鎌腹(かまばら)

▲女「やい、男。
▲シテ「なう、悲しやの、悲しやの。許いてたもれ、許いてたもれ。
▲女「どちへ逃ぐるぞ。腰の骨を打ち折つてのけう。腹立ちやの、腹立ちやの。
▲サヘ人「これは興がつた{*1}。まづ、堪忍をさしませ。
▲シテ「人はないか。とりさへてたもれ、とりさへてたもれ。
▲サヘ人「これこれ。まづ、お待ちやれ。何として、わゝしう仰(お)しやるぞ。まづ、お待ちやれ、お待ちやれ。
▲女「構はずとも置かせられい。あの様な男は、性根のつく程に、腰の骨を打ち折つたが良うござる。
▲サヘ人「はて扨、短気な。まづ、様子を云うてお聞かしやれ。
▲女「それならば、こなたにも聞かせられて下されい。私どもの営みと申すは、毎日山へ参り、柴・薪(たきゞ)を取つて渡世を送りまするが役でござるによつて、山へ参れ。と申せば、村中を遊んでばかり居りまする。あの様な事で、何と営みがなるものでござるぞ。あの様な男は、この棒で腰の骨を打ち折つてのけう。との申し事でござる。
▲サヘ人「はて扨、そなたは短気な事を仰(お)しやる。太郎に意見を云ふ程に、まづ、お待ちやれ。
▲女「いやいや。聞き分けはござるまい程に、構はずとも置かせられい。
▲サヘ人「いやいや。太郎にその通りを云うて、山へ行く様にせう程に、まづ、お待ちやれ。
▲女「構はずとも置かせられい。
▲サヘ人「やい、太郎。
▲シテ「面目もござりませぬ。
▲サヘ人「面目もない。と。和御料(わごれう)は、常々律儀な人ぢや。と思うて居たれば、女房衆の云はるゝが、尤ぢや。山稼ぎには行かいで、村中を遊んでばかり居る。と云うて、腹を立てらるゝ。向後(きやうご)嗜んで、山稼ぎに精を出(だ)いて、柴・薪を取つて来る様にさしませ。
▲シテ「それならば、聞かせられて下されませい。私も山稼ぎを致し、柴・薪を取つて参り、渡世を送りまするは存じて居りまするによつて、この程も毎日山へ参つてござるが、殊の外草臥(くたぶ)れましたによつて、ちと肩をば休めう。と存じて宿に居りますれば、あの体(てい)でござりまする。何とも面目もない事でござりまする。
▲サヘ人「和御料(わごれう)の仰(お)しやるも尤ぢやが、さりながら、女房衆の云はるゝも聞こえた程に、今からなりとも山へ行かしますが、専(せん)でおりやる。
▲シテ「女にわめかれて山へ参るは、無念にはござれども、こなたの何かと仰せらるゝによつて、今から山へ参りませう。
▲サヘ人「それは、早速聞き入れさしまして、身共も満足致いた。
▲シテ「しからば、その棒と鎌をおこせ。と仰せられて下されませい。
▲サヘ人「その通りを云はう。なうなう、今のをお聞きやつたか。
▲女「承つてござる。山へ行かう。と申すは、偽りでござる。構はずとも置かせられい。
▲サヘ人「いやいや。偽りにもせい、今から山へ行かう。と云ふ程に、その棒と鎌をやらしませ。
▲女「今から山へ参つても、重ねては中々参る事ではござらぬ程に、構はずとも置かせられい。
▲サヘ人「いやいや。山へ行きさへすれば、そなたの云ひ分はないはずぢや。平(ひら)に、その棒と鎌をやらしませ。
▲女「それならば、こなたの何かと仰せらるゝによつて、料簡を致いて、棒と鎌を遣(つかは)しまする。必ず、棒の折るゝ程、担(にな)うて戻れ。と仰せられて下されませい。
▲サヘ人「その通りを云はう。和御料(わごれう)は、行つて休ましませ。
