長光(ながみつ)
▲アド「これは、この辺りの者でござる。この間は、何方(いづかた)へも行かねば、気が屈してござるにより、今日(こんにち)は町表へ参つて慰まう。と存ずる。まづ、そろりそろりと参らう。まことに、遊山と申すものは、かねて期(ご)したるよりも、かやうにふと思ひ立つて出(い)づるが、ひとしほの慰みか。と存ずる。いや、何かと申す内に、これは早(はや)、町表でござる。まづ、売り物を見物致さう。
▲シテ「これは、この辺りで心の直(すぐ)にもない者でござる。今日(こんにち)は町表へ参り、似合はしい者も通らうならば、当たつて見よう。と存ずる。この間は打ち続いて思はしうもござらぬにより、あはれ今日(こんにち)は、良い者に行き合ひ、ひと仕合せ致したい事でござる。いや、あれに何者やら、結構な太刀を提げて、売り物に余念もなう見入つて居る。これにちと当たつて見よう。と存ずる。
▲アド「これは、何店(なにみせ)ぢや。これは、物の本店(ほんみせ)でござる。四書・五経・古今・万葉集・伊勢物語。色々、様々の本がござる。何を買はうと儘な事ぢや。これは、何店ぢや。これは、呉服店でござる。金襴・緞子・黄緞(くわうどん)・せてん・綾・六糸緞(むりやう)・錦。何を買はうと儘な事ぢや。これは、唐物店でござる。茶碗・水差し・水零し。この釜は、見事な釜でござる。定めて芦屋釜でがなござらう。
▲シテ「芦屋釜でがなござらう。あいつは目の鞘の外れた{*1}奴でござる。
▲アド「これは、何店ぢや。これは、子供の玩具店(もてあそびみせ)ぢや。起上小法師(おきあがりこぼし)・振り鼓。土で作つた人形もあるわ。《笑》
▲シテ「人形もあるわ。
▲アド「押すな、押すな。
▲シテ「押すな、押すな。
▲アド「やい、こゝな者。
▲シテ「何事ぢや。
▲アド「なぜに、某(それがし)の太刀に手を掛くるぞ。
▲シテ「いやいや。これは、某の太刀ぢや。こちへおこせ。
▲アド「いや、某のぢや。こちへおこせ、おこせ、おこせ。
▲シテ{*2}「こちへおこせ。
▲二人「やいやい、狼藉者。出合へ、出合へ、出合へ。
▲目代「やいやい。この治まつた御代に、汝等は何事をわつわと云ふぞ。
▲アド「これは、私の太刀でござるものを、かやつ{*3}がのぢや。と申すにより、出合へ、出合へ。と申してござる。
▲シテ「いやいや。これは、私の太刀でござるものを、かやつがのぢや。と申すによつての申し事でござる。
▲目代「やいやい{*4}。その様に水掛け合ひの様に云うては、理非が知れぬ程に、批判を付くるまでは、まづ、これをば某に預けい。
▲アド「こなたは、いか様(やう)なお方でござる。
▲目代「所の目代ぢやよ。
▲アド「それならば、こなたへ預けまする程に、必ずかやつに遣(や)らせられて下されまするな。
▲シテ「いや、申し申し。それならば、こなたへ預けまする程に、構へてかやつに遣らせられて下されまするな。
▲目代「理非の付くまでは、どちらへも遣(つか)はす事ではない。まづ、両方へ退(の)いて居よ。
▲二人「畏つてござる。
▲アド「あのすつぱめが。
▲シテ「あの横着者めが。
▲目代「やいやい。最前は、何事をわつわと云うたぞ。
▲アド「まづ、お礼を申し上げまする。私はこの辺りの者でござるが、あの太刀を提げまして、売り物に余念もなう見入つて居つてござれば、あれ、あこな奴が、いつの間にやら参つて、私の提げて居る太刀を佩きまして、今となつて、かやつがのぢや。と申しまする。大(だい)の横着者でござる程に、これをばきつと、仰せ付けられて下されませい。
▲目代「汝が口ばかりでは知れぬ。あれにも問うて見よう。
▲アド「ようござりませう。
▲目代「やいやい。最前は、何事をわつわと云うたぞ。
▲シテ「まづ、お礼を申し上げまする。私はこの辺りの者でござるが、あの太刀を佩きまして、売り物に余念もなう見入つて居つてござれば、あれ、あこな奴が、いつの間にやら参つて、私の佩いて居る太刀のあし間(あひ)へ手を入れまして、今となつて、かやつがのぢや。と申しまする。大の横着者でござる程に、これをばきつと、仰せ付けられて下されませい。
▲目代「扨は、汝が主(ぬし)が定(ぢやう)か。
▲シテ「中々。私の主が定でござる。
▲目代「それならば、きつと云ひ付けてとらせう。それに待て。
▲シテ「畏つてござる。
▲目代「やいやい。あれが、主(ぬし)ぢや。と云ふに、何とてそちは、理不尽な事を云ふぞ。
▲アド「あれが、主ぢや。と申さば、云はせても置かせられい。私の主(ぬし)の証拠には、あの太刀の国・作を空で悉く申しませうが、あれは主でない証拠には、え申す事はなりますまい。
▲目代「これは、一(いつち)良い証拠ぢや。さりながら、あの者にも問うて見よう。
▲アド「ようござりませう。
▲目代「やいやい。あれが主の証拠には、あの太刀の国作を空で悉く云はう。と云ふが、汝も云ふか。
