木六駄(きろくだ)
▲主「これは、この辺りの者でござる。召し使ふ者を呼び出いて、申し付ける事がござる。やいやい、太郎冠者。居るか、やい。太郎冠者は、どちへ行(い)たぞ。太郎冠者、太郎冠者。
▲シテ「いや、呼ばせらるゝさうな。私を呼ばせらるゝは、何の御用でござる。
▲主「おのれ、最前から呼ぶに、何をして居た。
▲シテ「されば、その御事でござる。この間より降り続きまする大雪で、あまり寒うござるによつて、お台所の囲炉裏端に屈(かゞ)うで居りました。
▲主「おのれは憎い奴の。奉公人がその様に、寒い、寒い。とばかり云うてなるものか。扨、汝を呼び出すは、別の事でもない。都の伯父者人の方(かた)へ、例年の通り、炭・薪(まき)を牛に付けて遣る程に、大儀ながら行(い)てくれい。
▲シテ「いや。それは、次郎冠者に申し付けませう。
▲主「やいやい、太郎冠者。次郎冠者に云ひ付ける程なれば、某(それがし)の云ひ渡す。汝、行け。
▲シテ「はあ。畏つてはござれども、して、牛は何疋でござる。
▲主「木六駄に炭六駄ぢやよ。
▲シテ「やあやあ。木六駄に炭六駄。
▲主「中々。
▲シテ「扨は、十二疋でござるか。
▲主「その通りぢやよ。
▲シテ「いや、申し。こなたにも、思し召しても御覧(ごらう)じられい。この大雪に、何と十二疋の牛を追うて、都まで参られませうぞ。ちと晴れ間を見合はいて遣(つか)はされたならば、良うござりませう。
▲主「いやいや。この間中より見合はすれど、今日(けふ)が一(いち)晴れ間ぢや程に、早う行け。
▲シテ「あゝ。
▲主「あゝ。とは、不返事なか。おのれ、行くまい。と云ふ事か。
▲シテ「いや、さうではござりませぬ。
▲主「ていと、行くまいか。
▲シテ「あゝ。参りませう、参りませう。
▲主「いや、お行きやるまいものを。
▲シテ「何が扨、参りませいでは。
▲主「それならば、遣る物がある。それに待て。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「やいやい。これは、某の手造りの酒でござるが、例年の通り進じまする。委細はこの文(ふみ)の内にある。と云うて、持つて行け。
▲シテ「心得ましてござる。
▲主「支度をして、早う行け。
▲シテ「はあ。扨も扨も、迷惑な御用を仰せ付けられた。何と、この大雪に十二疋の牛を追うて、都まで行かるゝものぢや。さりながら、主命なれば、是非がない。支度をして参らう。と存ずる。これはいかな事。又したゝかに降つて来たわ。あゝ、寒やの、寒やの。
▲茶屋「これは、この峠の茶屋でござる。今日(けふ)も店を出さう。と存ずる。この程は、毎日毎日けしからぬ大雪でござる。常でさへ、冬は往来(わうらい)も淋しうござるに、ましてこの大雪でござれば、旅人も少なうござるによつて、我等体(てい)の者は、迷惑致す事でござる。まづ、店を飾りませう。当年程、雪の降る事はござらぬ。何とぞ今日(けふ)は、往来の者もあれば良うござるが、心元なうござる。見たところが、一段と良い。
▲シテ「させいほうせい、させいほうせい。やいやい。そこを道でもないに、どちへうせるぞ。させいほうせい。扨も扨も、降つたり降つたり。小やみもなう降る事ぢや。これ程の大雪に、十二疋の牛を追うて、山坂を越え、使ひに遣らせらるゝとは。あゝ。頼うだ人は、情けないお方でござる。させいほうせい。えい、苦々しい。あの子牛は、子牛とも思ふが、そこな親牛めが何をうろうろとして。行きをらぬか、行きをらぬか。さあさあ、押し並んで歩め、歩め。や、これはいかな事。向かうが真つ暗になつて来た。あの峰から吹き下(おろ)さう。と云ふ事であらう。