柿山伏(かきやまぶし)

▲シテ「《次第》貝をも持たぬ山伏は、貝をも持たぬ山伏は、道々うそを吹かうよ。
《詞》これは、出羽の羽黒山より駈け出しの山伏です。某(それがし)この度、大峯・葛城を相勤め、只今本国に赴く。まづ、急いで帰国致さう。と存ずる。まことに、我等如きの宗体(しゆうたい)と云つぱ、野に伏し山に伏し難行苦行、捨身の行を勤むる身でござれば、例年相変らず無事で帰国致す様な、大慶な事はござつてこそ。扨、某は今朝(こんてう)未明より出たれば、殊の外咽(のど)が渇くが、こゝ元に茶屋はないか知らぬ。湯でも茶でも飲みたいものぢやが。いや、あれに赤う見ゆるは紅葉(もみぢ)か。何であらうぞ。やあら、何でござらうぞ。やうやう見れば、柿の木ぢや。扨も扨も、見事に熟した事かな。あれを一つ冷(ひい)やりとたべたならば、咽の渇きも止(と)まらう。何とぞして取りたいものぢやが。いや。まづ礫(つぶて)を打つて見ませう。中(あた)れば良いが。いや、えい。届かぬ。も一つ打たう。いや、えい。行き過ぎた。これでは取られぬ。何とせうぞ。いや、この刀で払ひ落としませう。えいえいえい。これでも取られぬ。やあら、何とせうぞ。いや。幸ひ、あれに木の根がある。あれから伝うて取りませう。さりながら、誰も人は居らぬか知らぬ。折節、誰も見る者もない。さらば、上がりませう。これは、幸ひな木の根があつて、仕合せでござる。えいえい。扨も扨も、下から見たとは違うて、見事な柿でござる。どれに致さうぞ。いや、これに致さう。扨も扨も、これは見事な柿でござる。さらば、たべう。扨も扨も、これは旨い柿でござる。今度はどれに致さうぞ。いや、これに致さう。これなどは、別して見事にござる。
▲アド「これは、この辺りの者でござる。今日(こんにち)は、田畑を見舞はう。と存じて罷り出でた。まづ、そろりそろりと参らう。世間に田畑を数多(あまた)持つた衆もござれども、中にも某の畑(はた)の様に、毎年(まいねん)良う出来るはない。とあつて、皆の褒めものに致さるゝ事でござる。いや、何かと申す内に、これは早(はや)、某の畑でござる。扨も扨も、よう成長致いた事かな。いや。柿もやうやう色付いてござる程に、近日、枝をもおろさせう。と存ずる。
▲シテ「これは渋い。ふゝゝ。
▲アド「はて、合点の行かぬ事でござる。これはいかな事。行方(ゆくへ)も知らぬ山伏の人の、柿の木へ登つて柿を喰ふ。何と致さうぞ。いや、憎さも憎し。致し様がござる。
▲シテ「口直しにも一つたべう。どれが良からうぞ。これなどが良うござらう。
▲アド「えへん、えへん。ちと、さうもござるまい。色々になぶつて遊ばう。と存ずる。あら、不思議や。柿の木は風も吹かぬに揺るぐが。鳥類・畜類でもついたか知らぬまで。動くこそ道理なれ。大きい烏がとまつて居る。烏といふものは、熟柿を好くによつて、たぶるは尤ぢや。さりながら、烏といふものはよう啼くものぢやが、啼かぬか知らぬまで。啼かうぞよ、啼かうぞよ。おのれ、啼かぬにおいては、仕様がある。やいやい、その半弓を持て来い。たつたひと矢に射てくれうぞ。
▲シテ「某の事を烏ぢや。と申す。憎い奴でござる。これは、啼かずばなるまい。
▲アド「啼かうぞよ、啼かうぞよ。
▲シテ「こかあ、こかあ、こかあ。
▲アド「こかあ、こかあ、こかあ。《笑》さればこそ、啼いたわ。人と烏を見違へようものゝ様に、こかあ、こかあ、こかあ。《笑》扨も扨も、よう啼いたり、啼いたり。この様な烏をば、前へ廻つてとつくりと見て置きませう。これはいかな事。烏ぢや。と存じたれば、大きい猿でござる。定めて梢伝ひに参つたものでござらう。さりながら、猿といふものは、猿手を使うて、只は居らぬものでござるが。猿手を使はぬか知らぬまで。
▲シテ「これはいかな事。また、某の事を猿ぢや。と申す。はて扨、腹の立つ事でござる。
▲アド「猿手を使はうぞよ、使はうぞよ。
▲シテ「猿手を使はずばなるまい。
▲アド「おゝ、使ふわ、使ふわ。今一方も使はうぞよ。おゝ、使ふわ、使ふわ。《笑》扨、人を見ては、歯をむき出して嚇(おど)すものぢやが。嚇さぬか知らぬまで。嚇さうぞよ、嚇さうぞよ。おのれ、嚇さぬにおいては、その手鎗を持て来い。たつたひと突きにしてくれう。
▲シテ「嚇さずばなるまい。これは、迷惑な事でござる。
▲アド「嚇さうぞよ、嚇さうぞよ。
▲シテ「きやあ、きやあ、きやあ。
▲アド「きやあ、きやあ、きやあ。《笑》扨も扨も、面白い事ぢや。人と猿を見違へようものゝ様に、きやあ、きやあ、きやあ。《笑》扨も扨も、今の猿は、よう啼いたり、啼いたり。この様な猿をば、後ろへ廻つてとつくりと見て置きませう。ほう、これはいかな事。夜目・遠目・笠の内。と申すが、この事でござる。猿か。と存じたれば、したゝかな鳶でござる。
▲シテ「また、某を鳶ぢや。と申す。扨も扨も、腹の立つ事でござる。
