな。ならぬよ。
▲シテ「それは、まことか。
▲聟「まことぢや。
▲シテ「真実か。
▲聟「真実ぢや。
▲シテ「一定(いちゞやう)か。
▲聟「一定(いちゞやう)ぢや。
▲シテ「あゝ、是非がない。手が凍えて、艪を押されてこそ。おゝ、寒やの、寒やの。
▲聟「こりやこりや。何とするぞ。船が流るゝわ。早う止めておくりやれ。止めておくりやれ。
▲シテ「船は流れうと、山へ上らうと、儘よ。手が凍えて、艪が持たれてこそ。寒やの、寒やの。
▲聟「これこれ。酒を振舞ふ程に、早う船を止めてたもれ。
▲シテ「いやいや、進上に召さるゝ酒を、呑まう。といふは、僻事(ひがごと)ぢや。呑まう事ではおりない。
▲聟「さう云はずとも、まづ船を止めて、一杯呑うで、温(あたゝ)まつて漕がしませ。
▲シテ「で、おりやるか。
▲聟「中々。
▲シテ「それほどに仰(お)しやるものを、船を止めいで何とせう。何と、止めたでおりやらう。
▲聟「げに、止まつておりやる。さて、盃があるか。
▲シテ「されば、何も盃はないが。いや、こゝに、良いものがある。これへ注(つ)がしませ。
▲聟「それは、何でおりやる。
▲シテ「これは、船の垢をかゆる、柄杓でおりやる。
▲聟「はてさて、夥しいものでおりやる。一つならで、ならぬぞ。
▲シテ「まづ、注がしませ。
▲聟「どぶどぶどぶ。
▲シテ「おゝ、一つおりやる。あゝ、良い気味でおりやる。も一つ注がしませ。
▲聟「いや、一つならでは、ならぬと云うたに。もはや、いらぬものにさしませ。
▲シテ「はてさて、一つ振舞うたも、二つ振舞うたも、同じ事ぢや程に、も一つ振舞はしませ。
▲聟「それならば、半杯ならではならぬぞや。
▲シテ「さう云はずとも、まづ注がしませ。
▲聟「どぶどぶどぶどぶ。もはや、それで堪忍さしませ。
▲シテ「扨も扨も、良い気味ぢや。も一つ注がしませ。
▲聟「はてさて、しつこい人ぢや。もはや、ならぬよ。
▲シテ「さう仰(お)しやらずとも、平(ひら)に、も一つ注がしませ。
▲聟「それならば、今度は少しならではならぬぞ。
▲シテ「その様なことを仰(お)しやらずとも、平(ひら)に注がしませ。
▲聟「どぶどぶどぶ。もはや、軽うなつた。
▲シテ「扨も扨も、良い酒ぢや。爪の先まで温(あたゝ)まつておりやる。この勢ひにひと精出したらば、矢橋へは、忽ち漕ぎ着けうぞ。
▲聟「早う出いてくれさしませ。
▲シテ「えいえいえい。何と、船の足が早うなつたでおりやらう。
▲聟「まことに、早うなつておりやる。
▲シテ「ちと、謡ひませう。山田矢橋の渡し舟の、夜は通ふ人なくとも、月の誘はゞおのづから、船も漕がれて出づるらん。{*2}いや、船が着いた。上がらしませ。
▲聟「心得ておりやる。
▲シテ「又、戻りにも、某の船に乗らしませ。
▲聟「中々。乗せておくりやれ。
▲二人「さらば、さらば。
▲聟「扨も扨も、思ひの外の事で、手間を取つてござる。急いで参らう。と存ずる。さて、舅の方(かた)は、この辺で、柴垣とやら、葭垣(あしがき)とやらがある。と聞いたが。さればこそ、これさうな。まづ、案内を乞はう。物まう。{*3}案内まう。
▲女「表に、聞き馴れぬ声で、物まう。とあるが。案内とは、どなたでござるぞ。いや、これは、見馴れぬお方でござるが、何方(いづかた)から出でさせられてござるぞ。
▲聟「私は、都方の者でござるが、誰殿の宿は、これでござるか。
▲女「中々。これでござる。さては、こなたは聟殿でござるか。
▲聟「中々。聟でござる。
