鬼の槌(おにのつち)
▲シテ「《次第》隠れ蓑着て隠れ笠、隠れ蓑着て隠れ笠、小槌や宝なるらん。
《詞》これは、蓬莱の島の鬼です。今、めでたい御代なれば、これより日本(につぽん)に当たつて、辰の市、殊の外繁昌致す。と申す間、只今日本に渡り、望みの物もあらば、求めばや。と存じ候ふ。
《道行》豊かなる、御代のためしの道広く、御代のためしの道広く、心の駒も勇むなる、足に任せて行く程に、名にのみ聞きし芦原や、日本の地にも着きにけり、日本の地にも着きにけり。
《詞》急ぐ程に、これは早(はや)、日本の地に着いた。遥々(はるばる)と渡つたれば、殊の外草臥(くたび)れた。まづ、この傍らに、ちと休らうで参らう。
▲オモ「誰殿、ござるか。
▲次アド「これに居りまする。
▲オモ「今日(こんにち)は、辰の市でござる程に、あれへ参り、良い物もあらば、求めませうが、何とござらうぞ。
▲次アド「一段と良うござらう。
▲オモ「いや。これは又、小竹筒(さゝえ)を持たせられてござるか。
▲次アド「少しながら、持ちましてござる。
▲オモ「某(それがし)も、ちと持ちませう。こちへおこされい。
▲次アド「いや、苦しうござらぬ。いざ、ござれ。
▲オモ「その儀ならば、参らう。さあさあ、ござれ、ござれ。
▲次アド「心得てござる。
▲オモ「市場(いちば)などでも、一つ呑まねば面白うござらぬ。
▲次アド「中々。こなたの仰せらるゝ通り、一つ呑うでこそ、市も面白うござれ。
▲オモ「随分駈け廻り、望みの物を求めませう。
▲次アド「中々。求めませう。
▲シテ「くんくんくん。うゝ、人臭い事かな。人間が参つたさうな。言葉をかけて苦しうない者ならば、市場への道連れに致さう。やいやい。それへ行くは、何者ぢや。
▲オモ「はあ。誰やら呼びまする。
▲次アド「まこと、呼びまする。
▲オモ「こなたを呼ばせらるゝは、どなたでござるぞ。
▲シテ「やいやい、こゝぢやわ。
▲オモ「はて扨、誰でござるぞ。お声は致せども、姿が見えませぬ。
▲次アド「まことに、どこ元にござるやら、見えませぬ。
▲シテ「いや、思ひ出いた。この蓑笠を着て居るによつて、日本の者の目には見えぬ。と見えた。脱いで見ませう。
▲オモ「はて扨、何と思し召すぞ。確かに目の前で声は致せども、姿が見えませぬが、不思議な事ではござらぬか。
▲次アド「これは、狐か狸が、我々をなぶるものでござらう。
▲シテ「こりやこりや、こゝに居るわ。
▲二人「どこ元にござるぞ。
▲シテ「これ、こゝに居るわ。
▲二人「なう、怖ろしやの、怖ろしやの。真つ平(ぴら)、命を助けて下されい。
▲シテ「これこれ、その様に恐ろしいものではない。蓬莱の島の鬼ぢやよ。
▲オモ「鬼が怖うなうて、何と致さうぞ。
▲二人「真つ平(ぴら)命を助けて下されい。
▲シテ「やいやい、その様に気遣ひするな。鬼神に横道(わうだう)なし。と、聊爾に服(ぶく)する事ではない。心安う思へ。
▲二人「私どもはまた、鬼一口に服せらるゝ事か。と存じてござる。
▲シテ「いやいや。その様に穢(けが)らわしい人などを喰ふ鬼ではない。気遣ひするな。
▲二人「それならば、安堵致いてござる。
▲シテ「扨、汝等は、どれへ行くぞ。
▲二人「私どもは、この辺りの者でござるが、今日(こんにち)は、辰の市でござるによつて、市場へ参りまする。
▲シテ「この鬼も、聞き及うだによつて、蓬莱の島より遥々(はるばる)これまで渡つた。良い道連れぢや。同道致さう。
▲二人「中々。お供致いて参りませう。
▲シテ「さあさあ。両人に一人(いちにん)、案内者のために先へおりやれ。
▲オモ「これはいかな事。お声はすれども、また姿が見えませぬ。どこ元にござるぞ。
▲シテ「こりやこりや、こゝに居るわ。
▲二人「どこにござるか。すきと見えませぬ。
