花盗人(はなぬすびと)

▲シテ「これは、この辺りで人に知られた花好きな者でござる。いつも春にもなれば、吉野・初瀬・醍醐・山科・祇園・清水・紫野・雲林院その外、千本(ちもと)の花どもを見物致すが、こゝに、さるお寺の園に見事な花を持たれたを御存じのお方は、接ぎ穂を欲しい。と云うて、色々に申さるれども、殊の外惜しみて、やらせられぬ。と申す。承れば、やうやう花も盛りの由(よし)申す間、参つてよそながら見よう。と存ずる。まづ、そろりそろりと参らう。まことに、古人の申し置かれたは、尤でござる。春の一時(いちじ)は千金にも換へじ。とは、花故にこそなれ。我等体(てい)の賤しき者までも、心を慰め晴らす事でござる。いや。何かと申す内に、即ちこれぢや。いつも塀越しによう見ゆるが、不思議や見えぬが。どちへぞ植ゑ換へられたものでござらう。やあら、どこ元にあるぞ。えい。あれに梢が少し見ゆるが、あの花さうな。いつも花の時分は、これからよう見えたが、定めて御秘蔵召さるゝ桜ぢやによつて、奥へ植ゑ換へられた。と見えた。これから梢が見えてさへ、格別な花でござるに、花のもとへ参つてござらうならば、さぞ面白い事でござらう。花の元へ行く道は、どこ元ぞ。いや。この垣を破れば入(はい)らるゝが。破つたならば、自然、人が咎めうか{*1}。いやいや。表までは程遠い事なれば、破つたりとも、咎むる者もござるまい。さらば、破りませう。まづ、結(ゆ)ひ目を切らう。ずかずかずかずか。さらば、垣を破りませう。めりめりめり、ぐわさぐわさぐわさ、めりめりめり。まんまと破つてござる。まづ、垣を越えませう。いや、えい。はあ。扨も扨も、遠いから見たとは違うて、格別面白い事でござる。扨も扨も、よう咲いた事かな。まづ、下に居て、ゆるりと眺めませう。扨も扨も、見事な事でござる。まことに、南枝(なんし)花初めて開く。と申すが、南の枝は先に咲いて、少し盛りも過ぎ時分ぢや。西の方の枝は、今が盛りでござる。又、北へ延びた枝は、今少しづゝ開く体(てい)でござる。これは、心面白い事かな。花によそへて謡ひませう。
《謡》あらあら、面白の千々の花の梢やな。桜の木(こ)の間(ま)隙間なく、雪ぞ降り積む。嵐の誘ふ花と連れて行くや、心なるらん。さぞな、名にし負ふ、花の都の安太郎、げに時めける粧(よそほ)ひ、青陽(せいやう)の蔭(かげ)緑にて、風のどかなるお庭の桜盛りにて、繰り返し返し見ても、面白や、面白やな。千々の梢の花の色ぞ移れる。
▲オモ新発意「あら、不思議や。殊の外、花園に謡声が致すが。合点の行かぬ事でござる。これはいかな事。盗人が入(はい)つた。申し申し、お住持様。花園へ盗人が入つてござる。早う出させられませい。
▲住持「やあやあ、何と云ふぞ。花園へ盗人が入つた。
▲新発意「中々。
▲住持「よう知らせた。やいやい、新発意(しぼち)ども。花盗人が入つた程に、棒を持て。出合へ、出合へ。
▲ツレ新発意「申し、申し。盗人が入つてござるか。
▲住持「中々。
▲ツレ「どこ元に居りまするぞ。
▲住持「皆、こちへ来い、こちへ来い。
▲皆々「心得ました。
▲住持「皆、こちへ来い、こちへ来い。
▲皆々「心得ました。
▲住持「やいやいやい、盗人よ。逃(の)がす事ではないぞ。
▲皆々「やる事ではないぞ。
▲住持「あら、不思議や。今までこゝに居たが。どちへ行(い)たぞ。
▲ツレ「されば、どちへ参りましたぞ。
▲住持「やいやい。あの花の蔭に居るが、盗人さうな。
▲ツレ「まこと、あれに居りまする。
▲住持「やいやい。逃がす事ではないぞ。