▲女「それならば、妾(わらは)は行つて、休みませう。これは、忝うござる。
▲二人「さらば、さらば。
▲サヘ人「いや、なうなう。女房衆の仰(お)しやるは、この棒の折るゝ程、担(にな)うて戻れ。と云はるゝ。
▲シテ「何と、この棒の折るゝ程、担(にな)うて戻れ。と申し付けまするか。
▲サヘ人「中々。
▲シテ「何が扨、心得ましてござる。扨、こなたには、良い時分に出合はせられて、忝うござる。晩程、きつとお礼に参りませう。
▲サヘ人「いやいや。お礼には及ばぬ程に、随分精を出さしますが、専でおりやる。
▲シテ「忝う存じまする。
▲サヘ人「さらば、さらば。
▲シテ「扨も扨も、腹の立つ事かな。今日(けふ)は山稼ぎも已(や)めて休まう。と存じたれば、わゝしう申す女にわめかれて山へ参ると申すは、口惜しい事でござる。さりながら、まづ山へ参つて、分別を致さう。まことに、某の理を持つたから、かへつて非になつたぢやまで。無念な事でござる。いや、何かと申す内に、山でござる。まづ、下に居て、篤(とく)と分別を致さう。女に云ひ込められて山稼ぎに出た。とあつては、もはや、人の前へ顔の向け様がない。この上は、生きても死んでもなれば、思ひ切つて淵へも川へも身を投げて、死んでのけうか。いやいや。死んだ後で、女にわめかれて淵川へ身を投げた。などゝ、取り沙汰に逢うてはいかな。何とせうぞ。いや、よい事を思ひ出(だ)いた。この鎌で鎌腹を切らう。やいやい、女。あまりわゝしう云ふによつて、太郎は山で鎌腹を切るぞ。さらば、鎌腹を切らう。扨、鎌腹を切るには、諸肌を脱いで、鎌をかう持つて、左へ突き立て、右へきりゝと引き廻いたならば、腹が切るゝでござらう。扨、返す鎌で首をさらりと掻き落といたならば、大方死ぬるでござらう。これこれ、さらば切つてのけう。いや、あ痛、あ痛、あ痛。この鎌の先がちよつと触つても、冷(ひい)やりとして気味が悪い。中々これでは切られぬ。何とせうぞ。いや、良い事がある。あの向かうの木へ、この鎌を結(ゆ)ひ付けて、走り掛かつて死んでのけう。これこれ、これは良い分別ぢや。これではひと思ひに死なれさうなものぢや。やいやい。女め。おのれがあまりわめくによつて、太郎は鎌腹を切つて死ぬるぞ。あゝ、後で思ひ当たる事があらうぞよ。さらば、走り掛かつて死んでのけう。いや、あゝ。この鎌の光る所を見れば、中々怖ろしうて、切られさうもない。何とせうぞ。思ひ出いた。この眼と申すものが臆病なもので、鎌の光るところを見ては、中々怖ろしうて死なれぬ。今度は眼を塞いで、無念夢想に死んでのけう。いや、あゝ。中々怖ろしうて死なれぬ。何とせうぞ。いや、良い事がある。この鎌を下に置いて、飛び掛かつて死ぬに、死なれぬといふ事はあるまい。まづ、鎌を下に置いて。やいやい、女め。ようわゝしう云うたな。もはや、人の前へ面目がないによつて、太郎は山で鎌腹を切るぞ。また、懐かしい事があらうぞよ。この上へ飛び掛かつたならば、何の、疎(おろ)か{*2}はあるまい。いや、あゝ。はて扨、無念な事でござる。これでも中々、鎌腹にはならぬ。何とせうぞ。いや、思ひ切つて、鎌腹に致さう。さあ、鎌腹を切るぞ。鎌腹ぢや、鎌腹ぢや。
▲女「やあやあ、何と云ふぞ。こちの人は、鎌腹を切らるゝ。なう、悲しやの、悲しやの。それは、どこの山の事ぞ。情けない事かな。申し申し、こちの人。これは、興がつた{*3}。何事でござるぞいの、何事でござるぞいの。
