公事新発意(くじゝぼち)

▲女「妾(わらは)は、この辺りに住む者でござる。出家を子に持ちましてござるが、この中(ぢゆう)は、久しく逢ひませぬ程に、今日(けふ)はお寺へ見舞ひませう。と存ずる。まことに、親の身なれば、久しく逢はねば心元なうござる。内に居られたらば、良うござらうよ。いや、何かと申す内に、これぢや。お案内申す。お住持様は、内にござりますか。
▲住持「いや、表に案内がある。どなたでござるぞ。
▲女「いや、妾でござります。
▲住持「えい。これは、良うこそござつたれ。まづ、奥へ通らしませ。
▲女「この中(ぢゆう)、久しうお見舞ひも申しませぬが、お息災さうにござりまするよ。
▲住持「中々。無事に居りまする。そなたにも、まづ息災で、一段でおりやる。
▲女「この程は、久しう新発意(しぼち)に逢ひませぬが、息災で勤められますかな。
▲住持「中々。息災におりやる。今日(けふ)はさる方へ、斎(とき)にやりました。追つ付け帰りませう程に、まづ、ゆるりとござれ。
▲女「扨々、新発意もお蔭で、早(はや)、斎非時を勤めます様になりまして、忝うござる。
▲住持「されば、されば。それにつき、いつぞはそなたへ行き、物語を致さう。と存じたに。良い折柄でござる。扨々、新発意は、用に立たぬ者でござるわ。まづ第一に、学問に精が入りませず、何事を申し付けても、愚僧が申す事は、少しも聞き入れませず、何とも気の毒な、持て余したものでござるわ。
▲女「これは、これは。妾は、学問に精が入るやら、久しくこなたへも見えませぬ。と存じて居りましたに、以つての外の事でござりまする。
▲住持「いや。もはや、愚僧が内に居ませねば、隣の者を呼び集めて、座敷・庭も暴れ狂ひまするやら、道具どもを打ち割るやら損なふやら。扨々、持て余したものでござるわ。
▲女「それは、お腹の立ちまするが御尤でござる。もはや、その様に悪あがきをする年でもござらぬに、あまりな事でござる。こなたへ寄する事もなりませぬ程に、お前のお気に入りませずば、追ひ出して下されませ。
▲新発意「今朝、さる方(かた)へ斎(とき)に参つたが、扨々、存じの外、馳走を召されてござる。まづ帰つて、師匠にこの様子を話しませう。いや、これはようござりましたよ。
▲女「何ぢや。ようござりました。そちがその形(なり)は、何ぢや。
▲新発意「これは扨、形(なり)が何としました。
▲女「何とした。とは。その如くに不行儀に立つて居て、親師匠の前の辞儀を知らぬ者ぢや。扨々、気の毒な者かな。
▲新発意「これはまづ、最前から何を云はしますぞ。
▲女「なう、新発意。和御料(わごれう)、どこで聞いても、良い。とは云はぬぞや。
▲住持「とかく、そなたへ戻しませう程に、連れて行(い)て下され。
▲女「もはやそなた様へ、後住(ごぢゆう)として進じてからは、こなたへ受け取る事はなりませぬ程に、いかやうとも、御坊様のお計らひ次第でござる。
▲住持「それならば、幸ひ、そなたの傍で追ひ出しませう。もはやこの寺に置く事はならぬ。出てお行きやれい。
▲新発意「やいやい。私を置きともなくば、そなた、出てござれ。身共は、出る事はなりませぬぞ。
▲住持「あれでござる。愚僧が云つた分では、聞きますまい。とかく、地頭殿へ参つて、追ひ出して貰ひませう。そなた、連れて来て下され。
▲女「心得ましてござる。
▲住持「扨々、腹の立つ事かな。今の間(ま)に追ひ出して貰はうぞ。
▲新発意「これはまづ、何とした事から起こりましてござる。今朝、斎に行け。と云うて遣られましたが、斎に行きましたが気に入りませぬか。これは、合点の行かぬ事でござる。
▲女「そちが常々、お師匠の仰(お)しやる事を聞かぬ故ぢやわ。妾が方(かた)へも寄する事はならぬぞ。
▲住持「物まう。案内まう。
▲地頭「案内は誰ぢや。いや、御坊か。まづ、奥へ通らせられい。何と思うてのお出ぞ。
▲住持「内々お話申しました、新発意を連れて参りましてござる。御料簡のなされて、追ひ出して下されませ。
▲地頭「こゝへ出さしませ。意見致さう。
▲住持「畏つてござる。お袋、新発意を連れて出さしませ。
▲女「心得ましてござる。さあさあ、お出やれ。
▲地頭「その女は何者ぢや。
▲女「妾は、新発意が母でござります。新発意が事は、西も東も存ぜぬ時分に、辻中(つじなか)に捨てゝござりましたを、妾が拾ひまして人になしましたを、それをそれとも思ひませぬ物知らずでござりまする。
▲新発意「いや、申し。私は牛馬(うしうま)の子ではござりませず、人の子が人になりましたは、不思議な事ではござりますまい。
▲住持「母に向かつて、あの様な事を申しまする。愚僧が弟子に貰ひましてござれども、学問も致さぬ程に、茶なりとも引け。と申しますれども、茶も挽きませず。何とも致し様がござりませぬ。
▲新発意「いやいや、その様に仰せられな。随分学問も心掛け、又、隙々(ひまひま)に茶を挽かう。と存ずれども、挽きませう茶がござりませぬに、あの様な事を申されまする。
▲住持「愚僧が留守には、人集めを致しまして、迷惑致しまする。
▲新発意「いやいや、さうではござりませぬ。門前の若い衆が、阿弥陀経を教へてくれの、碁将棋を教へてくれの、とあつて見えまする。お師匠は、この中(ぢゆう)見ますれば、門前のいちやが参れば。
▲住持「しい。やいやいやい、そこなもの。おのれは師匠に恥を与ふるか。とかく、寺を追ひ出して下されませ。
▲地頭「某(それがし)は、御坊を贔屓に存ずれども、その分では追ひ出されまい。連れてお帰りやれ。
▲住持「何とぞ出て行きます様に、頼みまする。
▲地頭「いやいや。あれは、そなたのおさへにならうものぢや。急いで連れてお行きやれ。某は奥へ入(はい)るぞ。早くお帰りやれ、お帰りやれ。
▲女「扨も扨も、気の毒な事かな。御坊様、そなたへ進じたものでござれば、妾は存ぜぬぞ。宿へ帰りまするぞ。
▲住持「いや、これこれ。まづ、待たしませ。談合する事がある。
▲新発意「帰らせらるゝか。静かにござりませ。ようござりました。
▲住持「扨も扨も、おぬしが様な者を弟子に貰うて、今まで世話をして、今更悔(くや)しいわいやい。
▲新発意「何がその様に悔しい事がござらうぞ。
▲住持「おのれ、地頭殿の前で、恥をかゝしたわ。
▲新発意「某も、見ぬ事は申さぬ。いちやが事は、一度や二度ではござらぬぞや。
▲住持「まだそのつれな事を云ふか{*1}。憎い奴の。
▲新発意「はて、嘘ではござらぬわ、扨。
▲住持「おのれは憎い奴の。
▲新発意「それでも、いちやとそなたとは、夫婦(めをと)ぢや。
▲住持「憎い奴の。どちへ逃ぐるぞ。
▲新発意「夫婦(めをと)よ、夫婦(めをと)よ。
▲住持「やるまいぞ、やるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、「まだ其のつれないことをいふか」。

底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション

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