蜘蛛盗人(くもぬすびと)
▲シテ「罷り出でたる者は、この辺りに住む者でござる。この中(ぢゆう)、若き衆と初心講を結んでござるが、当月は、某(それがし)の当番でござる。何(いづ)れもの方(かた)へ参れば、色々馳走をなさるれども、某は手前物事不調にござれば、何とも迷惑致す。しかし、何(いづ)れもの方(かた)へは参り、手前の当を勤めまい。と申す事もならぬによつて、とつゝおいつ思案の致すに、何右衛門殿と申す御方は有徳な人でござる程に、こなたへ今宵忍び入つて、何なりとも、断りなしに借りて参り、それを代(しろ)なして、各々同然に当を勤めませう。と存じ、罷り出でた。まづ、そろりそろりと参らう。手前不自由なれば、あられぬ思案の出づる事でござる。さりながら又、仕合せも致してござらば、買ひ戻して返すれば、別に科(とが)にはなるまい。いや、何かと申す内に、これぢや。中々、表は用心が良いによつて、入(はい)られさうにはない。裏へ廻り、様子を見ませう。定めて裏は、かやうにはあるまい。まづ、裏へ廻らう。何とぞ首尾良くし済ましたい事ぢやが。さればこそ、申さぬ事か。表とは違うて、また裏道は、さほどには見えぬよ。まづ、葦垣(よしがき)さへ越えたらば、忍び入つたものぢやが。これを何とぞして、破りたい事ぢやが。えい。致し様がある。ずかずかずか、ぐわつさり。まづ、内に誰も聞かぬ。と見えて、人音はせぬぞ。さらば、入(はい)りませう。いや、えい。まづ、入(はい)つたぞ。まあ、いかう胴が震(ふる)ふぞ。何のその。これ程にして、その儘帰るところではあるまい。この雨戸をあけて、座敷へ入(はい)つて、何なりとも、手に当たるものを、幸ひに借つて行かう。さらさらさら。
▲アド「いや、裏の座敷の戸があく音が致した。不思議な事ぢやまでい。やれ、盗人よ。皆の者ども、出合へ。逃がす事ではないぞ。これは、どこへ逃げたぞ。さてさて、口惜しい。只ひと打ちに致さう。と思うたに。但し、坪の内なる植え込みに、屈(かゞ)うでがな居るものであらう。いや、これに居るぞ。おのれは憎い奴の。よう入(はい)り居つたよ。只ひと打ちにしてくれうぞ。
▲シテ「あゝ、これこれ。早まらせられな。盗人ではござらぬぞ。
▲アド「おのれ、人の内へ夜更けて忍び入つて、盗人でない。とは。憎い奴めの。只ひと打ちにせう。
▲シテ「あゝ。まづ、ものを云はせ。この様に、蜘(くも)の巣にかゝりて、迷惑致して居るものを、ひと打ちにせう。とは、それはあまりつれない事よ。
▲アド「何ぢや。蜘(くも)の巣にかゝつて迷惑する。やあやあ。まことにこれは、蜘(くも)の巣にかゝつて居るわ。《笑》蚊や蠅の様に、大きな形(なり)をして、蜘(くも)の巣にかゝつてもだもだして、あの形(なり)は。《笑》
▲シテ「いや、これこれ。その様に笑はせられな。馬さへ蜘(くも)の巣にかゝる例(ためし)があるもの。人ぢや。とありて、かゝるまいものではござらぬぞ。
▲アド「何ぢや。馬さへ蜘(くも)の巣にかゝる。と云ふか。
▲シテ「中々。古歌にもござるよ。
▲アド「何とある。
▲シテ「蜘(くも)の巣に荒れたる駒は繋ぐとも、二道(ふたみち)かくる人は頼まじ。とあれば、昔は蜘(くも)の巣に馬も繋がれた。今、人が蜘(くも)の巣にかゝりたればとて、可笑しい事はあるまいぞ。
▲アド「やあら、盗人には優しい事ぢや。古歌を覚えて申す。これは、許さう。やいやい。今ひと打ちにせうずれども、盗人には優しい古歌を引いた。某、これについて、上の句を詠まう程に、汝、下の句を付け。さもあらば、命を助くるぞ。
▲シテ「それは、忝うござる。さりながら、左様なる事は、申した事がござない。只、その儘助けて下されませ。
▲アド「いやいや。汝は優しい者なれば、なるであらう。かうもあらうか。
▲シテ「何と。
▲アド「蜘(くも)の巣にかゝる不思議の盗人を。
▲シテ「斬るも斬られぬさゝがにの糸。
▲アド「これは、一段と出来た。助くる程に、いざ、出て帰れ。
▲シテ「近頃、忝うござる。何と、手も足も、巣にまとはれて離れませぬ。この巣を切り払うて下されませ。
▲アド「心得た。そりや、そりや。良いか。さあさあ、出て、帰れ、帰れ。
▲シテ「あ痛、あ痛。腰の骨が違(たが)うたよ。
▲アド「何とした、何とした。いや、和御料(わごれう)か。これは、これは。そなたとは知らなんだ。
▲シテ「扨も扨も、面目もござらぬ。沙汰なしにして下されませ。
▲アド「そなたとは、かつて知らなんだ。扨々、寒からう。一つ呑うでお行きやれ。
▲シテ「それは、忝うござる。重ねて参つて下されませう。只、帰りませう。
▲アド「これこれ。まづ、お待ちやれ。是非ともでおぢやる。これこれ。一つ、お呑みやれ。
▲シテ「これは近頃、忝うござる。
▲アド「扨、これを、そなたへおまするぞ。
▲シテ「御酒(ごしゆ)さへござるに、これは、御斟酌申しませう。
▲アド「平(ひら)に、取らしませ。重ねてもしおぢやるならば、表から案内でお尋ねにあづからう。この様に召さるれば、某も、肝を潰す。必ず、夜更けてからは、御無用でおぢやるぞ。
▲シテ「何が扨、参る事ではござりませぬ。少しもお気遣ひなされますな。
▲アド「某は休む程に、早うお帰られ。
▲シテ「心得ました。これはこれは、存じ寄らぬ仕合せぢや。命は助かる、御酒(ごしゆ)は下さるゝ。この様なめでたい折は、和歌をあげて帰らう。
《和歌》げにや、和歌の言の葉に、猛き鬼神も納受とは、かやうの事や申すらん。それ一定(いちゞやう)やまことや、それ一定やまことや。一木(ひとき)の蔭に隠れしに、大きな蜘(くも)の巣にかゝり、あらはれし某(それがし)が、古歌を引きし威徳にて、その科(とが)を許され、御酒(ごしゆ)一つ給はり、御肴とて、この小袖。きるもきられず言の葉の、盗人に負ひすると云ふこそ、まことなりけり、まことなりけり。
やあら、嬉しや。急いで帰らう。
《和歌》げにや、和歌の言の葉に、猛き鬼神も納受とは、かやうの事や申すらん。それ一定(いちゞやう)やまことや、それ一定やまことや。一木(ひとき)の蔭に隠れしに、大きな蜘(くも)の巣にかゝり、あらはれし某(それがし)が、古歌を引きし威徳にて、その科(とが)を許され、御酒(ごしゆ)一つ給はり、御肴とて、この小袖。きるもきられず言の葉の、盗人に負ひすると云ふこそ、まことなりけり、まことなりけり。
やあら、嬉しや。急いで帰らう。
底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション)
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