呼声(よびごゑ)

▲アド「これは、この辺りで人の御存じの者でござる。かやうに過(くわ)をば申せども、召し使ふ者は只ひとり。されば、その一人の奴(やつ)が、この中(ぢゆう)某(それがし)に暇をも乞はいで、何方(いづかた)へやら参つてござる。聞けば、夜前罷り帰つた。とは申せども、未だ目見えを致さぬにより、今日(けふ)はかれが私宅へ参り、きつと申し渡さう。と存ずる。暇の儀を申してござらうならば、取らせぬ。と申す事はござるまいに、忍うで参つた心底の程が憎うござる程に、参つたならば、きつと折檻を致さう。と存ずる。いや。行く程に、即ちこれぢや。某の声と聞き知つたならば、出違ふ事もござらう程に、作り声を致して呼び出さう。と存ずる。物まう。物まう。
▲シテ「不思議や。夜前罷り帰つたを、早(はや)どなたやら御存じで、物まう。とあるが、確かに頼うだお人のお声でござる。お目に掛かつたならば、只は置かせられまい程に、留守を遣(つか)ひませう。物まう。と仰せらるゝは、どなたでござる。
▲アド「頼うだ者でおりやるが、太郎冠者は、宿におりやるか。
▲シテ「太郎冠者は、他行(たぎやう)致されて、留守でござる。
▲アド「何ぢや。留守ぢや。
▲シテ「中々。
▲アド「さう云ふそなたは、誰でおりやる。
▲シテ「私は隣の者でござるが、留守を預かつて居りまする。
▲アド「やあやあ。隣の者ぢやが、留守を預かつて居る。
▲シテ「中々。
▲アド「それならば、太郎冠者が戻つたならば、某の来た。といふ事を、云うてたもれ。
▲シテ「中々。御出の通りを申しませう。もはや、お帰りなされまするか。さらば、さらば。ようござりました。まんまと留守を遣(つか)うてござる。
▲アド「これはいかな事。確かに今のは太郎冠者が声でござるが、宿に居て留守を遣ふ。と見えた。扨も扨も、憎い奴ぢや。何と致さうぞ。いや。今一度立ち帰つて、申し様がござる。物まう。物まう。
▲シテ「これはいかな事。また、頼うだ人の出させられた。また、留守を遣ひませう。物まう。とは、どなたでござる。
▲アド「頼うだ者ぢやが、その留守を預かつた人に逢ひたうおりやる。
▲シテ「私は隣の者でござるにより、太郎冠者が戻られましたらば、御出の通りを申しませう。
▲アド「それならば、必ず来た。といふ事を、届けておくりやれ。
▲シテ「何が扨、左様に申しませう。お帰りなされまするか。さらば、さらば。ようござりました。
▲アド「扨も扨も、腹の立つ事かな。太郎冠者に、紛れはない。やあら、何と致さうぞ。いや、思ひ出いた。常々、太郎冠者は謡好きでござる程に、謡節で呼び出いて見ませう。太郎冠者、お宿にござるか。お宿にござらば、お目に掛かり候ふべし。《笑》
▲シテ「扨も扨も、頼うだお人は、有興(うきよう){*1}なお方ぢや。某の、常々謡好きでござるにより、謡節で呼び出さるゝ。某も謡節で留守を遣(つか)ひませう。太郎冠者、留守にて候ふ。御用ござらばお届け申し候ふべし。《笑》まんまと留守を遣うてござる。
▲アド「扨も扨も、面白い事ぢや。某の謡節で呼び出せば、謡節で留守を遣ふ。今度は、踊り節で呼び出いて見ませう。太郎冠者殿、お宿にござるか。ござらばお目に掛からう。しやつき、しやつき、しやつきや。
▲シテ「《笑》今度は、踊り節で呼び出さるゝ。某も踊り節で留守を遣ひませう。太郎冠者殿留守でござる。御用ござらばお届け申さう。しやつき、しやつき、しやつきや。
▲アド「《笑》扨も扨も、面白き事かな。今度はちと早めて、きやつを浮かばいてやりませう。太郎冠者殿お宿にござるか。お宿にござらばお目に掛からう。
▲シテ「太郎冠者殿留守でござる。御用ござらばお届け申さう。
▲アド「太郎冠者殿お宿にござるか。お宿にござらばお目に掛からう。
▲シテ「御用ござらばお届け申さう。
▲アド「お宿にござるか。
▲シテ「留守でござる。
▲アド「お宿にござらばお目に掛からう。
▲シテ「御用ござらばお届け申さう。
▲アド「お宿にござるか。
▲シテ「留守でござる。
▲アド「お宿にござるか。
▲シテ「留守でござる。
▲アド「やい、太郎冠者。
▲シテ「真つ平(ぴら)許いて下されい、真つ平許いて下されい。
▲アド「汝は憎い奴の。宿に居て留守を遣ふ。あの横着者、どちへ行くぞ。人はないか。捕らへてくれい。やるまいぞ、やるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、「うつきような御方(おかた)」。「うつきよう」は、「有興人(うきようじん)(「風流人」の意)」の「有興(うきよう)」の転か。

底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション

前頁  目次  次頁