若菜(わかな)

▲主「これは、遥か遠国の者でござる。新発意(しぼち)を呼び出いて、談合する事がござる。新発意、居るかやい。
▲シテ「はあ。
▲主「あるか。
▲シテ「お前に。
▲主「汝を呼び出すは、別の事でもない。この間は、いづ方へも行かねば、気が屈したによつて、今日(けふ)はどれへぞ遊山(ゆさん)に出よう。と思ふが、何とあらうぞ。
▲シテ「内々、私の方より申し上げう。と存ずるところに仰せ出だされた。一段と良うござりませう。
▲主「それならば、竹筒(さゝえ)を用意せい。
▲シテ「畏つてござる。竹筒を用意致しましてござる。
▲主「いざ行かう。さあさあ、来い来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「何と思ふぞ。遊山といふものは、かねて期(ご)したよりも、かやうにふと思ひ立つて出るが、ひとしほの慰みではないか。
▲シテ「御意の如く、お連れをお誘ひなされたならば、数多(あまた)ござりませうが、かやうにふとお出なさるゝが、ひとしほのお慰みでござる。
▲主「汝が云ふ通り、心に合はぬ連れを誘うたよりも、そちひとり連れゝば、気遣ひなうて、良い遊山ぢやよ。
▲シテ「左様でござりまする。
▲主「いや、何かと云ふ内に、広い野へ出たよ。
▲シテ「まことに、広い野へ参つてござる。
▲主「何と思ふぞ。山々は霞み、のどかな事ではないか。
▲シテ「御意の如く、古木・大木青々と致いて、潔い事でござりまする。
▲主「扨、向かうへ行(い)て召さうか、但し、こゝ元で一盃呑まうか。
▲シテ「こゝ元も良うござらうが、まづ、向かうの山際でひとつ上がりましたならば、良うござりませう。
▲主「それならば、行かう。さあさあ、来い来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「やいやい。あれは、何やら女子(をなご)どもが大勢来るが、何ぢやな。
▲シテ「まこと、大勢参りまする。
▲主「まづ、こゝ元に待ち合はせ、見ようではないか。
▲シテ「一段と良うござりませう。
▲女「春毎(ごと)に、春毎に、君を祝ひて若菜摘む、我が衣手に降る雪を、払はじ払はでその儘に、受くる袖の雪運び重ね、雪山を千代に降れと作らん、雪山を千代と作らん。
▲オモ女「莱を摘めば、莱を摘めば、沢に根芹(ねぜり)や、峰に虎杖(いたどり)や{*1}、鹿のたちがくし。尾花の霜夜は寒からで、名残顔なる秋の夜の、虫の音(ね)もいと繁き、夢ばし覚まし給ふなよ。
▲主「《笑》やいやい。あれは、きらびやかな事ぢやな。
▲シテ「左様でござりまする。
▲主「いづこ・いかなる人ぢや。問うて来い。
▲シテ「畏つてござる。なうなう。和御料(わごれう)達は、この在所の衆か。いづく・いかなる人ぞ。
▲女皆々「旅人の、旅人の、道妨げに摘むものは、しめ野の原の若菜なれ。よしなや、何を問ひ給ふ。
▲オモ女「妾(わらは)どもは、八瀬の里の小原木売りでござりまする。
▲シテ「やあやあ。八瀬の里の小原木売りぢや。
▲オモ女「中々。
▲シテ「申し、申し。八瀬の里の小原木売りぢや。と申しまする。
▲主「はて扨、これは珍しいものに行き逢うて。折節、竹筒(さゝえ)を持ち合はいた程に、あの女どもをこれへ呼んで、酒の相手にせう。と思ふが、何とあらうぞ。
▲シテ「これは、一段と良うござりませう。
▲主「それならば、あれへ行(い)て、酒の相手になるか。と云うて、問うて来い。
▲シテ「畏つてござる。なうなう。あれにござるは、某(それがし)の頼うだお方でおりやるが、ふと御遊山にお出なされたが、御酒(ごしゆ)の御相手にならしませぬか。
▲オモ女「妾どもが様な、賤(しづ)の女(め)でござるによつて、これはな。
▲ツレ女「中々。
▲女皆々「ご許されませい。
