空腕(そらうで)
▲主「これは、この辺りの者でござる。召し使ふ者を呼び出いて、申し付ける事がござる。太郎冠者、居るかやい。
▲シテ「はあ。
▲主「あるか。
▲シテ「お前に。
▲主「汝を呼び出すは、別の事でもない。明日(みやうにち)、客来を申し入るゝ程に、汝は淀へ行(い)て、鯉を求めて来い。
▲シテ「やい。どれぞ、余の者に申し付けませう。やいやい、次郎冠者、次郎冠者。
▲主「やい、太郎冠者。
▲シテ「や。
▲主「次郎冠者は、他の用を云ひ付けた程に、汝行け。
▲シテ「はあ。もはや今日(けふ)は、日も暮れに及びまする程に、明日(みやうにち)参りませう。
▲主「明日(みやうにち)の客に明日(あす)行(い)て、何と間に合ふものぢや。
▲シテ「いや、明朝早々参りませう。
▲主「さう云うて、行くまい。といふ事か。
▲シテ「いや、左様ではござりませぬ。
▲主「ていと行くまいか。
▲シテ「いや、参りませう。
▲主「いや、おりやるまいものを。
▲シテ「何が扨、参りませいでは。さりながら、鳥羽縄手は殊の外不用心でござる程に、無刀ではいかゞにござりまするによつて、刃物を貸させられて下されませい。
▲主「これは尤ぢや。それならば、太刀を貸して取らせう。それに待て。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「やいやい。これは某(それがし)の重代なれども、汝ぢやによつて、貸して遣る。早う行(い)て来い。待つて居るぞ。
▲シテ「畏つてござる。扨も扨も、これは迷惑なお使ひを仰せ付けられた。さりながら、主命なれば是非がない。参らずばなるまい。常々、藪がごつそりと致いても、怖ろしう存ずるに、殊にこれは、日は晩ずる。ひとしほ嫌な事でござる。何かと云ふ内に、これは早(はや)、東寺、四つ塚へ参つた。早、日も暮れたわ。これから先が、殊の外不用心な所ぢやに、某一人(いちにん)では気味の悪い事でござる。扨も、暗うなつた。人影も見え分かぬ。かやうの時は、道を足早に参つたが良うござる。これはいかな事。後ろからぞうぞと掴み立つる様になつて来て、ひと足も歩かるゝ事ではない。いや。あれに見ゆるは何ぢや知らぬまで。さればこそ、何者やら大勢見ゆるわ。なう、悲しやの、悲しやの。真つ平(ぴら)、助けて下されい。私は淀へ参る者でござるが、いづれもそれに立つてござつては、何とも迷惑にござる程に、そこをあけて、お通しなされて下されませい。はあ、はあ、はあ。それならば、この太刀を進じませう程に、真つ平命を助けて下されませい。申し、申し。
▲主「最前、太郎冠者を淀へ使ひに遣(つか)はいてござるが、殊の外遅うござる。その上、彼は常々臆病者でござるにより、ひとしほ心元なうござる程に、路次まで参つて見よう。と存ずる。さればこそ、並木を人か。と思うて、降参をして居る。何とせうぞ。いや、致し様がござる。がつきめ、逃がすまいぞ。
▲シテ「なう、悲しやの、悲しやの。扨も扨も、斬つたり、斬つたり。大袈裟に、ほうど斬られた。かやうの事があらう。と存じて、明朝参らう。と申したれば、行かずば手討にせう。と仰せらるゝにより、是非なう参つたれば、このざまになつた。《泣》思ひも寄らぬ死出の旅を致す事ぢや。かやうの事を存じたらば、妻子(つまこ)にも暇乞ひをして参らうものを。存じがけもない死を遂げた事ぢや。《泣》扨、死しては迷ふ。と申すが、この事でがなござらう。冥途の道が知れぬが、こゝはどこぢや知らぬまで。こゝは、鳥羽の恋塚ではないか。扨は、六道の辻にも恋塚があるか知らぬ。いやいや、まさしく鳥羽の恋塚ぢや。はて、合点の行かぬ。扨は、某は斬られはせぬさうな。血の垂(た)つた跡もなう、疵もない。あゝ、死にはせぬわ。なうなう、嬉しやの、嬉しやの。あ、刃(やいば。)の命を拾うた。定めてこの上は、寿命長遠でござらう。急いで罷り帰らう。いや、某は最前、太刀を持つて来たが、このお太刀は何としたぞ。やあら、お太刀がないが。何と致さうぞ。いや、思ひ出いた。頼うだお方は、どこやらが、づゝとお正直な程に、面白可笑しう申しないて置かう。と存ずる。{*1}申し、申し。頼うだお人、ござるか、ござるか。
