飛越(とびこえ)
▲アド「これは、この辺りの者でござる。今日(けふ)は、さる方(かた)へ茶の湯に参る。それについて、こゝに心安う話す新発意(しぼち)がござるが、茶の湯に行くならば、誘うてくれい。と申されてござる程に、これへ立ち寄り同道致さう。と存じて罷り出でた。まづ、そろりそろりと参らう。かやうに参つても、俄(には)かの事なれば、いづ方へも出られたか、お隙(ひま)で居られて下されいかし。と存ずる。いや、参る程に、これぢや。物まう。案内まう。
▲シテ「いや。表に物まう。とある。案内とは誰(た)そ。物まう。とは。
▲アド「某(それがし)でござる。
▲シテ「えい、誰殿。ようこそ御出でござる。
▲アド「この間は久しうお見舞ひも申しませぬが、変らせらるゝ事もござらぬか。
▲シテ「中々。変る事もござらぬ。して只今は、何と思し召しての御出でござる。
▲アド「只今参るは、別の事でもござらぬ。今日(けふ)は、さる方(かた)へ茶の湯に参りまする。かねがねお約束でござるによつて、同道致さう。と存じて参つてござる。お隙(ひま)ならば、ござるまいか。
▲シテ「思し召し寄つて、忝うござる。参りたうはござれども、今日(けふ)は師匠の留守でござるによつて、参る事はなりますまい。
▲アド「尤ではござれども、某の誘うた。と申したならば、別に叱りも召されまい程に、平(ひら)にござりませい。
▲シテ「その儀ならば、お供致しませう。
▲アド「いざ、ござつて。
▲シテ「まづ入(はい)つて、碁なりとも将棋なりともさしませう。
▲アド「いや、一刻も早いが良うござる。さあさあ、ござれござれ。
▲シテ「心得てござる。
▲アド「いや、申し。自然、お留守でもござらうか。と存じたに、幸ひお隙入(ひまい)りもなうお宿にござつて、同道致す様な大慶な事はござつてこそ。
▲シテ「私も隙(ひま)で居りまして、お供致す様な仕合せな事はござらぬ。
▲アド「まづは、心安い仁(じん)でござるによつて、茶の湯が済んでもござらうならば、ゆるりと話(はな)いて帰りませう。
▲シテ「何が扨、ゆつくりと話しませうとも。いや、申し申し。それに大きい川がござる。
▲アド「これは、川ではござらぬ。飛び越えの溝でござる。飛ばせられい。
▲シテ「いかないかな。私は、飛ぶ事はなりませぬ。
▲アド「はて扨、臆病な事を云はせらるゝ。まづ、私から飛んで見ませう。見させられい。
▲シテ「危なうござる。
▲アド「いや、えい。
▲シテ「扨も扨も、お軽い事かな。私は飛ぶ事はなりませぬ。
▲アド「これ程の溝川を、え飛ばぬ。といふ事がござらうか。いか様(やう)になりとも飛ばせられい。
▲シテ「それならば、まづ飛んで見ませう。
▲アド「早う飛ばせられい。
▲シテ「いや、あゝ。
▲アド「あゝ、危なうござる。
▲シテ「いかないかな。飛ばれませぬ。何と致さうぞ。いや、申し。今度はづゝと、あれから走り飛びに致しませう。
▲アド「走り飛びにな。
▲シテ「中々。
▲アド「これは、一段と良うござらう。急いで飛ばせられい。
▲シテ「飛びまするぞ。{*1}いや、あゝ。
▲アド「あゝ、
▲シテ「中々怖ろしうて、飛ばれませぬ。
▲アド「はて扨、臆病な人ぢや。何とぞして、飛ばせられい。
▲シテ「惣じて、この眼と申すものが臆病なもので、水を見れば怖ろしうて飛ばれませぬ程に、今度は眼を塞いで走り飛びに致しませう。
▲アド「これは良うござらう。
▲シテ「その上こなたの、あゝあゝ。と仰せらるゝによつて、ひとしほ怖ろしうて飛ばれませぬ。必ず、あゝあゝ。と仰せらるゝな。
▲アド「あゝあゝ。と申すまい程に、早う飛ばせられい。
▲シテ「それならば、飛びまするぞ。
▲アド「飛ばせられい。
▲シテ「飛びまするぞ。
▲アド「飛ばせられい。
▲シテ「いや、あゝ。いかないかな。怖ろしうて飛ばれませぬ程に、茶の湯に参つた心地を致いて、これから戻りませう。
▲アド「あゝ、申し申し。これまで来て置いて、戻る。と云うは、残り多うはござらぬか。
▲シテ「残り多うはござれども、飛ばれませぬによつて、是非に及びませぬ。
▲アド「何とぞして飛ばせたいものぢやが。申し申し、良い事を思ひ出いてござる。某のそれへ飛び越えて、手と手を引き合うて連れ飛びに致さうが、飛ばせられうか。
▲シテ「連れ飛びにな。
▲アド「中々。
▲シテ「連れ飛びにならば、飛ばれぬ。といふ事はござるまい。
▲アド「それならば、それへ飛びまする。
▲シテ「危なうござる。
▲アド「いや、えい。