▲シテ「仰(お)しやるは尤なれども、思し召し寄つて仰せ出された程に、平(ひら)にお相手にならしませ。
▲オモ女「何とぞ良い様に、お執り成しをなされて下されませい。
▲シテ「その様な事を仰(お)しやらずとも、平(ひら)に出さしませ。と云へば。
▲女皆々「細い腰に細い帯したものゝ、かいはなさいきらさしますな{*2}。しげない戯れはせぬものぢや。
▲シテ「尤でおりやる。様子によつて、その爪木(つまぎ)を召し上げらるゝ事もあらう程に、平にお相手にならしませ。
▲オモ女「いづれも何と思し召すぞ。爪木さへ召し上げられうならば、お相手になりませうではござらぬか。
▲ツレ女「爪木さへ召し上げられうならば、お相手になりませう。と仰せられい。
▲オモ女「それならば、いづれもお相手になりませう。と仰せられい。
▲シテ「心得た。申し、申し。爪木さへ召し上げられうならば、お相手になりませう。と申しまする。
▲主「それならば、爪木をも取らうず。かう通れ。と云へ。
▲シテ「畏つてござる。なうなう。かう通らしませ。
▲オモ女「心得ましてござる。
▲主「某は、遥か遠国方の者でおりやるが、所用の事があつて在京致いた。いづれも逢ふは{*3}、不思議な縁でおりやる。
▲オモ女「妾どもが様な賤(しづ)の女(め)を、御酒(ごしゆ)のお相手に召させらるゝは、ありがたう存じまする。
▲主「新発意、竹筒(さゝえ)を開いて来い。
▲シテ「畏つてござる。竹筒を開きましてござる。
▲主「まづ、あれへ持つて行け。
▲オモ女{*3}「まづ、殿様お始めなされませい。
▲主「それならば、某から始めう。これへ持つて来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「おつと、ある。この盃を、そなたへおまさう。
▲オモ女「妾が戴きませう。
▲主「あれへ持つて行け。
▲シテ「畏つてござる。
▲オモ女「戴きまする
▲主「恰度(ちやうど)呑ましませ。
▲オモ女「何が扨、一つ下されませう。
▲主「新発意、ちと謡へ。
▲シテ「畏つてござる。
{小謡。}
▲オモ女「このお盃をば、何と致しませう。
▲主「それをば順に、廻さしませ。
▲オモ女「心得ましてござる。こなたへ進じませう。
▲ツレ女「妾が戴きませう。
▲主「恰度お呑みやれ。
▲ツレ女「たべませいでは。
{シテ、小謡。}
▲オモ女「申し、申し。謡声は賑やかな、良いものでござりまする。
▲末の女「このお盃を、お新発意へ上げませう。
▲シテ「身共が戴きませう。
▲オモ女「妾がお酌を致しませう。恰度参りませい。
▲シテ「何が扨、たべませいでは。
{主、小謡。}
▲シテ「扨、この盃は、何と致しませう。
▲主「汝、思ひざしにせい。
▲シテ「それならば、そなたへさゝう。
▲中の女「妾が戴きませう。
{シテ、小謡。}
▲オモ女「妾が戴きませう。申し、何と思し召すぞ。お新発意に小舞を所望致しませうが、何とござらうぞ。
▲ツレ女{*4}「これは、一段と良うござらう。
▲オモ女「申し、申し。お新発意の立ち姿が拝見致したうござりまする。
▲主「珍しい所望ぢや。一つ舞へ。
▲シテ「都人(みやこびと)の所望でござる程に、舞ひませう。
▲主「早う舞へ。
{シテ、小舞。}
▲女皆々「やんや、やんや、やんや。
▲オモ女「面白い事でござる。扨、このお盃を、慮外ながら殿様へ上げさせられて下されませい。
▲シテ「心得ておりやる。
▲主「某の呑まう。これへ持つて来い。
▲シテ「畏つてござる。さあさあ、こなたにも一つ上がりませい。
▲主「珍しい盃ぢや程に、某も恰度呑まう。
{シテ、小謡。}
▲主「新発意、何と思ふぞ。皆の衆へ小舞を所望せうではないか。
▲シテ「これは、一段と良うござりませう。左様に申しませう。なうなう。頼うだお方の受け持たせられた程に、何なりとも舞うて、お目にかけさしませ。