▲アド「扨、鳶といふものは、羽(は)ぜゝりをするものぢやが。羽(は)ぜゝりをせぬからは、人か知らぬまで。羽(は)ぜゝりをせうぞよ、せうぞよ。
▲シテ「羽ぜゝりをせずばなるまい。
▲アド「さあ、羽ぜゝりをするわ、するわ。扨、羽(は)を伸(の)すものぢやが。羽(は)を伸さぬか知らぬまで。伸さうぞよ、伸さうぞよ。おのれ、伸さぬにおいては仕様がある。物切れを差いて来た程に、ずたずたにしてくれうぞ。
▲シテ「伸さずばなるまい。
▲アド「伸さうぞよ、伸さうぞよ。おゝ、伸すわ、伸すわ。今一方も伸さうぞよ。おゝ、伸すわ、伸すわ。《笑》扨も扨も、よう伸いた事かな。扨、これから身震(ぶる)ひをせうぞよ。
▲シテ「身震ひをせずばなるまい。
▲アド「おゝ、身震ひをするわ、するわ。扨、この上は、啼いて飛ぶ一段でござるが。飛ばぬか知らぬまで。飛ばうぞよ、飛ばうぞよ。
▲シテ「これはいかな事。飛ばずばなるまい。これは、迷惑な事でござる。
▲アド「いや、ちと囃しませう。飛ばうぞよ。飛びさうな、飛びさうな、飛びさうな。そりやこそ、飛ばうぞよ。飛びさうな、飛びさうな、飛びさうな。
▲シテ「ぴい、よろよろよろ。ぴい、よろよろよろ。あ痛、あ痛、あ痛。なう、痛やの、痛やの。あ痛、あ痛、あ痛。
▲アド「《笑》なうなう、御客僧。あの高い木の空からお飛びやつて、腰を打ちは召されぬか。
▲シテ「やいやいやい、そこな奴。
▲アド「何事ぢや。
▲シテ「やあら、おのれ。憎い奴め。この尊い駈け出しの山伏を、最前から鳥類・畜類に譬(たと)ふるのみならず、あまつさへ、鳶ぢや。と云ふ。惣じて山伏のなれの果ては、鳶にもなるものぢや。と云ふによつて、もし鳶にもなつたか。と思うて、あの高い木の空から飛んだれば、まだ羽根も生へぬ者を飛ばせて、腰の骨を打ち折つた程に、連れて行(い)て養生をせい。
▲アド「行方(ゆくへ)も知らぬ山伏の人の、柿の木へ登つて、某の秘蔵の柿をおたべやるのみならず、その上、腰の抜けたを連れて行(い)て養生せう仔細がないよ。
▲シテ「仔細がない。と。余の山伏をなぶつたとは、ものが違はうぞ。
▲アド「ほう。まこと、駈け出しの山伏には、聊爾に構はぬものぢや。と申す。さらぬ体(てい)にて宿へ帰らう。と存ずる。
▲シテ「やいやいやい、そこな奴。
▲アド「何事ぢや。
▲シテ「どちへ行く。
▲アド「宿へ参る。
▲シテ「これへ来い。
▲アド「何事ぢや。
▲シテ「最前も云ふ通り、連れて行(い)て養生をせい。
▲アド「最前も云ふ通り、養生せう仔細がないよ。
▲シテ「仔細がない。と。たつた今、目に物を見せう。
▲アド「それは、誰が。
▲シテ「某が、この年月(としつき)の行力を以つて。
▲アド「行力も、人によつたものぢや。そなたの分として、行力だては置いておくりやれ。
▲シテ「それは、まことか。
▲アド「まことぢや。
▲シテ「真実か。
▲アド「真実ぢや。
▲シテ「一定(いちゞやう)か。
▲アド「一定ぢや
▲シテ「悔やむな、男。悔やむな、汝。
▲アド「何事を申すか、ちと承らう。
▲シテ「台嶺(たいれい)の雲を凌ぎ、年行(ねんぎやう)の功を積む事、一千余ケ日(いつせんよかにち)。しばしば身命を、熊野(ゆや)権現に頼みを掛けて祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん。
▲アド「いやいや。いらぬ事を申さずとも、足元の明るい内、急いで罷り帰らう。と存ずる。はて、合点の行かぬ事でござる。某の達者な足で、行くに行かれぬ。と、申す事はござらぬが。これは、不思議な事でござる。
▲シテ「橋の下の菖蒲は、誰(た)が植ゑた菖蒲ぞ。ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん。いろはにほへと、ちりぬるをわか。ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん。
▲アド「これは、口惜しい事でござる。
▲シテ「たつた今に、祈り戻すぞ。ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん、ぼろおん。
▲アド「扨も扨も、無念な事でござる。南無三宝。
▲シテ「さあ、負うて行け。
▲アド「和御料(わごれう)は、それにゆるりとおりやれ。なうなう。嬉しやの、嬉しやの。
▲シテ「やいやい。この尊い駈け出しの山伏を、この如くに打ちこかいて、どこへ行くぞ。人はないか。捕らへてくれい。やるまいぞ、やるまいぞ。

底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション

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