石神(いしがみ)
▲シテ「これは、この辺りの者でござる。某(それがし)の女共めが、毎日毎日何かにつけて、がしがしと小言を申すによつて、あまり喧(かしま)しさの儘、一つ二つ叱つてござれば、中々腹を立て、家出を致いてござる。あれが一日も宿にあらねば、身共が身体(しんたい)のためにならいで迷惑にござる程に、これへ伺候致し、この段を申し上げ、女共に異見を云うて下さるゝ様に頼みませう。と存ずる。まづ、急いで参らう。何と、お内にござれば仕合せぢやが。常々お隙(ひま)なしぢやによつて、知れぬ事ぢや。即ち、これでござる。物まう。お内にござりまするか。
▲アド「いや、表に物まう。とある。案内とは誰(た)そ。物まう。とは。
▲シテ「私でござりまする。
▲アド「この間は久しう見えなんだが、今日(けふ)は何と思うて出さしましたぞ。
▲シテ「只今伺候致すは、別の事でもござりませぬ。女共と、ちと云ひ分を致いてござれば、私に隙(ひま)をくれて、親の方(かた)へ参る。と申して、家出を致いてござる。御存じの通り、彼が宿に居ませねば、私の身体(しんたい)の障りになりまする程に、こなたへ参りましたならば、良い様に仰せられて、帰りまする様に頼み上げまする。
▲アド「それは、笑止な事ぢや。何事を口論して家出をしたぞ。
▲シテ「いや。話に立つ事ではござりませぬ。余所(よそ)歩きばかりして宿に居らぬ事の、何のかの。と申せども、左様に宿にばかり居らるゝものではございませぬによつて、その云ひ訳を致せば、申し様が気に合はぬ。と申して、出て参つてござる。
▲アド「それは、内方(うちがた)の云はるゝが、道理ぢや。今から宿に居て、ともどもに稼いだが良い程に、さう心得さしませ。内儀がこれへわせたならば、異見を云うて、帰らるゝ様に云はう程に、そなたも稼ぎに精を出す様にさしませ。
▲シテ「しからば、ひとへに頼み上げまする。今にも女共が参らうも知れませぬ程に、私はもはや、帰りまする。
▲アド「行かしまするか。
▲シテ「中々。
▲二人「さらば、さらば。
▲女「これは、この辺りに住居(すまひ)致す者でござる。こちの連れ合ひと口論致いて、親里へ参りまする。それについて、こゝにお心合ふ、お目を下さるゝお方がござる程に、これへ参り、様子をお話し申さう。と思ひまする。まづ、急いで参らう。かのお方には、常々お世話にもなり、その上妾(わらは)が嫁入つて参つた時分にも、口入れをなされてござるによつて、お話し申さねばなりませぬ。いや、参る程に、即ちこれでござる。ご案内を申しまする。お内にござりまするか。
▲アド「いや。女の声ぢやが。定めてかの人であらう。案内とは誰ぢやぞ。
▲女「妾でござりまする。
▲アド「いや。女房衆、ようわせた。
▲女「この間は、久しうお見舞ひも申しませぬが、お変りなさるゝ事もござりませぬか。
▲アド「中々。変る事もないが、そなたは隙(ひま)もあるまいに、何と思うてわせたぞ。
▲女「只今参るは、別の事でもござりませぬ。まづ、聞かせられて下されませい。こちの太郎は、辺りの良い衆とばかり付き合うて、歌の、連歌の、と申して、宿には片時(かたとき)も居りませぬ。あれで何と、万事の問ひ合ひ・談合がなるものでござりませうぞ。もはや太郎には、ふつふつ厭(あ)き果てましてござるによつて、妾は親里へ参りまする程に、こなたにも、左様お心得なされて下されませい。
▲アド「はて扨、それは苦々しい事ぢや。そなたの仰(お)しやるは、一々尤ぢや。太郎にも、随分異見を云はうが、さりながら、男には従はいで叶はぬものぢや程に、まづこの度は堪忍をして、戻らしませい。
▲女「こなたの何かと仰せられまするは、忝うはござれども、もはや帰りまする了簡はござりませぬ。又これへ参り、何かと申しまするを、定めて止めて下されいかし。の様に思し召しませうが、さらさら左様ではござりませぬ。常々お世話にもなりまする。その上、妾があれへ参りまする時分も、お取り持ちなされて下されましたによつて、それ故、お知らせ申さう。と存じて、立ち寄りましてござる。もはや、かう参りまする。
▲アド「これこれ。まづ、待たしませ。はて扨、そなたは短気な人ぢや。そなた衆を贔屓に思へばこそ、何かと云へ。太郎には、きつと異見を云うて、向後(きやうご)嗜む様にさせうず。また、和御料(わごれう)が太郎を嫌ひ、出て行かしまして、あれよりは悪(あ)しい所へ行き、いか様(やう)の難儀を召されうも知れぬによつて、とかく某が悪い事は云はぬ程に、思ひ返して戻らしませ。
▲女「いやいや。それは、左様ではござりませぬ。たとへこの上、いか様(やう)な悪しい所へ参り、難儀を致せばとて、苦しうござりませぬ。何程に仰せられても、太郎が方(かた)へ帰る事はなりませぬ。左様に思し召しませい。
▲アド「扨は、これ程に事を分けて云ふに、承引なければ是非がない。さりながら、これは云うても一大事なれば、もはやこの上は占算(うらさん)を見るか、但しはまた、仏神(ぶつしん)へ祈誓をかけて、お指図次第にしたらば良からう。と思ふよ。
