丼礑(どぶかつちり)

▲シテ「これは、この辺りに住居(すまひ)致す勾当でござる。まづ、菊一を呼び出いて、談合致す事がござる。菊一、居るかやい。
▲菊一「はあ。
▲シテ「あるか。
▲菊一「はあ。これに居りまする。
▲シテ「汝を呼び出すは、別の事でもない。この間は、打ち続いていづ方へも行かねば、気が屈したによつて、今日(けふ)はいづ方へぞ遊山(ゆさん)に出(で)う。と思ふが、何とあらうぞ。
▲菊一「内々、私の方(かた)より申し上げう。と存ずるところに、仰せ出だされた。一段と良うござりませう。
▲シテ「それならば行かう程に、小竹筒(さゝえ)を用意せい。
▲菊一「畏つてござる。小竹筒、用意致しましてござる。
▲シテ「いざ行かう。さあさあ、来い来い。
▲菊一「畏つてござる。
▲シテ「やい、何と思ふぞ。この如くに、汝や某(それがし)が遊山に行くを、脇から人の見させられて、さぞ可笑しう思し召さうが、所が変る。と思へば、ひとしほの慰みではないか。
▲菊一「いや。左様に思し召すお方もござりますまい程に、お心置きなう、御遊山に御出なされたが、良うござりまする。
▲シテ「いや。何かと云ふ内に、殊の外物淋しうなつたが。これは、野外れさうな。
▲菊一「まこと、野外れさうにござる。
▲シテ「やい。広々とした所へ出た。と思へば、さながら心が晴れ晴れとなつた様な。
▲菊一「仰せらるゝ通り、面白うなりましてござる。
▲シテ「やい。汝にいつぞは云はう、云はう。と思うて居た。そなたも、いつがいつまでも、小歌や早物語(はやものがたり)でも済むまい程に、平家をちと稽古したならば、良からう。
▲菊一「これは、私の方(かた)より内々願ひまするところに、仰せ出だされてござる。何とぞ御指南をなされて下されうならば、忝う存じまする。
▲シテ「それならば、幸ひ辺りに人も居ぬさうな。そちが稽古のために、一句語つて聞かさうぞ。
▲菊一「それは、忝うござる。承りませう。
▲シテ「《平家》そもそも一の谷の合戦破れしかば、我も我もと、高名せんと駈け廻る程に、踵(きびす)を切られてにじるもあり、頤(おとがひ)をはつられて抱(かゝ)ふる者もあり。入り乱れたる合戦なれば、踵を取つて頤に付け、頤を取つて踵に付くる程に、生(は)えうず事と、踵に髭が生え、頤に皸(あかぎれ)が二、三百、ぽかりぽかりと切れにけり。
▲菊一「やんや、やんや、やんや。扨も扨も、これは承り事でござりまする。
▲シテ「いざ、行かう。さあさあ、来い来い。
▲菊一「畏つてござる。
▲シテ「世間に平家を語る衆もあれども、上手がないものぢや程に、随分精を出いて稽古する様にせい{*1}。
▲菊一「何が扨、随分精を出しませう程に、御指南を頼み上げまする。
▲シテ「その上、某が検校になつたならば、汝をば勾当に取り立てゝ取らせうぞ。
▲菊一「それは別して、ありがたう存じまする。
▲シテ「いや。殊の外、水音がするが。川さうな。
▲菊一「まこと、川さうにござる。
▲シテ{*2}「これは、渉(わた)らずばなるまいが、何とせうぞ。
▲菊一「されば、何となされたならば、良うござりませうぞ。
▲通行人「これは、この辺りの者でござる。山一つあなたへ、所用あつて参る。まづ、急いで参らう。いや。あれに座頭がふたりして、川を渉(わた)るさうな。何事を致すか、ちと見物致さう。
▲シテ「やいやい。まづ、瀬踏みをするために、礫(つぶて)を打つて見よ。
▲菊一「畏つてござる。いや、えい。どんぶり。