▲シテ「扨も、お軽い事かな。
▲アド「さあさあ、しかと執(とら)へさせられい。
▲シテ「しかと執(とら)へて下されい。
▲アド「飛びまするぞ。
▲シテ「飛ばせられい。
▲アド「いや、えい。
▲シテ「南無三宝。
▲アド「これはいかな事。扨も扨も、気の毒な事ぢや。
▲シテ「某の飛ぶまい。と申すものを飛ばせて、たつたひと絞りになつた。扨も扨も、苦々しい事ぢや。
▲アド「どれどれ、某の絞つて進じませう。扨も扨も、気の毒な事ぢや。《笑》この細い溝川を飛びかねて、はまる。といふ事があるものか。その儘、濡れ鼠の様な。《笑》
▲シテ「中々。なう、そこな人。やあら、そなたは聞こえぬ。人の川へはまつたを、笑止な。とは思はいで。笑ひどころではおりやるまい。
▲アド「これが可笑しうなうて、何とせうぞ。そなたの体(てい)を見さしませ。正真(しやうじん)の濡れ鼠の様な。《笑》
▲シテ「いや、なうなう。惣じて人の身の上に、可笑しい事がなうて叶はぬものぢや。そなたの身の上にも、可笑しい事があらうぞよ。
▲アド「某の身の上に、可笑しい事のあらう覚えがない。あらば、早う仰(お)しやれ、仰しやれ。
▲シテ「誰(た)が身の上にも、可笑しい事はあるものぢや。そなたの身の上の事を云うたならば、面目がおりやるまい。
▲アド「面目を失ふ覚えはない。あらば、早う仰(お)しやれ、仰しやれ。
▲シテ「それならば、申さうぞや。
▲アド「早う仰しやれ。
▲シテ「まづ、去年七月、辻相撲があつた。
▲アド「その辻相撲が何とした。
▲シテ「まづ、聞かしませ。初めの程は、小相撲であつたが、後には大相撲になつて、近郷近在の者が寄り合ひ、入り替はり立ち替はり立ち結ぶ中に、続けて八番勝ちをした者があつた。
▲アド「その八番勝ちが可笑しいか。
▲シテ「まづ、聞かしませ。先の者は大兵(たいひやう)であり、力は強し、手取りではあり、もはやこれに続く相撲はあるまいか。と思うて見て居れば、その相撲を引け。などゝ云ふによつて、扨はきやつに勝る相撲もあるか。と思うて、伸びつ屈(かゞ)うつして見て居たれば、そこへ和御料(わごれう)が、によろによろと出さしました。相撲も立ち方。とやらで、中々あれには片腕にも足るまいが。と、固唾を飲うで見て居たれば、案の如く行司が、やつ。と云うて合はすると否や、右左へ取つて引き廻し、三つ結(ゆ)ひを取つて目より高く差し上げ、何の容赦もなう、づでいどつ。と投げられた。その時そなたが面目なげな顔をして、やうやうと起き上がり、方々(はうばう)を見合はせ、前の砂を払ひながら、方屋(かたや)へちんがりちんがりとして入(はい)らしました体(てい)は、今も見る様におりやる。ちんがりちんがりちんがり。《笑》
▲アド「いや、なうなう。相撲は、負くるも勝つも時の運ぢや。これ程可笑しい事はおりやるまいぞ。
▲シテ「これが可笑しうなうて何とせうぞ。ちんがりちんがりちんがり。《笑》
▲アド「いや、なうなう、それほど可笑しくば、相撲を取らう。
▲シテ「何ぢや。相撲を取らう。
▲アド「おんでもない事。
▲シテ「某は茶の湯にこそ参つたれ。相撲を取りには参らぬ。もはや、かう参る。
▲アド「これこれ。相撲を取らねば、後(あと)へも先へもやらぬが、ていと取るまいか。
▲シテ「何ぢや。相撲を取らねば、後へも先へもやらぬ。
▲アド「中々。
▲シテ「それならば、是非に及ばぬ。一番取らう。それへ寄つて拵へさしませ。
▲アド「心得た。和御料の相撲の程も知れたよ。
▲シテ「まづ、取つて見さしませ。
▲アド「拵へがよくば、それへお出やれ。
▲シテ「心得た。誰、行司もない程に、相行司で参らう。
▲アド「良うおりやらう。
▲二人「いや、お手。いやいやいや、やつとな。いやいやいや、やつとな。
▲アド「やつとな、いやいやいや。
▲シテ「これは何とするぞ、何とするぞ。
▲アド「いやいやいや、お手。
▲シテ「南無三宝。
▲アド「なうなう、嬉しやの、嬉しやの。勝つたぞ、勝つたぞ。
▲シテ「やいやい。相撲は三番の物ぢや。返して勝負をつけい。どちへ行くぞ。人はないか、捕らへてくれい。やるまいぞ、やるまいぞ。
校訂者注
1:底本、ここに「▲アド「」がある(略す)。
底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション)
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