栗焼(くりやき)
▲主「これは、この辺りの者でござる。召し使ふ者を呼び出いて、見する物がござる。太郎冠者、居るかやい。
▲シテ「はあ。
▲主「あるか。
▲シテ「御前に。
▲主「汝を呼び出すは、別の事でもない。ちと見する物がある程に、それに待て。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「やいやい、只今さる方より、重(ぢゆう)の内を貰うたが、何であらうぞ。推量して見よ。
▲シテ「されば、何でござらうぞ。蜜柑ではござりませぬか。
▲主「いやいや。
▲シテ「葡萄か、梨の類(るい)でござりませう。
▲主「いや。こりやこりや、見よ。栗ぢやわ。
▲シテ「扨も扨も、見事な栗かな。かやうの大きな栗は、つひに見ました事がござりませぬ。
▲主「それについて、不思議な事がある。かやうな物を下されようならば、三十か五十下されうはずぢやに、四十あるが、合点の行かぬ事ぢや。汝、ちと考へて見よ。
▲シテ「されば、何と致いた事でござらうぞ。いや、申し。私のめでたう判じましてござる。あなたとこなたと、始終仰せ合はされう。との下心でがな、ござりませう。
▲主「これは、よう推量した。さうでがな、あらう。扨、幸ひな事がある。今晩、客来を申し受くるによつて、この栗を出したう思へども、客は七、八十人程あり、栗は只四十ならではないが、これをもてなす分別はあるまいか。
▲シテ「これは又、格別な儀でござりまするが、何と致いたらば、お饗応(もてなし)になりませうぞ。申し、良い事がござりまする。
▲主「何とするぞ。
▲シテ「まず、それを火取(ひど)りまして、大薬研(おほやげん)へ入れて、ぐわらりぐわらりと下(お)ろいて出させられたならば、七、八十人の事は扨置きまして、二百人にも三百人へも出させられませう。
▲主「はて扨、むざとした事を云ふ。それではこの栗の見事なが、賞翫にならぬよ。
▲シテ「扨は、その栗の見事なを御賞翫に、とある事でござるか。
▲主「その通りぢや。
▲シテ「これは又、何と致いたものでござりませうぞ。いや、申し。致し様がござる。まづ、それをとつくりと火取りまして、扨、ぬる湯にて洗ひ上げ、それを銀の鉢かなどに入れて、お座敷へ出させられたならば、参るお方も参らぬお方も、やれやれ見事な栗かな。とあつて、一同にお褒めなされたならば、いづれも様へのお饗応(もてなし)になりませう。
▲主「これは、一段と良からう。それならば、火取りにやらう。
▲シテ「良うござりませう。
▲主「即ち、汝に云ひ付くる。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「云ふまではなけれども、数の揃うたものぢや程に、随分念を入れて、火取つて来い。
▲シテ「何が扨、畏つてござる。
▲主「早う火取つて来い。待つて居るぞ。
▲シテ「はあ。{*1}これは、難しい事を仰せ付けられた。扨、どこ元で火取らうぞ。お次で火取つたならば、いづれもの何かと仰せられては、いかゞな。づゝとお末へ持つて参り、火取らう。と存ずる。いや。これなる囲炉裏に幸ひの火がある。こゝで火取りませう。まづ、炭を継(つ)がう。ぐはらぐはらぐはら。尉(じよう){*2}が立つ。おゝ、熾(おこ)るわ、熾るわ、熾るわ。さらば、焼(く)べませう。おゝ、火取れるわ、火取れるわ、火取れるわ。ぽん。《笑》これはいかな事。したゝかに飛んでござる。栗を焼くには、芽を取つて焼(く)ぶるはずを、はたと失念致いた。さらば、芽を取つて焼(く)べませう。これでは中々、跳ぬる事ではござるまい。おゝ、火取れるわ、火取れるわ、火取れるわ。最前のところは、大方良うござらう。これも良い、これも良い、これも良い。《笑》あゝ、熱(あつ)やの、熱やの。《笑》手を焼いた。はて扨、麁相な事ぢや。扨も扨も、火取つたれば、ひとしほ見事な栗ぢや。狐色と申すは、これでござる。これなどは、別して見事な栗ぢや。もはや、ないさうな。まんまと火取つてござる。急ぎお目に掛けて、御感に預からう。と存ずる。扨も扨も、心地良い事かな。あゝ、これを一つ、試みを致したい事でござるが。さりながら、数の揃うたものぢや程に、念を入れい。と仰せられたによつて、喰うてはいかゞな。只、持つて参らう。