御冷(おひや)
▲主「これは、この辺りの者でござる。召し使ふ者を呼び出(い)だいて、申し付くる事がござる。太郎冠者、居るかやい。
▲シテ「はあ。
▲主「あるか。
▲シテ「御前に。
▲主「汝を呼び出(い)だいたは、別の事でもない。いつもとは云ひながら、この程の御参会は、夥(おびたゞ)しい事ではないか。
▲シテ「御意の如く、各々様の御参会には、いつにても大御酒(おほごしゆ)とは申せども、しかし頼うだ人のござらねば、御酒(ごしゆ)もしみませず、お座敷も淋しうござる。とあつて、何(いづ)れもこれのみ、取り沙汰致しまする。
▲主「さては、皆人の左様に仰せらるゝか。
▲シテ「中々。下々(しもじも)までも、左様に申しまする。
▲主「取り分け、夜前は大御酒(おほごしゆ)にて、今に御酒(ごしゆ)の酔ひがさめぬ。その、お冷(ひや)を持つて来い。
▲シテ「お冷(ひや)とは、何の事でござる。
▲主「そのお冷(ひや)を持つて来い。飲まうよ。
▲シテ「さては、水の事でござるか。
▲主「やい。某(それがし)の召し使ふ者とも覚えぬ、かたことを云ふ者ぢや。あれは、お冷(ひや)とこそ云へ。水と云ふ事があるものか。或いは、お馬のすそを冷やすの、又はお肴の冷やし物。などゝ云ふものぢや。
▲シテ「御意ではござれども、お鷹のぶち水の、びん水の、やり水のなど、水とこそ申せ。びんお冷(ひや)。とは申しますまい。その上、古歌にも水と申す事がござる。
▲主「して、それは何とあるぞ。
▲シテ「昔、鳥羽の院の北面の侍、佐藤兵衛憲清と云つし人、つらつら世間の有り様(さま)をおもんみるに、風前の灯(ともしび)、蜉蝣(ふいう)の朝(あした)に生じて夕(ゆふべ)に死す。朝顔の露、電光石火の光、人間以つて同じ事なり。と悟り、元結(もとゆひ)切り、法名を西行と申すが、諸国を修行なされ、ある時、美濃の国・垂井の宿に着き、醒(さめ)が井の水を一つ参らんか。と、麦粉を取り出だされければ、折節、風吹き来たつて、麦粉を吹き散らす。その時、西行の歌に、頼みつる麦粉は風に誘はれて、今日(けふ)醒が井の水をこそ飲む。とござれ。今日(けふ)醒が井のお冷(ひや)を飲む。とはござりますまい。
▲主「それに、ちと待て。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「扨も扨も、召し使ふ者とて、聊爾にものを申すまじき事でござる。某は、口へ出まかせに申したれば、太郎冠者は、古歌を引いて申す。この方にも、何ぞお冷(ひや)と申す事はないか知らぬ。いや、面白可笑しう申しまいて置かう。やいやい、太郎冠者。
▲シテ「はあ。
▲主「汝が方(はう)に水と云ふ古歌があれば、某の方にもお冷(ひや)といふ謡があるよ。
▲シテ「それは、何とござる。
▲主「妻戸ほとほと敲いて、お冷(ひや)持つて参りけり。お冷(ひや)持つて参りけり。
▲シテ「なう、主殿(しゆどの)。
宗廟の神として、弓矢の家を守らしめ。石清水の水。
《詞》石清水の水。とござる。
宗廟の神として、弓矢の家を守らしめ。石清水の水。
《詞》石清水の水。とござる。
▲主「何でもない事。あちへ失(う)せう。
▲シテ「はあ。
▲主「まだ、それに居るか。
▲シテ「はあ。
底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション)
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