かくの如く、降るやら積もるやらするをも知らいで、高枕して寝て居る衆もあり。また、ひとり行くさへあるに、牛を追うて雪の中を行く者もあり。世は様々の境涯ぢや。や、さればこそ吹雪が。あゝ、寒やの、寒やの。はあ。笠を取られうとした。扨、これからは登り坂ぢや。させいほうせい。はゝあ。坂は苦労なかして、牛どもゝ、ひん並んで行くよ。鬼神に横道(わうだう)なし。と。おゝ、それよそれよ。やいやいやい、そこは崖ぢやわいやい。はて扨、褒むる言葉の下からそれぢや。そりやそりや、滑るまいぞ、滑るまいぞ。これはいかな事。あの斑牛(まだらうし)めが、また後ずさりをし居る。さあさあ、歩め、歩め。いや、峠が見ゆるぞ。茶屋へ行(い)たならば、おのれらも休ませうぞ。身共も燗をほつこりとして、一盃呑まう。や、また吹雪か。顔も向けらるゝ事ではない。あゝ、寒やの、寒やの。あ痛、あ痛、あ痛。これはいかな事。うつむいて行けば、杉の木へ行き当たつた。いや、やうやうと峠ぢや。どれどれ、これで休んで行かう。さあさあ、牛ども。これへ寄つて休め、休め。ほ。云はぬ先から、木陰に蹲(うづくま)つたよ。はて扨、ぬからぬ者どもぢや。なうなう、亭主、亭主。
▲茶屋「いや、太郎冠者殿。ようこそおりやつたれ。
▲シテ「何をよう来るものぢや。
▲茶屋「また、都の伯父御へお行きやるか。
▲シテ「されば、その事ぢや。この大雪に、使ひにお遣りやるわいの。
▲茶屋「御大儀にござる。まづ、熱い茶を一つ飲ましませ。
▲シテ「何ぢや、茶をくれう。
▲茶屋「中々。
▲シテ「そなたは、この街道の茶屋をもしながら、その様な鈍(どん)な事は云はぬものぢや。酒をおくりやれ、酒をおくりやれ。
▲茶屋「いや、酒はおりないよ。
▲シテ「それは、なぜに。
▲茶屋「この大雪ぢやによつて、酒を取りに麓へ下(くだ)る事がならぬよ。
▲シテ「何ぢや、酒はない。
▲茶屋「中々。
▲シテ「南無三宝。あゝ、寒やの、寒やの。こゝへ来たならば、酒を呑まう、呑まう。と、楽しみに思うたに、酒がない。と聞いたれば、ひとしほ寒さがこらへられてこそ。この上は、凍え死にゝ死ぬであらう。あゝ、寒やの、寒やの。
▲茶屋「これは、尤でおりやる。
▲シテ「これに良いものはあれども、頼うだ人の物なれば、手もつけられず。え知れぬ罪を作る事ぢや。
▲茶屋「いや、なう。それは、酒ではおりないか。
▲シテ「いかにも。酒でおりやる。
▲茶屋「それを一つお呑みやる事はならぬか。
▲シテ「はて扨、そなたは、むざとした事を云ふ人ぢや。よそへ進上に持つて行くものを、何、呑まるゝものぢや。
▲茶屋「仰(お)しやるは尤なれども、時の用に立つ事なれば、一つやなどは、苦しうおりやるまいがの。
▲シテ「むゝ。まこと、仰(お)しやれば尤ぢや。こゝで凍え死にゝ死なうよりも、この中(うち)一つ二つ呑うで、その勢ひにお使ひを勤むれば、また忠義の一つぢや。一盃呑まうか。
▲茶屋「それそれ、一つお呑みやれ。
▲シテ「それならば、盃をお貸しやれ。
▲茶屋「いや、盃はござらぬ。この天目では、何とおりやらうぞ。
▲シテ「それそれ、それでようおりやる。
▲茶屋「まづ、燗を致さう。
▲シテ「いやいや。燗をするも、待ち遠ぢや。さあさあ、ついでおくりやれ。
▲茶屋「それならば、つぐぞや。どぶどぶどぶ。
▲シテ「おゝ、恰度(ちやうど)おりやる。
▲茶屋「何とおりやる。
▲シテ「いや、なう。呑みたい、呑みたい。と思ふところへ呑うだれば、胸先(むなさき)が冷(ひい)やりとして、剣(つるぎ)を呑うだ。と云ふは、この様な事でおりやらう。
▲茶屋「それ、お見あれ。燗を致さう。
▲シテ「いやいや、苦しうない。