▲シテ「申し、申し。私は、盗人ではござらぬ。花見に参つてござる。
▲住持「おのれ、断りもなしに入るが、盗人であるまいか。やいやい。縄をかけい、縄をかけい。
▲ツレ「心得てござる。
▲新発意「皆、おりやれ、おりやれ。
▲皆々「心得た。がつきめ、逃がすまいぞ。
▲シテ「申し、申し。私は、花見に参つてござる程に、許いて下されい。
▲住持「花見に入つた。と。逃がす事ではないぞ。覚悟をせい。
▲シテ「何しに、覚悟をするの、せぬの。といふ事がござらうか。盗みでも致いて、縛(いまし)められたらば、面目なうもござらうが、花を見に忍び入つたれば、少しも苦しうござらぬ。烟霞(えんか)跡を埋(うづ)んで花見を惜しむ。佐国身を捨てゝ春を待たず。と。古(いにし)へ、唐土(もろこし)の佐国は、花にのみ眺め入り、峨々たる谷へ落ちて、空(むな)しくなる。ましてや、日の本(もと)の安太郎は、花故に身を捨つる。と思へば、つゆ塵ほども命は惜しまぬぞ。
▲住持「やいやい。今のを聞いたか。盗人とは思へども、こびた事を云ふものぢやな。
▲新発意「仰せらるゝ通り、優しい事を申すものでござる。
▲住持「何と思ふぞ。心優しい者なれば、命を助けて酒の伽にせまいか。
▲新発意「いか様(さま)、これは一段と良うござりませう。
▲住持「なうなう。無勝(むかつ)な人{*2}の様に思うたが、心優しい人ぢや。もはや、縄を解いて許すぞ。
▲シテ「いやいや。花故なれば、苦しうござらぬ。
▲住持「仰(お)しやるは尤なれども、愚僧も花好き、そなたも花を好かるれば、科(とが)とは思はれぬ。それについて、身共は歌の上の句を思ひ出いた程に、この下の句を和御料(わごれう)お付けやれ。句柄(くがら)が出来たならば、命を助けうぞ。
▲シテ「只今も申す通り、命を惜しむ事はなけれども、好きの道でござる程に、ちと案じても見ませう。して、その上の句は、何とでござる。
▲住持「かうもおりやらうか。
▲シテ「何とでござる。
▲住持「この春は花の元にて縄付きぬ。
▲シテ「これは、面白うござる。
▲住持「さあさあ、下の句を付けさしませ。
▲シテ「何とが良うござらうぞ。
▲住持「何とが良からうぞ。
▲シテ「かうもござらうか。
▲住持「何とでおりやる。
▲シテ「烏帽子桜と人は云ふなり。
▲住持「これは、出来ておりやる。やいやい。縄を解いてやれ。
▲新発意「畏つてござる。さあさあ、縄を解いて助けさせらるゝぞ。
▲シテ「これは、ありがたう存じまする。
▲住持「なうなう。愚僧も花を眺め、酒を呑うで慰まう程に、そなたもお呑みやれ。
▲シテ「それは、嬉しう存じまする。
▲住持「まづ、下におりやれ。
▲シテ「畏つてござる。
▲住持「新発意、盃を持つて来い。
▲新発意「畏つてござる。
▲住持「この上は、互になほざりなう、心安う話さうぞ。
▲シテ「それは、忝う存じまする。
▲新発意「お盃を持ちましてござる。
▲住持「まづ、そなたお呑みやれ。
▲シテ「まづ、こなた始めさせられませい。
▲住持「それならば、身共から始めうか。
▲シテ「良うござりませう。
▲住持「これへ持つて来い。
▲新発意「畏つてござる。
▲住持「おつと、ある。この盃を、そなたへおまさう。
▲シテ「戴きませう。
▲住持「あれへ持つて行け。
▲新発意「畏つてござる。さあさあ、呑ましませ。
▲住持「恰度(ちやうど)お呑みやれ。
▲シテ「下されませうとも。おつと、ござる。いや、申し。花の香を受け呑みますれば、ひとしほ酒も旨う覚えまする。