▲シテ「私の主でござる物を、申さいで何と致しませう。まづ、あれから云へ。と仰せられませい。
▲目代「心得た。やいやい。あれも云はうが、まづ汝から云へ。と云ふわ。
▲アド「畏つてござる。まづ、あれは備前物でござる。備前にとつても長光。ながは長(ちやう)の字。みつは光(くわう)、光ると申す字で、読み声までも覚えて居まする。
▲目代「一段とよう云うた。あれにも問うて見よう。
▲アド「ようござりませう。
▲目代「やいやい。あの太刀の国作を、云うて聞かせい。
▲シテ「畏つてござる。まづ、あれは備前物でござる。備前にとつても長光。ながは長(ちやう)の字。みつは光(くわう)、光ると申す字で、読み声までも覚えて居まする。
▲目代「汝もよう覚えて居る。やいやい。あの太刀の焼きを云うて聞かせい。
▲アド「焼きでござるか。
▲目代「中々。
▲アド「まづ、鎺元{*5}より物打ちまでは、桜の花を重ねた様に、くわつくわつと致いて、扨、それより末へは大湾(おほのたれ)にのたれまして、切つ先となつて焼き返しがくわつとござつて、さながら瘧(おこり)も落ちる様な、見事な物でござる。
▲目代「心得た。やいやい。あの太刀の焼きを云へ。
▲シテ「焼きでござるか。
▲目代「中々。
▲シテ「鎺元より物打ちまでは、桜の花を重ねた様に、くわつくわつと致いて、扨、それより末へは大湾(おほのたれ)にのたれまして、切つ先となつて焼き返しがくわつとござつて、さながら瘧(おこり)も落ちる様な、見事な物でござりまする。
▲目代「やいやい。今度はあの太刀の地肌を云うて聞かせい。
▲アド「地肌でござるか。
▲目代「中々。
▲アド「物に譬へて申さうならば、霜月師走の氷の上へ、薄霜のさつと降り掛かつた様にござる。
▲目代「心得た。やいやい。今度はあの太刀の地肌を云うて聞かせい。
▲シテ「地肌でござるか。
▲目代「中々。
▲シテ「物に譬へて申さうならば、霜月師走の氷の上へ、薄霜のさつと降り掛かつた様にござる。
▲目代「はて扨、汝もよう覚えて居る。これは、合点の行かぬ事ぢや。やいやい。汝が云へば、あれも劣らず云ふにより、何とも理非が付きにくい。某の推量するに、汝が高声(かうじやう)に云ふにより、かやつが気取(かど)つて{*6}口真似をする。と見えた程に、今度はあの太刀の寸尺を、某にひそかに云うて聞かせい。
▲アド「これは、良いところへお気が付かせられてござる。これへござりませい。
▲目代「心得た。
▲アド「寸は、かやうでござる。
▲目代「心得た。やいやい。あの太刀の寸を云うて聞かせい。
▲シテ「や。
▲目代「寸を云うて聞かせい。
▲シテ「寸でござるか。
▲目代「中々。
▲シテ「まづ、あれは備前物でござる。備前にとつても長光。
▲目代「いやいや。それは、国作ぢや。寸を云うて聞かせい。
▲シテ「寸でござるか。
▲目代「中々。
▲シテ「まづ、鎺元より物打ちまでは。
▲目代「いやいや。それは焼きの事ぢや。寸を云うて聞かせい。
▲アド「申し申し。盗人に極(きはま)つてござる。
▲シテ「おのれが何を知つて。黙つて居よ。
▲目代「それならば、寸を云へ。
▲二人「寸を云へ。
▲シテ「物に譬へて申さうならば。
▲目代「いやいや、その事ではない。寸を云へ。
▲シテ「まづ、あれは備前物でござる。
▲アド「いや、その事ではない。寸を云へ。
▲シテ「鎺元より物打ちまでは、桜の花を。
▲目代「いやいや、その事ではない。寸を云へ。
▲シテ「物に譬へて申さうならば。
▲アド「いやいや、その事ではない。寸を云へ。
▲目代「寸を云へ。
▲アド「寸を云へ。
▲目代「寸を云へ。
▲アド{*7}「申し申し。佩かせられませい。
▲アド{*7}「申し申し。佩かせられませい。
▲シテ「これは、何とするぞ。
▲二人「がつきめ。逃がすまいぞ。
▲シテ「面白うもござらぬ。
▲アド「あれ、御覧(ごらう)じられませい。盗人に極つてござる。
▲シテ「真つ平(ぴら)、許いて下されい、許いて下されい。
▲アド「あの横着者。逃がす事ではないぞ。
▲目代「あの人たらし。捕らへてくれい。
▲二人「やるまいぞ、やるまいぞ、やるまいぞ。
校訂者注
1:「目の鞘の外れた」は、「物事の道理を見抜く力がある。抜け目や油断のない」意。
2:底本は、「▲アド「」。
3:底本は、「彼奴(かやつ)」。 4:底本は、「いやいや」。
5:底本、「[金祖](はゞき)」の字は金偏に祖。
6:底本は、「かどつて」。同じ表現が「居杭」にもある(同校訂者注参照)。
7:底本、ここに「▲アド「」はない。底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション)
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