▲茶屋「それならば、今一つお呑みやれ。
▲シテ「あとの減らぬ様に、軽うおつぎやれ。
▲茶屋「どぶどぶどぶ。
▲シテ「おつと、ある。さらば、たべう。さすが、また酒ぢや。何となくほつこりと温(あたゝ)まる様なわ。
▲茶屋「さうおりやらうとも。さあさあ、それを力に、早う行かしませ。
▲シテ「まづ、お待ちやれ。今一つ呑みたいものぢやが。や。あの斑牛(まだらうし)は、最前から某の顔をじろりじろりと見て、何ぢや。めえ。《笑》今一つ酒を呑めえ。と云ふ事か。《笑》いか様(さま)、これはよう気が付いた。上が三つ四つすいたと云うて、長(なが)の道で揺り零(こぼ)いた。とも云はるゝ事ぢや。さあさあ、今一つおつぎやれ。
▲茶屋「それならば、つぐぞや。どぶどぶどぶ。
▲シテ「おつと、おりやる。扨も扨も、良い気味ぢや。いや、なう。惣じて世間に、酒程の薬はない。と思はしませ。まづ第一、寿命を延ばし、旅の憂さを忘れ、寒さを防ぐ。今、身共が身の上に、思ひ当たつておりやる。もし又、酒は毒ぢや。と云ふ人があらば、この太郎冠者が、目にものを見せう。《笑》
▲茶屋「仰(お)しやる通り、酒程めでたいものはおりないよ。
▲シテ「扨も扨も、凍えが解ける様な。両の手がほつかりと温まつた。とてもの事に、足の先まで温まらう。今一つおつぎやれ。
▲茶屋「どぶどぶどぶ。
▲シテ「おつと、ある。《笑》最前は、雪が赤いやら黒いやら覚えなんだが、俄かに機嫌良うなつたれば、山々の雪が真つ白に見ゆる。《笑》ちと、これをそなたへさゝう。
▲茶屋「忝うおりやるが、呑うでも苦しうおりないか。
▲シテ「身共が振舞ふに、いらぬ辞儀ぢや。早うお呑みやれ。
▲茶屋「それならば、たべう。いや、なう。何ぞ、肴にひとさし舞はしまさぬか。
▲シテ「何ぢや。ひとさし舞へ。
▲茶屋「中々。
▲シテ「舞ふとも、舞ふとも。や。扇がない。
▲茶屋「それは、苦々しい事でおりやる。
▲シテ「いや、良い物がある。これで舞はう。和御料(わごれう)、囃いておくりやれ。
▲茶屋「心得ておりやる。
▲シテ「鶉舞を見まいな、見まいな。
▲茶屋「鶉舞を見まいな、見まいな。
▲シテ「只今の肴に、鶉一羽射んとて、小弓に小矢を取り添へ、あそこやこゝと探いた。
▲茶屋「鶉舞を見まいな、見まいな。
▲シテ「さればこそ、鶉が五万ばかり下りたぞ。多き鳥の事なれば、嘘もちつと混じつた。
▲茶屋「鶉舞を見まいな、見まいな。
▲シテ「興がつた鶉で、一羽も騒がぬは、弓の下手と思ふか。唐土(もろこし)の養由は雲居の雁を射落とす。我が朝の頼政は、鵺(ぬえ)といへる化け物を矢の下に射伏せた。
▲茶屋「鶉舞を見まいな、見まいな。
▲シテ「それ程にはなくとも、射てくれうぞ鶉と、一の矢を番(つが)へて、よつ引きひやうと放せば、一の矢は外れた。
▲茶屋「鶉舞を見まいな、見まいな。
▲シテ「二の矢でしてのけう、二の矢もひよろひよろ。静まれ童(わらんべ)、その様に笑ふな。三の矢で射て取つて、羽(はね)を抜いて取らせうぞ。
▲茶屋「鶉舞を見まいな、見まいな。
▲シテ「三の矢もこそこそ。これ程の鶉に弓も無用な。五羽も三羽も、一度に手取りにしてくれう。手取りにせんとて、笑ひ寄つて這(は)ひ寄つて、笑ひ寄つて這ひ寄つて、まんまと傍へ寄つたれば、ぱつと逃げてしまうた。
▲茶屋「鶉舞を見まいな、見まいな。
▲シテ「あまりの事の可笑しさに、ものとこそは歌うた。
▲茶屋「それは何と歌うた。
▲シテ「鳥は残らず逃げたれば、鶉なくなる深草の里よ。《笑》
▲茶屋「やんや、やんや、やんや。扨も扨も、面白い事でおりやる。いや、なう。和御料の頼うだお人は、殊の外慈悲深い。と申すが、左様でおりやるか。