▲シテ「いや、思ひ出いた。また、蓑笠を脱がう。
▲オモ「はて扨、これは不思議な事でござる。
▲次アド「仰せらるゝ通り、不思議な事でござる。
▲シテ「これこれ、こゝに居るわ。
▲オモ「いや、これにござるか。いや、申し。お姿が見えたり、見えなんだり致すが、何とも合点の参らぬ事でござる。何と致した事でござりまするぞ。様子を承りたう存じまする。
▲シテ「これは、不審を立つるは尤ぢや。様子を話(はな)いて聞かさう。これこれ。これは、隠れ笠といふ宝物(たからもの)ぢや。またこれは、隠れ蓑といふ宝物ぢや。これを着(ちやく)すれば、人間の目に見えぬによつての宝物ぢや。
▲オモ「扨は、承り及びました隠れ笠・隠れ蓑は、これでござるか。
▲シテ「中々。その通りぢや。
▲オモ「扨も扨も、縁に連(つ)るれば唐(から)の物。とて、これは珍しい宝物を拝見致しまして、この様なありがたい事はござりませぬ。
▲シテ「さうあらうとも。
▲オモ「扨また、打ち出の小槌と申す宝物がある。と申しまするが、いか様(やう)な物でござるぞ。
▲シテ「これは、一大事の事を問ひかけられた。さりながら、とてもの事に云うて聞かさう。打ち出の小槌といふは、何にても我が望みの物を思ひの儘に打ち出すによつて、三つの宝の第一なれば、肌身離さず、懐中して居るよ。
▲オモ「これは、御尤でござる。
▲シテ「扨、最前から見れば、何やら提げて居るが、それは何ぢやぞ。
▲次アド「これは、小竹筒(さゝえ)でござる。
▲シテ「何と、小竹筒(さゝえ)とは。
▲オモ「酒の事でござる。
▲シテ「何ぢや。酒ぢや。
▲次アド「左様でござる。
▲シテ「何と、その酒を振舞ふ事はなるまいか。
▲次アド「幸ひ、我々もたべたうなりました程に、何が扨、あげませう。
▲オモ「さあさあ、小竹筒(さゝえ)を開かせられい。
▲次アド「心得てござる。
▲オモ「まづ、下にござりませい。
▲シテ「心得た。
▲次アド「小竹筒(さゝえ)を開きましてござる。まづ、鬼殿へ進じませう。
▲シテ「まづ、そなた、始めさしませ。
▲オモ「まづ、こなたから参りませい。
▲シテ「それならば、そなた、亭主役に呑うで、さゝしませ。
▲次アド「それは、慮外にござるが、ともかくも、御意次第に致しませう。
▲オモ「某の酌を致さう。
▲次アド「これは、慮外にござる。さらば、先へ進じませう。
▲シテ「どれどれ、こちへおこさしませ。
▲次アド「恰度(ちやうど)、参りませい。
▲シテ「何が扨、恰度たべう。おつと、おりやる。
▲オモ「ちと、謡はせられい。
▲次アド「心得てござる。《謡{*2}》かはらぬ友こそは、買ひ得たる市の宝なれ、買ひ得たる市の宝なれ。
▲シテ「扨も扨も、冷(ひい)やりとして、良い気味ぢや。
▲オモ「扨は、鬼殿は、ひとつ参る。と見えた。重ねて参りませい。
▲次アド「さあさあ、続けさせられい。
▲シテ「まづ、そなた、お呑みやらいで。
▲オモ「まづ、受けさせられい。
▲シテ「それならば、受けうか。
▲次アド「ようござりませう。
{小謡。}
▲シテ「これは、面白い事ぢや。ひと引きには引かれぬ。ちと、下に置かう。
▲オモ「ようござらう。
▲シテ「何と、日本には、かりそめにも遊舞(いうぶ)をなして人の心を慰む。と聞き及うだ程に、何なりともひとさし舞はしませ。
▲次アド「いや。某などは、左様の事は不調法にござるよ。
▲シテ「いやいや、さうではあるまい。是非ともに所望致さう。
▲次アド「その儀ならば、ひとさし舞ひませう。地を謡うて下されい。
▲オモ「心得ました。
{次アド小舞。}
▲シテ「やんや、やんや、やんや。さすが、日本の舞程あつて、しほらしい、面白い事ぢや。
▲オモ「お肴に、今一つ上がりませい。
▲シテ「中々。呑まうとも。