さりながら、自然どなたぞ、この栗の風味は何とあるぞ。と仰せられた時、いや、何とござるをも存ぜぬ。と申してはいかゞな。その上、一つばかりは苦しうござるまい。たべて見ませう。扨も扨も、旨い事かな。これは、一つでは堪忍がならぬ。も一つたべう。これは、風味の良い栗ぢや。手も離さるゝ事ではござらぬ。も一つたべう。頤(おとがい)が落ちる様な。むゝ、旨い事ぢや。ほう。これはいかな事。口当たりが良さに、一つ喰ひ二つ喰ひ、皆に致いた。何としたものでござらうぞ。いや、頼うだお方は、どこやらがづゝとお正直な程に、面白可笑しう申し上げて置かう。と存ずる。{*3}申し。頼うだお人、ござるか。ござりまするか。
▲主「いや。太郎冠者が、栗を火取つて参つたさうな。太郎冠者、火取つて来たか、火取つて来たか。
▲シテ「ござるか、ござるか。ござりまするか。
▲主「何と、栗を火取つて来たか。
▲シテ「されば、その御事でござる。仰せ付けられた栗を火取らう。と存じて、お次へ参つてござるが、自然、若君様方の御覧(ごらう)じられて、何かと仰せられてはいかゞぢや。と存じまして、づゝとお末へ参り、まんまと焼き栗に致いて、これへ持つて参れば、後(あと)から、太郎冠者、太郎冠者。と呼びまするによりて、後ろをきつと見てあれば、もうせん頭(あたま)に戴き{*4}、鬢髪(びんぱつ)に黒き髪もなき老人と老女と、夫婦来り給ひて、我はこれ竈(かまど)の神、三十四人の父母なり。汝、栗をくれいよ。栗をくれたらば富貴になすべし。と、事詳しくも宣(のたま)へば、あら尊(たつと)や。と思ひて、夫婦に栗を奉る。いや、申(も)し。竈の神の出でさせられてござる。
▲主「何ぢや。竈の神の出でさせられた。
▲シテ「中々。
▲主「はて扨、それは、めでたい事ぢやな。
▲シテ「中々。めでたい事でござる。また、後(あと)が殊の外賑やかにござるによりて、立ち帰つて見てござれば、三十四人の公達(きんだち)だち{*5}の、お髪(ぐし)を唐子(からこ)に揃へさせられたもござり、或ひは吹上(ふきあげ)などに結ばせられて、やいやい、太郎冠者。父母(とゝかゝ)にはおませて、何とておれらにはくれぬぞ。くれい、くれい。と仰せられて、何が優しい、楓(かえで)の様なお手を出させられまするによつて、何が、進ぜいでは置かれましてこそ。ようこそ仰せられたれ。頼うだ人、息災延命に守らせられい。進上、進上、進上。と申して、三十四人の公達だちに、残らず進じましてござる。
▲主「それは、よう進じました。扨、残つた栗は、何としたぞ。
▲シテ「いや。残つて何が、あるものでござる。
▲主「いや。残るはずぢや。まづ、よう聞け。三十四人の公達だちに三十四。夫婦に二つ。残つて四つあるはずぢや。こちへおこせい。
▲シテ「それは、こなたの算用が、温(ぬる)ござる。まづ、夫婦に二つ。と仰せられませい。
▲主「夫婦に二つ。
▲シテ「三十四人の公達だちに三十七、八なれば、残つて何がござらうぞ。
▲主「いやいや。残つて四つあるはずぢや程に、こちへおこせい。
▲シテ「その中には確か、虫喰ひもござりました。
▲主「多い内ぢや程に、一つやなどは、あるまいものでもない。それならば、残つて三つあらう程に、早うおこせい。
▲シテ「いや、申し。かやうの事に付きまして、栗焼く言葉がござるを、御存じでござるか。
▲主「いや、知らぬよ。
▲シテ「申して聞かせませう。
▲主「云うて聞かせい。
▲シテ「栗焼く言葉には、栗焼く言葉には、逃げ栗・追ひ栗・灰まぎれとて、三つは失(う)せて候はず。お主(しゆ)御前(ごぜん)の御心中、お恥づかしう候ふ。
▲主「何でもない事。あちへ失(う)せう。
▲シテ「はあ。
▲主「まだそれに居るか。
▲シテ「はあ。
校訂者注
1・3:底本、ここに「▲シテ「」がある(略す)。
2:「尉(じよう)」は、「炭が燃えて白く残った灰」。老人の白髪に比喩した語。
4:「もうせんあたまにいたゞき」は、底本のまま。意味不詳。
5:「公達(きんだち)だち」は、底本のまま。
底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション)
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