▲主「いや、太郎冠者が戻つたさうな。太郎冠者、戻つたか、戻つたか。
▲シテ「ござるか、ござるか。
▲主「戻つたか。
▲シテ「只今帰つてござる。
▲主「何と、云ひ付けた鯉を求めて来たか。
▲シテ「されば、その御事でござる。まづ、聞かせられませい。随分急いでござるが、四つ塚まで参つてござれば、早(はや)日が暮れました。
▲主「さうあらうとも。
▲シテ「扨、これより先には怪しい者が居る所ぢや。と存じて、御太刀をくつろげまして、つるつると通りますれば、案の如く、大の男が四、五人立つて居りまして、通すまい。と申すにより、私の声をかけましてござる。やい。汝は某の事をえ知らぬか。頼うだ人の御内(おんうち)に、小太刀使ひの太郎冠者ぢや。手並みの程を見よ。と申して、御太刀をするりと抜きましたれば、御太刀の勢ひに恐れまして、何が蜘蛛の子を散らす様に、ぱらぱらと皆逃げました。
▲主「それは、手柄をしたな。
▲シテ「この手柄を、お目にかけたうござりました。
▲主「その通りぢや。
▲シテ「扨、今度は最前の者どもが、申し合はせましたやら致いて、七、八十人程、茅(かや)の穂を見る様に抜き連れて、遣らぬ。と申して、私ひとりを目がけて参るを、すわ心得た。と申して、大木を小楯に取つて待ち受けまする。真つ向(かう)へ参るを拝み討ち・唐竹割り、後ろへ参るを車斬り・胴斬り。さんざんに戦ひましたれば、いや、申し。大事が出来ましてござる。御重代と申し、結構な御太刀ではござれども、あまり激しう戦ひましたによつて、鎺元二、三寸おいて、ぽっきと折れましてござる。
▲主「何ぢや、折れた。
▲シテ「中々。
▲主「その太刀の折れは何としたぞ。
▲シテ「もはや、私も叶はぬところぢや。と存じまして、太刀の折れをほうど投げ付けて戻りましたが、何とでかしましたではござらぬか。
▲主「それは、でかいた。それについて、汝に見する物がある程に、それに待て。
▲シテ「はあ。
▲主「これこれ。この太刀は、さる方(かた)より求めた。これを見よ。
▲シテ「これは、結構な御太刀でござりまする。
▲主「その太刀に見知りはないか。
▲シテ「はあ。
▲主「はあ。とは。こちへおこせ。憎い奴め。おのれを遣つた後で、某も気遣ひに思うたにより、路次まで行(い)て見たれば、並木に向かうて降参をして、太刀を進じませう程に、命を助けて下されい。と云ふにより、余人に取られては。と思うて、取つて戻つたが、知るまい。と思うて空腕だてをぬかし居る。
▲シテ「いや。それは、あまり結構な名剣でござるにより、折れと折れとが{*2}入り合ひまして、私より先へ戻つたものでござりませう。
▲主「おのれはまだその様な口巧者な事をぬかす。
▲シテ「真つ平(ぴら)許されませい。
▲主「横着者め。只置く事ではないぞ。
▲シテ「許いて下されい、許いて下されい。
▲主「どちへ逃ぐる。人はないか、捕らへてくれい。やるまいぞ、やるまいぞ、やるまいぞ。
校訂者注
1:底本、ここに「▲シテ「」がある(略す)。
2:底本は、「折れと(二字以上の繰り返し記号)とが」。
底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション)
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