▲次アド「これも、恰度(ちやうど)参りませい。
▲シテ{*1}「おつと、おりやる。さらば、この盃をそなたへさゝう。
▲オモ「これへ下されい。戴きませう。
▲シテ「あれへ持つておりやれ。
▲次アド「心得てござる。
▲シテ「そなたも恰度(ちやうど)お呑みやれ。
▲オモ「おつと、ござる。何と思し召すぞ。某のかやうに受け持つてござれば、鬼殿へ何ぞ、立ち姿を所望致したいが、何とござらうぞ。
▲次アド「これは、一段とようござらう。
▲オモ「いや、申し。何とも申しかねてはござれども、私の受け持ちました程に、御立ち姿がひとさし所望でござる。
▲シテ「尤、肴に舞ひたけれども、蓬莱の島の舞は、面白うおりないよ。
▲オモ「それは、定めてお卑下でござらう。珍しう拝見致したうござる程に、是非とも御舞ひなされませい。
▲シテ「それならば、ひとさし舞はうか。
▲オモ「ようござりませう。
{シテ小舞。}
▲二人「やんや、やんや、やんや。
▲オモ「扨も扨も、面白い事でござる。
▲次アド「いや。また、おしほらしい事でござる。
▲シテ「さうもおりない。
▲オモ「今のをお肴に、も一つたべませう。
▲次アド「さあさあ、参りませい。
▲オモ「おつと、ござる。扨、これを鬼殿へ進じませう。
▲シテ「もはや、酒は納めさしませぬか。
▲オモ「最前戴きました程に、それへ返進致しませう。
▲シテ「それならば、こちへおこさしませ。これは、大盃(おほさかづき)ぢやによつて、今一つ呑うだならば、正体はあるまい。
▲次アド「恰度(ちやうど)参りませい。
▲シテ「おつと、おりやる。
{次アド小謡。}
▲シテ「ひと引きには引かれぬよ。扨、そなたもひとさし舞はしませ。
▲オモ「某は、許させられい。
▲シテ「いや、三神相応。といふ事があれば、是非ともひとさし舞はしませ。
▲オモ「それならば、ひとさし舞ひませう。地を謡うて下されい。
▲次アド「心得ました。
{オモ小舞。}
▲シテ「やんや、やんや、やんや。扨も扨も、どれに疎(おろ)かもなう、しほらしい、面白い事ぢや。今の小舞が殊の外出来た程に、その褒美に、この隠れ笠をそなたへおまさう。
▲オモ「これは、願ひまするところに、近頃ありがたうござる。
▲シテ「これこれ。そなたへも、最前の舞の褒美に、この隠れ蓑をおまするぞ。
▲次アド「これは、思ひも寄らぬ仕合せ、忝うござる。
▲シテ「さらば、盃を干(ほ)す程に、納めさしませ。
▲オモ「今少し参りませぬか。
▲シテ「いかないかな。早うとらしませ。
▲次アド「それならば、納めませう。
▲シテ「さあさあ、辰の市へ参らう。
▲二人「ようござりませう。
▲シテ「これは、殊の外酔うておりやる。ちと手を引いてたもれ。
▲オモ「お手を引きませう。
▲次アド「某も、お手を引きませう。
▲シテ「いや、なうなう。道が七筋、八筋(やすぢ)に見ゆるわ。《笑》
▲二人「左様でござりませう。
▲オモ「殊の外酔はせられてござる。
▲次アド「その通りでござる。
▲シテ「なう。怖ろしやの、怖ろしやの。
▲二人「何事でござるぞ。
▲シテ「向かうの石倉の間より、柊の枝が道端へ出てある。あゝ、恐物(こはもの)ぢや、恐物(こはもの)ぢや。《笑》
▲オモ「扨も扨も、臆病な事を仰せらるゝ。私どものお供致いて参る上は、少しもお気遣ひなされまするな。
▲シテ「殊の外酔うておりやる。これでは中々、行かれぬ。ちとこれに微睡(まどろ)うでから、行かう。
▲オモ「一段とようござりませう。
▲シテ「さらば、ちと寝て行かう。えいえい。
▲オモ「ちと、お腰を打ちませう。
▲次アド「お手をさすりませう。
▲オモ「申し、何とでござる。
▲次アド「ようござるか。
▲オモ「申し、申し。
▲次アド「何とでござる。
▲オモ「申し、これへござれ。