▲シテ「何、お慈悲が深い。
▲茶屋「中々。
▲シテ「何の、お慈悲深い。昨日も未明に、やい、太郎冠者。おのれは何をうじうじして居る。あの庭の雪をかけ。でおりやる。そこで某が、は。畏つてはござれども、今朝より虫腹が強う痛みまして。やいやいやい。おのれ、その様な横着をぬかいて、主命を背くか。と仰せられても、横腹が、あ痛、あ痛、あ痛。いや、おのれ。偽りをぬかし居るか。と身共を捕らへて、立ち居らう。あ痛、あ痛、あ痛。いか様(やう)に仰せられても。黙り居らう。主(しゆ)に向かうて口ごたへをし居る。おのれ、庭へ出居らぬか。と仰せられても、あ痛、あ痛、あ痛。この体(てい)で雪の中へ出ましたならば、凍え死にゝ死にませうを。次へ参りまして養生を。ならぬわいやい。おのれ、只置くによつての事ぢや。覚えたか、覚えたか、覚えたか。あ痛、あ痛、あ痛。と、したゝかに打擲せられた。そこで某の思ふは、あゝ、せまじきものは奉公ぢや。親者人の生きて居られたならば、この様なさもしい奉公はせまいに。只懐かしいは、冥途にござる親者人ぢや。《泣》と、男泣きに泣いた。と思はしませ。
▲茶屋「これは、さうあらうとも。
▲シテ「それを女房衆の、破れ障子よりちやつと覗いて、《笑》太郎冠者が、また例の愚痴か。あれあれ、泣くわ、泣くわ。《笑》と、鰐口程にくわつと口をあいて、お笑ひやるによつて、あゝ、奥様には聞こえませぬ。この様に打ち叩かるゝを、不憫な。とも仰せられいで、お笑ひなさるゝと申すは、さりとてはさりとては、お恨みに存じまする。《泣笑》それそれ、その恨めしさうな顔は、《笑》悉皆、幽霊ぢや。《笑》と、頤(おとがい)の外るゝばかりお笑ひやる。鬼の女房には鬼神がなる。とやら云ふが、定(ぢやう)ぢや。何とこれが、お慈悲深い事があつてこそ。《笑》
▲茶屋「はて扨、それは、苦々しいお方でおりやる。扨、これを和御料へおませう。
▲シテ「どれどれ、こちへおこさしませ。あゝ、良い気味ぢや。はゝあ。向かうに富士の様に見ゆるは、松の梢さうな。これは、思ひも寄らぬ雪見ぢや。
▲茶屋「その通りでおりやる。
▲シテ「や、何ぢや。あのあめ牛めが、顔を差し出して、もう。《笑》酒を呑まう。と云ふ事か。何の、おのれが呑むもので。そちが名代(みやうだい)に、身共が呑まう。
▲茶屋「まだお呑みやるか。もはや、いらぬものでおりやるがの。どぶどぶ。や、もはやおりないよ。
▲シテ「何ぢや、ない。
▲茶屋「中々。
▲シテ「なければ、是非がない。そなた、その樽はいらぬか。
▲茶屋「茶屋の事ぢやによつて、樽のいらぬ。といふ事はおりない。
▲シテ「それならば、そなたへおまするぞ。
▲茶屋「これは、忝うおりやる。
▲シテ「そなた、薪(たきゞ)はいらぬか。
▲茶屋「薪は朝夕(あさゆふ)なうてかなはぬものなれば、別して入り用におりやる。
▲シテ「あれ、牛に木が六駄つけてある。今日(けふ)の土産に和御料へおまするぞ。
▲茶屋「それは、忝うおりやるが、貰うても大事ないか。
▲シテ「道々邪魔になるによつて、遣る。と云ふに。
▲茶屋「それは、忝うおりやる。
▲シテ「その代はり、某の帰るまで、六疋の牛に飼ひをしておくりやれ。
▲茶屋「それは、心易い事でおりやる。
▲シテ「それならば、身共は行(い)て来る程に、頼むぞ。
▲茶屋「心得ておりやる。さらば、さらば。ようござりました。
▲シテ「身共が立つたれば、牛どもが、皆騒ぐわ。やはり、それにござりませい、ござりませい。《笑》雪が凍(こゞ)り付いて落ちぬわ。
《謡》笠も見苦し、蓑をも脱ぎ捨て。