▲住持「尤でおりやる。も一つ呑ましませ。
▲シテ「何が扨、たべませう。
▲住持「新発意、ちと謡へ。
▲新発意「畏つてござる。
{小謡。}
▲シテ「この盃を、こなたへ進じませう。
▲住持「こちへおこさしませ。
▲シテ「あれへ持つてござれ。
▲新発意「心得ておりやる。
▲シテ「こなたにも、恰度(ちやうど)参りませい。
▲住持「たべうとも。この盃を、そちへさゝう。
▲二の新発意「私の戴きませう。
{オモ新発意、小謡。}
▲二の新発意「これを、和御料へおまさう。
▲三の新発意「某の戴かう。又これを、そなたへおまさう。
▲オモ新発意「身共が戴かう。これを、慮外ながら、こなたへ進じませう。
▲住持「どれどれ、こちへおこせ。おつと、ある。
▲シテ「申し。お肴に、ちと舞ひませうか。
▲住持「良うおりやらう。舞はしませ。
▲シテ「上の枝には鳥が住むやら、花が散り候ふ。いざ、さらば鳴子を懸けて、花の鳥を追はう。
▲皆々「やんや、やんや、やんや。
▲住持「これこれ。舞は面白いが、鳥を追はします扇の風がさはると、花が散るぞや。
▲シテ「水を掬べば、月も手に宿る。花を折れば、匂ひ衣(ころも)に移る習ひの候ふものを、袖を引いて咎むるは、あら、つれなやの。
▲皆々「やんや、やんや、やんや。
▲住持「これは、面白い事でおりやる。これを肴に、も一つたべう。
▲シテ「良うござりませう。
▲住持「この盃を、またそなたへおませう。
▲シテ「戴きませう。
▲住持「あれへ持つて行け。
▲新発意「畏つてござる。
▲住持「恰度(ちやうど)呑ましませ。
▲シテ「たべませうとも。
▲住持「身共も、肴に一つ舞はうか。
▲皆々「これは、良うござりませう。
▲住持「桜を見れば春ごとに、花少し遅ければ、この木や侘ぶると、心を尽くし育てしも、これは常なき我がための、家桜(いへざくら)と名付けて、秘蔵なすと思し召せ。扨まづは、白妙に枝を垂れ葉を隠し、重なり合ひて花咲きし、その色今は深くして、こゝはもとより花園の、家桜とは理(ことわり)や。皆寄りて、いざや酒呑まん。よそにあるまじい桜なり。よく寄りて眺め給へや。
▲皆々「やんや、やんや、やんや。
▲シテ「扨も扨も、面白い事でござる。これをお肴に、も一つたべませう。
▲住持{*3}「良うおりやらう。呑ましませ。
▲シテ「扨、このお盃を、こなたへ進じませう。
▲住持「こちへおこさしませ。さあさあ、そち達も呑め。
▲新発意「心得ましてござる。
▲シテ「又、お肴に舞ひませう。
▲住持「良うおりやらう。
▲シテ「今度は地を謡うて下されい。
▲皆々「心得ておりやる。
▲シテ「霞の光、月の影、いづれか今宵の思ひ出ならん。さりながら、あはれひと枝を花の袖に手折りて、月をも共に眺めばや、の望みは残れり。この春の望み残れり。
▲住持「汝は憎い奴の。花を折る。捕らへい、捕らへい。
▲シテ「真つ平(ぴら)許いて下されい、許いて下されい。
▲皆々「あの横着者。只置く事ではないぞ。人はないか、捕らへてくれい。やるまいぞ、やるまいぞ、やるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、「人が咎めうが」。
 2:「無勝(むかつ)な人」は、「向こう見ずな人」の意。
 3:底本は、「▲シテ「」。

底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション

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