▲女「内々、待ちましたに、ようこそござつたれ。まづ、かう通らせられい。
▲聟「心得ました。これは、今日(けふ)の祝儀に、持参致してござる。
▲女「これには及びませぬものを。さりながら、幾久しう申し受けておきませう。何と、おごうは、息才で居りまするか。
▲聟「随分達者でござる。
▲女「それは、嬉しうこそござれ。
▲聟「舅殿に、お目にかゝりませう。
▲女「舅は近所へ出られてござる。追つ付け帰られませう程に、ちと、それに待たせられい。
▲聟「心得てござる。
▲女「これのは、何をして居らるゝぞ。
▲シテ「思ひの外、手間取つてござる。急いで宿へ罷り帰らう。と存ずる。いや、女共。何として、これへおりやつたぞ。
▲女「こなたには、今まで何をしてござつたぞ。
▲シテ「何をして居るものぢや。矢橋への戻り船を越して居たによつて、それ故、手間取つておりやる。
▲女「それなれば、尤でござる。都より、聟殿の参られてござる。
▲シテ「やあやあ、聟がわせた。
▲女「中々。
▲シテ「なうなう、嬉しや。内々、待ちかねて居たところぢや。急いで会はう。
▲女「早う会はせられませい。
▲シテ「どれどれ、出て会ひませう。
▲女「申し申し、舅、戻られてござる。申し申し、こなたには、なぜに会はせられぬぞ。
▲シテ「あれが、聟でおりやるか。
▲女「中々。聟殿でござる。早う出て会はせられませい。
▲シテ「あれが聟ならば、某は会はれぬ程に、そなた、良い様に云うて、戻さしませ。
▲女「はてさて、都から遥々(はるばる)わせた聟殿に、なぜに会はせられぬぞ。さあさあ、早うあれへござつて、会はせられい。
▲シテ「いやいや、某は、会ふ事はならぬ。早う帰さしませ。
▲女「はてさて、こなたには、異な事を云はせらるゝ。会はれぬとは、いか様(やう)な事でござるぞ。早う云うて聞かさせられいの、聞かさせられいの。
▲シテ「それならば、云ひもせうが。あの聟は、樽など持参せなんだか。
▲女「中々。樽を持つてわせてござる。
▲シテ「それならば、いよいよ会ふ事はならぬよ。
▲女「それは猶々、心元なうござる。さあさあ、早う訳を仰せられい、訳を仰せられい。
▲シテ「そなたにも、恥づかしうて云はれぬ事でおりやる。
▲女「いやいや、是非ともに、聞かねばなりませぬ。早う云はせられい、云はせられい。
▲シテ「それ程に仰(お)しやらば、云うて聞かせう{*4}。最前、この者を、松本より矢橋まで乗せたところに、あまり冷えて手が凍ゆるにより、聟とは知らいで、あの酒を所望して呑うだによつて、会はれぬ。との云ひ事でおりやる。
▲女「はてさて、こなたには、さもしい。その様な事がござらうかいの。さりながら、船中の事なれば、見知りもござるまい程に、出て会はせられい。
▲シテ「いやいや、呑ませまい。と云うたを、一つ二つ、口論をして呑うだによつて、中々見忘れはあるまい。良い様に云うて帰さしませ。
▲女「はてさて、苦々しい。こなたにも、嗜ませられい。いかに寒いとて、その様なさもしい事をなさるゝといふ事が、あるものでござるか。又、わざわざ、遥々(はるばる)とわせたものを、只帰さるゝものでござらうか。何とぞ分別をして、会はせられい。
▲シテ「されば、何として会はうぞ。我御料(わごれう)、良い様に思案をしてくれさしませ。
▲女「何と致しませうぞ。いや、申し。良い事を思ひ出してござる。総じて人は、髪が生ゆれば年が寄つて見ゆるものでござる程に、その髪を剃つて、頭巾を脱いで出させたらば、よもや見知りもござるまい程に、さうさせられい。