▲シテ「やいやい。そこは、深さうな。
▲菊一「殊の外、深さうにござる。
▲シテ「あちらの方へ、今ひとつ打つて見よ。
▲菊一「畏つてござる。いや、えい。づぶづぶづぶ、かつちり。
▲シテ「これは、浅いさうな。
▲菊一「まこと、浅さうにござる。
▲シテ「いざ、渉らう。さあさあ、来い来い。
▲菊一「申し申し{*3}。まづ、待たせられませい。
▲シテ「何事ぢや。
▲菊一「私の負ひ越しませう。
▲シテ「いやいや、苦しうない。汝も続いて渉れ。
▲菊一「いや。申し、申し。私を連れさせらるゝは、かやうの時のためでござる。冥加のためでござる程に、平(ひら)に負ひ越しませう。
▲シテ「いやいや。そちも目が見えず、自然、怪我があつてはいかゞな。互に手を引き合うて、渉らう。さあさあ、来い来い。
▲菊一「いや。申し、申し。常に御奉公致すは、かやうの時のためでござる。是非ともに、負ひ越しませう。
▲シテ「それ程に思ふならば、負ひ越されう。さりながら、拵へをせう程に、汝もそれへ寄つて拵へい。
▲菊一「畏つてござる。
▲通行人「はて扨、座頭と申すものは、利発なものでござる。礫を打つて瀬踏みを致す。幸ひな所へ参りかゝつた。某の負ひ越されう。と存ずる。
▲菊一「しかと負はれさせられい。さらば、渉りまする。えいえい。深うなければ良いが。えいえい。まんまと負ひ越しましてござる。まづ、お怪我もなうて、大慶に存じまする。
▲通行人「扨も扨も、嬉しい事かな。思ひも寄らぬ仕合せを致いてござる。
▲シテ「菊一、拵へは良いか。菊一、菊一。これはいかな事。菊一は、どちへ行(い)たぞ。菊一、菊一。やい、菊一。
▲菊一「やあ{*4}。
▲シテ「やあ。とは。なぜに負ひ越さぬぞ。
▲菊一「只今、負ひ越しましてござる。
▲シテ「負ひ越した。とは。某は、これに身拵へをして居て、まだ負ひ越されはせぬ。おのれは、ひとり渉りをし居つたさうな。
▲菊一「こなたには、いつそれへござりましたぞ。
▲シテ「いつそれへござりました。とは。はて扨、憎い奴の。早う、これへうせう。
▲菊一「はて、合点の行かぬ事でござる。えいえいえい。さらば、負はれさせられい。
▲シテ「しかと負へ。
▲菊一「さらば、渉りまする。えいえい。これは、深さうにござる。
▲シテ「しかと、負うてくれい。
▲菊一「えいえい。これはいかな事。深いわ、深いわ、深いわ。南無三宝。
▲通行人「扨も扨も、可笑しい事ぢやな。これは、気の毒な事でござる。
▲シテ「扨も扨も、苦々しい事ぢや。たつたひと絞りになつた。これぢやによつて、負はれまい。と云うたわ。
▲菊一「扨も扨も、気の毒な事を致いてござる。絞つて上げませう。私も随分、大事に渉りましたが、躓きましてござる。ご許されて下されませい。
▲シテ「過ちの事ぢやによつて、是非がない。何と、最前の小竹筒(さゝえ)は、何ともないか。
▲菊一「されば、何とござるか。いや。小竹筒は何ともござりませぬ。
▲シテ「いかう寒うなつた。まづ、一盃呑まう程に、これへつげ。
▲菊一「畏つてござる。
▲通行人「これは、幸ひな事ぢや。一つたべう。
▲菊一「さらば、つぎまする。とぶとぶとぶ。
▲シテ「おつと、あるさうな。これを呑うだならば、寒さを忘れうぞ。
▲菊一「左様でござりませう。
▲通行人「扨も扨も、旨い事かな。
▲シテ「菊一、なぜにつがぬぞ。
▲菊一「今の程、つぎましてござる。
▲シテ「ついだ様にはあれども、一水(いつすい)もない。