▲オモ女「私どもは、賤(しづ)の女(め)の事でござれば、左様の事は存じませぬ程に、これは、お許されて下されませい。
▲シテ「何なりとも、お肴に舞はしませ。
▲オモ女「何も覚えました事はござりませぬが、それならば、小原木を売る体(てい)を、学(まな)うでお目にかけませう。
▲シテ「一段と良うおりやらう。急いで学(まな)うでお目にかけさしませ。
▲オモ女「心得ましてござる。
▲女皆々「木買はう、木買はう。小原木(をはらぎ)召され候へ。小原・静原・芹生(せりふ)の里、朧(おぼろ)の清水(しみづ)に、影は八瀬の里人。知られぬ梅の匂ふや、この藪里の春風に、松が咲き散る花までも、雪は残りて春寒し。小原木召されよ、小原木召され候へ。
▲主・シテ「やんや、やんや、やんや。
▲主「扨も扨も、しほらしい事ぢやな。
▲シテ「左様でござりまする。
▲主「今の褒美に、爪木(つまぎ)どもを皆取つてやれ。
▲シテ「畏つてござる。なうなう。今の褒美に、爪木を残らず取られらるゝ。こちへおこさしませ。
▲オモ女「これは、ありがたう存じまする。
▲主「今のを肴に、も一つ呑まう。
▲シテ「良うござりませう。恰度(ちやうど)上がりませい。
▲主「扨、この盃を何とせうぞ。
▲シテ「又、あれへ遣はされませい。
▲オモ女「いや、申し、申し。私どもは、殊の外過ごしましてござる程に、もはやお納めなされたらば、良うござりませう。
▲主「それならば、もはや取らう。盃を納めい。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「はて扨、今日(けふ)は存じも寄らぬ慰みを致いておりやる。
▲オモ女「申し、お新発意。余程、お伽を致いてござる程に、お暇を下さるゝ様に、仰せられて下されませい。
▲シテ「心得ておりやる。申し、申し。余程お伽を致いてござる程に、お暇(いとま)を下されい。と申しまする。
▲主「まだ日が高い程に、もそつと話す様に。と云へ。
▲シテ「畏つてござる。まだ日が高い程に、もそつと話す様に。と仰せらるゝ。
▲女皆々「有明の月をば、何と待たうよ。
▲主「やい。今のは何と云ふ事ぢや。
▲シテ「私の推量致しまするに、もはや日も晩じまするによつて、有明の月をば何と待たう。と申す事でござりませう。
▲主「定めてさうであらう。はて扨、優しい事を云ふ。さりながら、もそつとお話しやれ。と云へ。
▲シテ「畏つてござる。なうなう。今少し話す様に。と仰せらるゝ。
▲女皆々「有明の月をば、何と待たうよ。いつまでかくて有明の、いつまでかくて有明の、つれなく人に思はれじ。さらば、暇申さん。
▲シテ「あら、名残惜しや。
▲女皆々「こなたも名残惜しけれども、扨、暇たばり候へ。今のお樽の情けをば、いつの世にか忘れん。
▲シテ・主「なうなう。扨も和御料(わごれう)達に離れがたや、耐へがた。
▲女皆々「行くも。
▲シテ・主「行かれず。
▲女皆々「戻られず。ゆるりしやなりと、波の上の酒盛。
▲シテ「母子草(はゝこぐさ)を肴にて、いざや酒を呑まうよ。
▲女皆々「はう。この幼な心を、猶しも我等忘られで、かい友どち、惜しき友だち。

校訂者注
 1:底本は、「峰(みね)にたどりや」。
 2:「細い腰に細い帯したものゝ、かいはなさいきらさしますな」は、底本のまま。意味不詳。
 3:底本は、「いづれも 逢ふは」。
 4:底本は、「▲女オモ「」。
 5:底本は、「▲シテ女「」。

底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション

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