▲シテ「これは、一段と良い分別ぢや。それならば、髪を剃つてたもれ。
▲女「心得ました。これへござれ。
▲シテ「心得た。何と、良いか。
▲女「申し申し。髪を剃らせられたれば、殊の外、若やがせられた。
▲シテ「それは、嬉しうおりやる。急いで会はう。
▲女「申し申し、聟殿。舅、戻られましてござる。
▲シテ「聟殿、内々待ち受けましたに、ようこそ出させられた。
▲聟「早々参りませうを、かれこれ、隙(ひま)を得ませいで、今まで延引致いてござる。
▲女「これは、聟殿の御持参でござる。
▲シテ「これは、いらぬことを召されて、忝うござる。
▲聟「わざと、祝儀ばかりに持参致しましてござる。
▲シテ「女共、めでたう開いておくりやれ。
▲女「心得ました。盃を持ちましてござる。
▲シテ「今日(けふ)の事でござる程に、某から始めて進じませう。
▲聟「ようござらう。
▲シテ「慮外ながら、こなたへ進じませう。
▲聟「戴きまする。
▲シテ「一つ、参りませい。
▲聟「何が扨、一つ下されませう。扨、これを慮外ながら、こなたへ進じませう。
▲女「妾(わらは)が戴きませう。
▲聟「恰度(ちやうど)、参りませい。
▲女「一つ、下されませう。又、これを、聟殿へ進じませう。
▲聟「私の、戴きませう。
▲女「こなたにも、一つ、参りませい。
▲聟「何が扨、たべませいでは。扨、これを、慮外ながら、舅殿へ進じませう。
▲シテ「中々。これへ下されい。も一つ参りませぬか。
▲聟「もはや、下されますまい。
▲シテ「それならば、納めに致しませう。
▲聟「それが、ようござらう。申し、あれが舅殿でござるか。
▲女「中々。舅でござる。
▲聟「いやいや、あれは、舅殿ではござるまい。矢橋の船頭でござる。おのれ、又、これへ出でをつたか。
▲シテ「あゝ、これこれ。某は、舅ぢやが。そなたは何事を仰(お)しやるぞ。
▲聟「何事とは。汝は、又酒を呑まう。と思うて、うせをつたな。
▲シテ「あゝ、これこれ。聊爾を仰(お)しやるな。
▲女「申し申し、聟殿。何事を仰(お)しやる。あれは、舅殿でござるわいの。
▲聟「いやいや、こなたには、御存じござるまい。あれは、矢橋の船頭で、最前、船の中で酒を貪(むさぼ)つて呑うだが、又これへねだりに来たか。おのれ、只置く事ではないぞ。
▲シテ「あゝ、これこれ。はてさて、我御料(わごれう)は、聊爾な事を仰(お)しやる。矢橋の船頭は、某も知つて居る。ふつさりと髪があるが、これを見やれ。某には、髪がないよ。
▲聟「おのれに髪を剃つてうせをつて、憎い奴の。只置く事ではない。叩き倒(たふ)いてのけう。
▲シテ「これこれ、聊爾を召さるな。女共、取りさへてくれい。
▲女「申し申し、聟殿。何事をさしますぞ。
▲聟「何事とは。横着者め。逃す事ではないぞ。
▲シテ「許いてくれい、許いてくれい、許いてくれい。
▲聟「どちへ行くぞ。人はないか。捕らへてくれい。やるまいぞ、やるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は「隙(すき)」。
 2・3:底本、ここに「▲聟「」がある。
 4:底本は「云うて聞  う」。

底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション

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