▲次アド「何事でござる。
▲オモ「扨々、怖ろしい目に遭うてござる。
▲次アド「その通りでござる。
▲オモ「さりながら、存じも寄らぬ宝物を得て、かやうの大慶な事はござらぬ。
▲次アド「某は、早う宿へ帰り、妻子(つまこ)に見せて、悦ばせませう。
▲オモ「待たせられい。
▲次アド「何事でござる。
▲オモ「最前申さるゝは、打ち出の小槌は、三つの宝の内で大切な程に、懐中して居らるゝ。と申されてござるによつて、何と、これを奪ひ取らうではござるまいか。
▲次アド「これは、一段とようござらう。さりながら、ちと恐物(こはもの)でござる。
▲オモ「某はあれへ参り、腰を打つて居りませう程に、こなた、良い時分を見合(みあは)せ、奪ひ取らせられい。
▲次アド「その儀ならば、心得てござる。
▲オモ「ぬからせらるゝな。
▲次アド「ぬかる事ではござらぬ。
▲オモ「何と申し、お腰を打ちませうか。
▲次アド「お手をさすりませうか。
▲オモ「申し、申し。何とでござる。
▲次アド「ようござるか。
▲オモ「申し、何とでござる。ようござるか。申し、申し。
▲次アド「申し、これへござれ。
▲オモ「何事でござる。
▲次アド「これ、見させられい。まんまと奪ひ取つてござる。
▲オモ「扨々、でかさせられてござる。どれどれ。これへ見せさせられい。
▲次アド「なうなう、嬉しやの、嬉しやの。急ぎ宿へ帰り、望みの物を打ち出いて見ませう。
▲オモ「あゝ、これこれ。まづ、待たせられい。
▲次アド「何事でござる。
▲オモ「その小槌を、こちへおこさせられい。
▲次アド「いやいや。これは、某の奪ひ取つた物を、そなたへやる筈はござらぬ。
▲オモ「やあら、そなたは理不尽な。某が云ひ出いたればこそなれ。そなたへはやらぬ。これは、是非ともに某が取らねばならぬ。こちへおこさしませ。
▲次アド「いやいや。身共が命に替へて取つた物を、渡す事はならぬ。こちへおこさしませ。
▲オモ「是非ともこちへおこさしませ。
▲次アド「いや、こちへおこさしませ。
▲オモ「こちへおこさしませ。
▲次アド「こちへおこさしませ。
▲二人「こちへ、こちへ、こちへ。これはいかな事。真つ平(ぴら)、許いて下されい。
▲シテ「うゝ。喧(かしま)しい。何事をするぞ。や、これはいかな事。それは、打ち出の小槌ではないか。
▲二人「面目もござりませぬ。
▲シテ「あゝ、理不尽な者どもぢや。その様な横道な心では、何程打ち出(だ)いたりとも、出るものではない。某が、批判を分かつて取らせう。まづ、それをばこちへおこせい。
▲次アド「畏つてござる。
▲シテ「扨、これを汝にやれば、あの者が恨む。また、あの者にやれば、汝が恨むるによつて、とかく、奪ひ合ふ物はこの鬼が取つて、両人の者どもには、子々孫々までも富貴繁昌に栄ゆる様に、宝物を打ち出して与へうぞ。
▲二人「はあ。それは、ありがたう存じまする。
▲シテ「いでいで、宝を与へんとて。
▲地{*3}「いでいで宝を与へんとて、打ち出の小槌をおつ取りのべて、二人(にゝん)が間を丁々(ちやうちやう)と打てば、金銀・珠玉・米銭(べいせん)数多(あまた)に湧き出でたり。二人(にゝん)はこれを給はりて、悦び勇み、我が家をさして帰りければ。
▲シテ「これまでなりとて小槌を担(かた)げ、これまでなりとて小槌を担(かた)げて、蓬莱の島にぞ帰りける。
校訂者注
1:底本は、「▲ヲモ「」。
2:底本、ここに「《謡》」はない。
3:底本、ここに「▲地「」はない。但し、或いは「▲同「」か。
底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション)
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