伯母酒(をばがさけ)

▲女「妾(わらは)は、この山蔭(やまかげ)に住む者でござる。今日(けふ)は日柄も良うござる程に、山外れへ酒店(さかみせ)を出さう。と思ひまする。まづ、こゝ元に飾りませう。見たところが一段と良い。やあやあ、皆々聞かせられい。こゝ元で酒を商売致す程に、ご所望の方あらば、こなたへ仰せられいや。
▲シテ「これは、この辺りに住居(すまひ)致す者でござる。某(それがし)、この山外れに伯母を持つてござるが、今日(けふ)は酒店を出された。と申す程に、悦びながら、酒を呑うで参らう。と存じて罷り出でた。まづ、急いで参らう。かやうにわざわざ参つても、常々伯母は堅い御人(ごじん)でござるによつて、振舞はれうか、振舞はれまいか知らねども、面白可笑しう申しないて、たべう。と存ずる。いや、これさうな。申し、申し。お見舞ひ申しまする。
▲女「いや、おりやつたよ。
▲シテ「この間は、久しうお見舞ひも申しませぬが、変らせらるゝ事もござらぬか。
▲女「中々。変る事もないが、何と思うておりやつたぞ。
▲シテ「只今参るは、別の事でもござりませぬ。今日(けふ)は日柄も良うて、酒店を出させられて、かやうのめでたい事はござりませぬ。
▲女「仰(お)しやる通り、今日(けふ)は日柄も良うて、酒店を出す様な悦ばしい事はおりないよ。
▲シテ「こゝ元は、山外れとは申しながら、往来の者も多うござるによつて、定めて店も繁昌致しませう。
▲女「その通りでおりやる。またそなたは、方々(かたがた)をする人ぢや程に、伯母が酒の良い。といふ事を、随分云ひ触れて、店の繁昌する様に頼むぞ。
▲シテ「その段は、お気遣ひなされまするな。随分方々(かたがた)へ申し触れませう。扨、まづ私に一つ振舞はせられませい。
▲女「尤、振舞ひたいものなれども、まだ売り初めをせぬにより、振舞ふ事はならぬ。重ねておりやれ。振舞はうぞ。
▲シテ「いや、申し。売り初めをなされたの、なされぬの。と申すは、他(た)の者の事でござる。私は御内(おんうち)の者同然でござる程に、平(ひら)に振舞はせられませい。
▲女「いやいや。今日(けふ)は振舞ふ事はならぬ。重ねておりやつた時、振舞はうぞ。
▲シテ「いや、申し。これを、私のたべたいばかりで申すではござらぬ。自然、何(いづ)れもの、やい、そちが伯母の酒は良いか。と仰せられた時、されば、何とあるをも存ぜぬ。と申しては、いかゞでござる。私の風味を見まして申し触るゝためでござる程に、平(ひら)に一盃振舞はせられい。
▲女「はて扨、くどい事を仰(お)しやる。どうあつても振舞ふ事はならぬ。重ねておりやれ。と云へば。
▲シテ「扨は、どうあつてもなりませぬか。
▲女「いかないかな。振舞ふ事はならぬよ。
▲シテ「それならば、もう、かう参りまする。
▲女「おりやらうか。
▲シテ「中々。
▲二人「さらば、さらば。
▲女「良うおりやつた。
▲シテ「は。{*1}はて扨、律儀な伯母でござる。これまでわざわざ参るも、酒をたべたさに参つたれ。呑まずに戻るも、残り多い事ぢやが。何とせうぞ。いや、申し様がござる。申し、申し{*2}。ござりまするか。
▲女「いや。そなたは、まだ帰らしまさぬか。
▲シテ「戻らう。と存じて、路次まで出てござるが、ちとお話し申したい事がござつて、わざわざ立ち帰りましてござる。
▲女「それは、いか様(やう)なことでおりやる。
▲シテ「別の事でもござらぬ。この広い山外れに、女儀(によぎ)の身として、おひとりおはすにより、もし、怪しい者が入(はい)つては、いかゞでござる程に、そのご用心をなされたれば、良うござりませう。
▲女「志(こゝろざし)は過分なれども、かやうに治まる御代(みよ)なれば、怪しい事もあるまい程に、気遣ひさしますな。
▲シテ「いや、去年とやら、去々年とやら、この山里へ入(はい)つた。と申しまする。私は外(ほか)に居ますれば、早速には参られませぬによつて、随分ご用心なされませい。
▲女「いやいや。その様な事もあるまい。心安う思はしませい。
▲シテ「何と、振舞はせられますまいか。
▲女「はて扨、聞き分けもない、くどい人ぢや。いか様(やう)に仰(お)しやつても、ならぬよ。
▲シテ「それならば、もう、かう参りまする。
▲女「おりやらうか。
▲シテ「中々。
▲二人「さらば、さらば。
