養老水(やうらうすい)

▲弟「これは、この辺りに住居(すまひ)致す者でござる。某(それがし)、祖父を持つてござるが、お年も百年に及んでござれば、余程行歩(ぎやうぶ)も辛苦に見えまする。それにつき、当国本須(もとす)の郡(こほり)に、めでたい薬の泉出来(しゆつたい)致し、この滝の水を飲む人は無病になり、老いたる者も若やぐによつて、老いを養ふ水と書いて養老の滝と唱へ、奇特なる薬の水なれば、祖父御へ用ひて見申したく存ずる間、まづ兄の方へ参り、談合致さう。と存じ、罷り出でた。まづ、急いで参らう。宿にござれば良いが。今日(けふ)は大方、宿に居らるゝでござら。いや、参る程に、これぢや。物まう。案内まう。
▲兄「いや。表に案内がある。物まう。とは。えい、そなたならば、すぐに通りは召されいで。
▲弟「何と、祖父御様はいよいよ御機嫌良うござるか。
▲兄「中々。御息災にござなさるゝ。
▲弟「まづ以つて、めでたうござる。只今参るも、別の事でもござらぬ。当所養老の滝の水の事は、定めてお聞きなされうの。
▲兄「されば、色々取り沙汰があるが、まことでおりやるか。
▲弟「中々。奇特なる水ぢや。と申す。それにつき、祖父御様へ用ひて見たいものでおりやるよ。
▲兄「左様に思し召すならば、祖父御様をお供致いて、滝壺へ参るまいか。
▲弟「一段と良うおりやらう。まづ祖父御様を呼び出して、談合致さう。いかに祖父御様、次郎が御見舞ひに参られてござる。これまで御出候へや。
▲シテ「太郎は何と云はします。次郎の方へ見舞ひに行く。と仰(お)しやるか。お行きやらば、人形がある程に、持つて行(い)てくれさしませよ。
▲兄「いや。只今、次郎の祖父御様を見舞ひに出でられてござる。
▲弟「まづ、お腰を召されませい。お見舞ひ申し上げまする。御機嫌良うござなされまして、おめでたうござる。
▲シテ「ようこそわせたれ。次郎に何がな、おましてくれさしませ。
▲弟「扨、只今参るも、別の事でもござらぬ。当所本須の郡に、めでたい薬の水出来致して、この滝の水を飲む人は、寿命長遠・無病息災にて、行歩(ぎやうぶ)も叶ひ、安うなり申す間、祖父御様へこれを進じたらば、行歩も心安うなりませう程に、お供致して参らう。と存じ、太郎殿へ相談に参りましてござる。
▲兄「次郎の申さるゝ通り、これはお供致して、薬の水を進じましたらば、行歩も心安うなりませう程に、思し召し立たれませ。
▲シテ「それは、皆の衆の様な若木の沙汰でこそあれ。この朽ち木の様に喰らひづめになつた者が、その様な事は無用か。と存ずるよ。
▲兄「それはともあれ、まづお慰みにお供致して参りませう。
▲弟「まづ、気晴らしにお越しなされませ。
▲シテ「それならば誘はれて、遊びがてら参らうか。
▲弟「いざ、お立ちなされませ。
{一遍廻る}
▲兄「世間の人々に奇特のある薬水なれば、祖父御様も、これをお飲みなされたらば、行歩も達者にならせられて、あなたこなたへ御遊山にお出なされ、我等どもお供申すならば、面白い事でござりませう。
▲シテ「いかさま。孫たちに誘はれて、あなたこなたと達者をするならば、さぞ面白い事でおりやらう。
▲兄「何かと申す内に、これでござる。まづ、これにお腰召されませ。
▲シテ「なうなう。いづれ、良い滝かな。打ち様(やう)でさへ、心が晴れて、気の薬でおりやるわ。
▲兄「いざ、水を掬(むす)んで、祖父御様へ与へませう。一杯。
▲弟「一杯。
▲二人「又一杯。{*1}あらあら、不思議や、奇特やな。養老の水を祖父に与へ申しければ。
▲シテ「鬢(びん)のあたり、髪の周りが、ぞろぞろぞろとぞろめいて。
▲地「額に四海の浪を湛(たゝ)へ、腰には梓の弓を張り、鬢髪(びんぱつ)までも白妙なりしが、養老の水の威徳にて、たちまち児(ちご)になり給ふは、老いを養ふ水とかや。
▲シテ「《笑》あわゝ、あわゝ。手打ち、手打ち、あわゝ。かぶり、かぶり、かぶりや。めゝこ、めゝこ、めゝこや。やんま、やんま、竿の先にとまり。やよ、雁(かりがね)通れ、棹になつて通れ。往(い)んで、乳飲まう、乳飲まう。

校訂者注
 1:底本、ここに「▲二人「」がある(略す)。

底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション

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