《詞》雪降り衣(ごろも)で行くぢやまで。《笑》牛六疋と樽を置いて来たれば、殊の外楽になつた。させいほうせい、させいほうせい。やいやいやい。おのれ、さう行(い)ては、元の道ぢや。何をうろたふるぞや。《笑》これは、某が覚え違ひぢや。身共が後(あと)へ戻つたぢやまで。《笑》牛殿、真つ平(ぴら)ご許されませい。《笑》こりやこりや。おのれ、また駄狂ひをせう。と思うて、良い機嫌ぢやな。さあさあ、行かぬか、歩かぬか。おのれ、鞭を持たぬ。と思うて動かぬか。これ。これを戴かするぞ。《笑》なうなう、都人(みやこびと)。八瀬や小原の黒木召せ。御覧候へ、雪を負うた牛ぢや。《笑》や。牛どもが、ひよろりひよろりとするわ。これからは、下(くだ)り坂ぢや。滑るまいぞ、滑るまいぞ。あ痛、あ痛。したゝかに躓いた。牛は滑らいで、身共が滑つた。《笑》や。あの赤牛は、一疋のはずぢやが、二疋にも三疋にも見ゆるわ。《笑》伯父御様のお宿が近付いたぞ。さあさあ、精を出して歩め、歩め。いや、即ちこれぢや。牛ども、それへ寄つて居れ。あゝ。身共は、ちと酔うた様な。物まう、物まう。
▲伯父「いや。表に物まう。とある。案内とは誰(た)そ。物まう。とは。
▲シテ「私でござる。《笑》
▲伯父「えい、太郎冠者。よう来た。まづ、かう通れ。
▲シテ「心得ました。
▲伯父「扨、今日(けふ)は何と思うて来たぞ。
▲シテ「頼うだお人のお使ひに参つてござる。
▲伯父「何と云うておこされたぞ。
▲シテ「いや。御口上はござりませぬ。
▲伯父「文(ふみ)は来ぬか。
▲シテ「いや、お文(ふみ)は。《笑》それそれ、書いたものがものを云ふぢやまで。これにお文がござる。
▲伯父「どれどれ、何々。木六駄に炭六駄持たせ進じ。やいやい、太郎冠者、太郎冠者。やい、太郎冠者。
▲シテ「や。
▲伯父「木六駄に炭六駄、進じまする。と云うて来たが、薪(たきゞ)はどれにあるぞ。
▲シテ「いや、薪(たきゞ)は参りませぬ。
▲伯父「汝も物を書くであらう。これを見よ。木六駄に。
▲シテ「木六駄に。
▲伯父「炭六駄、持たせ進じ候ふ。と書いてあるぞ。
▲シテ「進じ候ふ。《笑》はゝあ、知れました。私はこの間、名を変へました。
▲伯父「何と変へた。
▲シテ「木六駄と変へました。それぢやによつて、木六駄に炭六駄、持たせ進じ候ふ。でござる。《笑》
▲伯父「又こゝに、猶々常の通り、手造りの酒、ひと樽進じ候ふ。と書いてあるが、酒は来ぬか。
▲シテ「何、酒。いや、酒は一水(いつすい)も下されませぬ。
▲伯父「いやいや、その事でない。酒は来ぬか。と云ふに。
▲シテ「はゝあ、酒は来ぬか。とな。
▲伯父「中々。
▲シテ「いや、参りませぬ。
▲伯父「それは何とも合点が行かぬ。頼うだ者のおこされた酒を、おのれが道で呑うだものであらう。
▲シテ「いや、たべは致しませぬ。
▲伯父「それならば、何としたぞ。憎い奴め。おのれ、云はぬか、云はぬか。
▲シテ「あ痛、あ痛、あ痛。まづ、待たせられい。
▲伯父「何と、何と。
▲シテ「その酒は、あの牛が。
▲伯父「牛が。とは。
▲シテ「呑めえ。と申してござる。
▲伯父「おのれ、牛が呑め。と云ふものか。
▲シテ「いや、私が呑まう。と申してござる。《笑》
▲伯父「やい、そこな奴。おのれは憎い奴め。ふゝ、酒を呑うだな。
▲シテ「真つ平(ぴら)許いて下されい、許いて下されい。
▲伯父「どちへ行くぞ。人はないか。捕らへてくれい。やるまいぞ、やるまいぞ。
底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション)
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