▲女「いか様(さま)。仰せらるれば、左様でござりまする。それなれば、占算(うらさん)を見るまでもござりませぬ。承れば、出雲路の夜叉神(やしやじん)は現仏者(げんぶつしや)ぢや。と申しまする程に、出雲路へ参り、夜叉神を引いて見ませう。
▲アド「それは、一段と良からう。さうさしませ{*1}。
▲女「それならば、妾はかう参りまする。
▲アド「おりやらうか。
▲女「中々。
▲二人「さらば、さらば。
▲アド「ようおりやつた。
▲女「はあ。
▲シテ「いや、油断を致いて居つた。女共、あなたへ参つたか知らぬまで。申し、ござりまするか。
▲アド「誰ぢやぞ。
▲シテ「私でござりまする。何と、女共は参りましたか。
▲アド「中々。わせたによつて、色々異見を云うたれども、中々承引せぬによつて、しからばこの上は、仏神(ぶつしん)へ祈誓をかけ、御鬮(みくじ)を上げて見さしませ。と云うたれば、その儀ならば、出雲路の夜叉神を引いて見よう。と云うて行かれたよ。
▲シテ「で、ござりまするか。
▲アド「中々。
▲シテ「自然、夜叉神の戻るな。とあつた時は、何と致いたものでござりませうぞ。
▲アド「いや。それも、良い事を思ひ出いた。和御料(わごれう)を夜叉神の体(てい)に拵へて、本(もと)の夜叉神を脇へ退(の)け、その跡にそなたを据ゑ置いて、女房衆の引いて見る時、そちへ戻る様にさしませ。
▲シテ「これは、良い分別でござりまする。さらば、その体(てい)を拵へさせられて下されませい。
▲アド「中々。拵へておませう。これへおりやれ。
▲シテ「心得てござる。
▲アド「これこれ。この注連縄(しめなは)を、襟に掛けさしませ。
▲シテ「心得てござる。何と、良うござりまするか。
▲アド{*2}「中々。良うおりやる。いざ、同道致さう。さあさあ、おりやれ、おりやれ。
▲シテ「心得てござる。
▲アド「いや、なう。云ふまではなけれども、随分見顕はされぬ様にさしませ。
▲シテ「その段は、お気遣ひなされまするな。随分見顕はさるゝ事ではござりませぬ。
▲アド「いや。即ち、これでおりやる。まづ、本(もと)の夜叉神を脇へ退(の)けう。さあさあ、これへ腰を掛けさしませ。
▲シテ「心得てござる。
▲アド「扨、某は、もはや戻るぞ。
▲シテ「お帰りなされまするか。
▲二人「さらば、さらば、さらば。
▲シテ「忝う存じまする。
▲女「今日(けふ)は吉日なれば、出雲路へ参らう。と思ひまする。夜叉神様は、霊験あらたな。と承りました程に、良い様にお指図をなされて下されぬ。と申す事はござるまい。と存ずる。いや、参る程に、即ちこれでござる。外から入(はい)つたれば、殊の外暗うて知れませぬが、夜叉神様は、どこ元にござるか。さればこそ、これにござるよ。まづ、上げて見ませう。これは、軽う上がらせられた。扨、石神様へ申し上げまする。妾は親里へ帰りまして良からう事。と思し召しまするならば、上がらせられまするな。また、今までの通り添うて良からう。と思し召しまするならば、上がらせられませいな。惣じて、かやうの事は、神を諫めのためなれば{*3}、小歌を諷(うた)ひながら引きませう。
《小歌》只人は見るにまして若い。また文殊の再来か、行平の中納言も見ねばなども思はぬ。
《詞》これは、添へ。と思し召すやら、上がらせられた。今度は逆占(さかうら)引いて見ませう。石神様へ申し上げまする。いよいよ添へ。と思し召すならば、上がらせられまするな。
《小歌{*4}》我が恋は、遂げうぞやらう。末遂げうぞやらう。上がれ、上がれ、上がれ、上がらしめの石神。
《詞》扨は、いよいよ添へ。と思し召すやら、上がらせられぬ。もはや、疑ふ事もござらぬ程に、帰りませう。また石神様へ申し上げまする。お指図に任せまする程に、この上は、夫婦仲良う末繁昌に守らせられて下されませい。これは、また改めて祝言でもござり、妾は神子(みこ)の子孫なれば、お神楽を上げて、神を涼しめませう。
《和歌》お神楽こそめでたうおはしませ。諸願成就・必令(ひつりやう)満足。
{神楽}
《和歌》笹の葉を笹の葉を、てんでに持ちて手に持ちて、天(あま)の岩戸に言伝(ことづて)やせん。
{神楽}
▲シテ「なうなう、女共。とてもの事に、負うて行かう。
▲女「それは、嬉しうござる。
▲シテ「そなたと某とは、五百八十年。
▲女「七廻り添ひませう。
▲シテ「一段とめでたいぞ。こちへおりやれ。
▲女「心得ました。
▲シテ「こちへおりやれ、こちへおりやれ。
▲女「心得ました、心得ました。
校訂者注
1:底本は、「さうしませ」。
2:底本、ここに「▲アド「」はない。
3:「神(かみ)をいさめのためなれば」は、底本のまま。意味不詳。
4:底本は、「歌」。
底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション)
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