▲シテ「これはいかな事。色々と申して見れども、呑まされぬ。心強い人ぢや。あの如く云はるれば、ひとしほたべたいが。何と致さうぞ。いや、良い事を思ひ出いた。早(はや)、日も晩ずる程に、致し様がござる。
▲女「いや。日も晩ずる程に、店をしまひませう。さらさらさら。
▲シテ「物まう。こゝ、ちとおあけやれ。
▲女「誰でござるぞ。
▲シテ「近所の者ぢや。用がある程に、あけておくりやれ。
▲女「もはや、店をしまうてござる程に、用があらば、明日(みやうにち)ござれ。
▲シテ「いや。酒を調(とゝの)へに来た程に、ちよつとあけてくれさしませ。
▲女「やあやあ。酒を調(とゝの)へに来た。
▲シテ「中々。
▲女「それならば、あけいで何とせうぞ。さらさらさら。
▲シテ「いで、喰らはう。おうおうおう。あゝあゝあゝ。
▲女「なうなう。恐ろしやの、恐ろしやの。あの鬼は、どこから来たぞ。人はないか。追ひ出いて下されい。恐ろしやの、恐ろしやの。
▲シテ「やい、そこな奴。おのれは、女の身として、この山外れのひとつ家(や)にひとり住居(ずまひ)をする。といふ事があるものか。頭から、たつたひと噛みにせう。いで、喰らはう。あゝあゝあゝ。
▲女「真つ平(ぴら)、命を助けて下されい。
▲シテ「その上に、おのれは無道心な奴ぢや。最前、甥が見舞うたに、なぜに酒を振舞はぬぞ。向後(きやうご)、酒を呑ませうか。呑ませまいか。こちらの腕(かひな)を噛みひしいでのけう。いで、喰らはう。あゝあゝあゝ。
▲女「重ねて参つたならば、振舞ひませう程に、命を助けて下されませい。
▲シテ「何ぢや。命を助けてくれい。
▲女「中々。
▲シテ「さりながら、某にも酒を呑ませうか。
▲女「中々。参りませい。
▲シテ「酒舟(さかぶね)は、どちらにあるぞ。
▲女「それにござりまする。
▲シテ「さりながら、汝がそれに居ては、呑みにくい。どちらへなりとも、出て行かう。
▲女「あゝ。
▲シテ「あゝ。とは。おのれ、出て行くまいか。
▲女「いや、参りまする。
▲シテ「いで、喰らはう、喰らはう、喰らはう。あゝあゝあゝ。
▲女「参りまする、参りまする。
▲シテ「扨も扨も、女と申す者は、愚かな者でござる。正身(しやうしん)の鬼ぢや。と思うて恐るゝ様な可笑しい事は、ござつてこそ。いで、喰らはう。あゝあゝあゝ。《笑》さらば、たべう。扨も扨も、呑まう、呑まう。と思うて呑うだ故か、冷やりとばかりして、風味が知れぬ。もひとつたべう。今、やうやうと呑み覚えた。これは、伯母の惜しまるゝは、尤ぢや。良い酒でござる。いで、喰らはう。あゝあゝあゝ。《笑》これでは、何とやら窮屈で悪い。かやうに致いてたべよう。何程呑うでも呑み飽かぬ、良い酒でござる。もひとつたべう。むゝ。扨も扨も、旨い事ぢや。いで、喰らはう、喰らはう。恐ろしいか、恐ろしいか。鬼ぢやものを。《笑》はて扨、女と申す者は、愚かな者でござる。これでも何とやら、異なものぢや。何とせうぞ。いや、致し様がござる。膝へかけて置かう。これこれ、これで良うござる。いで、喰らはう、喰らはう。恐ろしいか。鬼ぢやものを。《笑》扨も扨も、面白うなつた。もひとつたべう。もはや、残り少なになつた。これとゝもに、たべう。うゝ、旨い事ぢや。いで、喰らはう、喰らはう。
▲女「扨も扨も、恐ろしい事かな。甥が申すを、偽りか。と存じたれば、正身(しやうしん)の鬼に逢うてござる。さりながら、内が殊の外、ひそかになつてござるが。もはや、最前の鬼は、出て参つたか知らぬまで。参つて、様子を見ませう。これはいかな事。鬼か。と存じたれば、妾(わらは)が甥でござる。扨も扨も、腹の立つ事かな。最前、酒を呑ませなんだによつて、妾を謀(たばか)つて、酒を呑みにうせをつた。なう、腹立ちやの、腹立ちやの。やいやいやい。やい、そこな奴。起きぬか、起きぬか、起きぬか。
▲シテ「むゝ。いで、喰らはう、喰らはう。
▲女「おのれは憎い奴の。よう妾を誑(たら)いて、酒を呑うだな。
▲シテ「真つ平(ぴら)、許いて下されい、許いて下されい。
▲女「あの横着者。人はないか。捕らへてくれい。やるまいぞ、やるまいぞ、やるまいぞ。

校訂者注
 1:底本、ここに「▲シテ「」がある(略す)。
 2:底本は、「中々(なかなか)。」。

底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション

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