▲シテ「太郎は、鎌腹を切るぞ。在所の者どもは、この潔い体(てい)を見物せい。鎌腹ぢや。
▲女「なう、悲しや。こちの人、思ひ止(とゞ)まつて下されいの、思ひ止まつて下されいの。
▲シテ「女に云ひ込められては、片時(かたとき)も生きては居られぬによつて、鎌腹を切つて死なねばならぬ。こゝを放せ、こゝを放せ。
▲女「なう、悲しや。こなたには、気でも違(たが)ひはなされぬか。
▲シテ「気も心も違(たが)ひはせぬが、女に云ひ込められては、人の前で口が利かれぬによつて、鎌腹を切るぞ、鎌腹を切るぞ。
▲女「なう、悲しや。もはや向後(きやうご)、わゝしう云ひますまい。こなたが道理でござる程に、思ひ止(とゞ)まつて下されいの。
▲シテ「いやいや。今はさう仰(お)しやつても、数年わゝしう云ひ付けた癖が、何と、俄(には)かに已(や)まうぞ。某は鎌腹を切つて死ぬぞ。そこを放せ、そこを放せ。
▲女「なう、情けなや。こなたが鎌腹を切らせられて、何と妾が生きて居られませうぞ。平(ひら)に思ひ止(とゞ)まつて下されませいの。
▲シテ「さう仰(お)しやつても、わゝしう仰(お)しやらう。鎌腹ぢや、鎌腹ぢや。
▲女「申し、申し。それ程に偽りと思し召すならば、当所の氏神を誓言に入れて、ふつふつわゝしう云ひますまい程に、平(ひら)に思ひ止(とゞ)まつて下されませいの。
▲シテ「何と仰(お)しやる。当所の氏神を誓言に入れて、わゝしう云ふまい。
▲女「中々。
▲シテ「それ程に仰(お)しやるならば、偽りではあるまい。思ひ止(とゞ)まりませうぞ。
▲女「それでこそ、こちの人でござる。嬉しやの、嬉しやの。
▲シテ「さりながら、某の鎌腹を切る。と云ふことを、最前高声(かうじやう)に云うたによつて、誰知らぬ者もあるまいに、今思ひ止(とゞ)まつたならば、女に止められて止(とゞ)まつた。などゝあつては、後々までも面目がないが、これは、何とせうぞ。
▲女「はて扨、こなたには、愚かな事を仰せらるゝ。妾こそ聞き付けて参つたれ、誰知る者でござらうぞ。構はずとも置かせられい。
▲シテ「まこと、そなたの仰(お)しやる通り、この山中(やまなか)の事なれば、誰知る者もあるまい程に、それならば、思ひ止(とゞ)まらうぞ。
▲女「それは、嬉しうこそござれ。
▲シテ「この上は、夫婦仲良う楽に、寿命長遠、行く末繁昌に栄えう様に、どつと笑うて帰らう。
▲女「ようござりませう。
▲シテ「それへ、づゝと出(で)さしませ。
▲女「心得ました。
▲シテ「さあ、笑はしませ。
▲女「まづ、笑はせられい。
▲二人「さあ、さあ、さあ。
《笑》
▲シテ「なうなう。和御料(わごれう)と某とは五百八十年。
▲女「七廻(なゝまは)りでござる。
▲シテ「一段とめでたい。こちへおりやれ、こちへおりやれ。
▲女「なうなう、嬉しやの、嬉しやの。
▲シテ「こちへおりやれ、こちへおりやれ。
▲女「心得ました、心得ました。

校訂者注
 1・3:底本は「興有(きようあ)つた」。意味不詳。「興がる」は「とんでもない」の意。
 2:「疎(おろ)か」は、「手ぬかり」の意。

底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション

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