鬼の継子(おにのまゝこ)
▲女「妾(わらは)は、この辺りの者でござる。久々、親里へ参りませぬ程に、見舞ひに参らう。と思ひまする。まづ、そろりそろりと参らう。久々で参れば、道もしかじかとは存じませず、その上、遠路でござれば、道の程も心元なうござる。さりながら、この道を参つたならば、隠れはあるまい。と思ひまする。いや。何かと申す内に、殊の外広い野へ参つてござるが、何と申す所ぢや知らぬ。やあやあ、播磨の印南野(いなみの)ぢや。はて扨、何とやらすさまじい、気味の悪い野でござる。その上、俄(には)かに物凄うなつてござる。扨も扨も、気味の悪い事でござる。
▲シテ「くんくんくん。扨も扨も、人臭い事かな。いで、喰らはう、喰らはう、喰らはう。あゝあゝあゝ。
▲女「なう、悲しやの、悲しやの。真つ平(ぴら)、命を助けて下されませい。悲しやの、悲しやの。
▲シテ「やい、そこな奴。おのれは何者なれば、人倫(じんりん)離れた所へは来たぞ。
▲女「私は、この辺りの者でござるが、親里へ参りまする。
▲シテ「たとへいづ方(かた)へも行け、良い所へ来た。この間は、久しう生物(なまもの)を喰はぬ程に、頭からたつたひと噛みにせう。いで、喰らはう。あゝあゝあゝ。
▲女「真つ平(ぴら)、命を助けて下されい。
▲シテ「やい。汝が前に抱へて居るは、何ぢやぞ。
▲女「これは、妾が子でござる。
▲シテ「どれどれ。扨も扨も、可愛い子ぢや。して、そちには夫(をつと)があるか。
▲女「夫(をつと)がなうて、この子があるものでござるか。
▲シテ「これは、某が誤つた。
▲女「して、こなたには親御がござるか。
▲シテ「親がなうて、某が生まるゝものか。
▲女「こなたの親御ならば、さぞ恐ろしうござらう。
▲シテ「いや。某とは違うて、心は仏ぢや。やい。そちを連れて行(い)て、某の妻にするぞ。
▲女「いやいや。こなたと夫婦(ふうふ)になる事は、嫌でござる。
▲シテ「身共が云ふ事を嫌。と云うたならば、たつたひと噛みにせう。いで、喰らはう。あゝあゝあゝ。
▲女「なう、悲しやの、悲しやの。それならば、夫婦になりませう。
▲シテ「何ぢや、ならう。
▲女「是非に及びませぬ。この子のためでござる程に、なりませう。さりながら、化粧を致いて参りませう。
▲シテ「いやいや。和御料(わごれう)の顔が美しいによつて、化粧には及ばぬよ。
▲女「いやいや。祝言でござるによつて、ちよつと致しませう。
▲シテ「それならば、ともかくもでおりやる。
▲女「その間、この子を泣かぬ様に、守(もり)をして下されい。
▲シテ「おゝ、守(もり)をせう。こちへおこさしませ。やれやれ、美しい子かな。母が美しいによつて、よう似た。こそこそ、こそこそ、こそこそ、ばあ。
▲女「申し申し。その様に、嚇(おど)させらるゝな。
▲シテ「いやいや。泣く事ではない。いや、こそこそこそ。《笑》貝を作るわ、貝を作るわ。機嫌が悪うなつた。いや、こそこそこそ。《笑》機嫌が直つた。いや。和御料に云ひ渡す事がある。今からは某の子ぢや程に、身共によう似て、いかにもたくましう育つて、扨成人して、人を服(ぶく)さしませ。まづ、云ひ渡す事はこの通りぢや。扨、化粧はまだ出来ぬか。
▲女「中々。もはや、ようござりまする。
▲シテ「扨、めでたい折柄なれば、囃子物で蓬莱の島へ行かう。と思ふが、何とおりやらうぞ。
▲女「一段とようござりませう。して、何と囃す事でござるぞ。
▲シテ「いや、別の事でもない。この通りを直(すぐ)に囃すよ。
▲女「何とでござる。
▲シテ「鬼の継子を肩に乗せて、蓬莱の島へ参らう。と云ふ事ぢや。
▲女「心得ました。急いで囃させられい。
▲二人「鬼の継子を肩に乗せて、鬼の継子を肩に乗せて、蓬莱の島へ参らう、蓬莱の島へ帰らう。
▲シテ「某は草臥(くたび)れた。和御料へおまさう。
▲女「妾が抱きませう。さあさあ、囃させられい。
▲シテ「心得た。
▲二人「鬼の継子を母に抱かせて、とゝが愛して蓬莱の島へ帰らう、蓬莱の島へ帰らう。
▲女「なうなう、鬼殿。こなたはそれにござれ。妾は親里へ参りまするぞ。なうなう、怖ろしやの、怖ろしやの。
▲シテ「やいやい。あの横着者、どちへ行くぞ。人はないか、捕らへてくれい。いで、喰らはう、喰らはう、喰らはう。
底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション)
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