▲菊一「はて扨、合点の行かぬ。只今つぎましてござるに。それならば、も一つ上がりませい。
▲シテ「さあさあ、早うつげ。
▲菊一「心得ました。とぶとぶとぶ。
▲通行人「も一つ、たべう。又一つある。さらば、たべう。扨も扨も、良い酒でござる。
▲シテ「おつと、あるさうな。汝も呑め。
▲菊一「私も下されませう。とぶとぶとぶ。扨も扨も、良い酒でござりまする。
▲シテ「やい、菊一。なぜにつがぬぞ。
▲菊一「はて扨、今の程、つぎましてござる。
▲シテ「ついだ様にはあれども、ひと雫もない。某には呑ませいで、ひとり呑みをする。と見えた。
▲菊一「いや。こなたには、お勾当とも申されぬ。さもしいひとり呑みを致すものでござるぞ。こなたには、呑み隠しをなさるゝさうな。
▲シテ「おのれは憎い奴の。人に呑ませぬのみならず、呑み隠しをするものか。いらぬ事を云はずとも、も一つ注(つ)げ。
▲菊一「畏つてござる。もはや、ござりませぬ。
▲シテ「何ぢや。ない。
▲菊一「中々。
▲通行人「扨も扨も、面白い事かな。ちと、喧嘩をさせませう。
▲シテ「あ痛、あ痛、あ痛。やい、菊一。酒を呑ませぬのみならず、なぜに某を打擲するぞ。
▲菊一「何と仰せらるゝ。打擲。
▲シテ「中々。
▲菊一「私は、小竹筒を仕舞うて居つて、それへ手もやりは致しませぬ。
▲シテ「手もやらぬ。と。そちより他に、誰(た)がするものぢや。
▲菊一「あ痛、あ痛、あ痛。申し、お勾当。こなたには、色々の事を仰せらるゝのみならず、科(とが)もない者を、なぜに打擲なさるゝ。
▲シテ「某は、それへ手もやりはせぬ。
▲菊一「手もやらぬ。と。こなたより他に、誰(た)があるものでござるぞ。
▲シテ「あ痛、あ痛、あ痛。やい、菊一。なぜに某を色々になぶる。
▲菊一「私は、それへ手もやりは致さぬ。
▲シテ「手もやらぬ。と。そちより他に、誰(た)があるものぢや。
▲菊一「あ痛、あ痛、あ痛。なう、お勾当。科(とが)もない者を、色々になぶらせらるゝ。
▲シテ「何ぢや。なぶる。
▲菊一「中々。
▲シテ「某は、それへ手もやりはせぬ。
▲菊一「手もやらぬ。と。こなたより他に、誰(た)があるものでござる。
▲シテ「あ痛、あ痛、あ痛。
▲菊一「あ痛、あ痛、あ痛。
▲通行人「扨も扨も、面白い事かな。まだ、色々になぶつて遊ばう。これはいかな事。正真(しやうじん)の喧嘩になつてござる。かやうの所に、長居はいらぬものぢや。足元の明(あか)い内、急いで罷り帰らう。と存ずる。
▲シテ「もはや、堪忍がならぬ。逃(の)がす事ではないぞ。
▲菊一「某も、負くる事ではござらぬ。
▲二人「いやいやいや。
▲菊一「覚えたか。なうなう、嬉しやの、嬉しやの。勝つたぞ、勝つたぞ。
▲シテ「やいやい。勾当をこの如くに打ちこかいて、どちへ行くぞ。人はないか、捕らへてくれい。やるまいぞ、やるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、「稽古(けいこ)する程(ほど)にせい」。
 2:底本、ここに「▲シテ「」はない。
 3:底本は、「中々(なか(二字以上の繰り返し記号))、」。
 4:底本は、「や。」。

底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション

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