伊勢物語(いせものがたり)
▲シテ「罷り出たる者は、西国方の者でござる。某(それがし)、未だ伊勢参宮を仕(つかまつ)らぬによつて、この度思ひ立ち、参宮の志で罷り出でた。まづ、そろりそろりと参らう。まことに、遥々(はるばる)の海上なれども、天照大御神の御利生を受くるか、順風なれば、浪も静かにして船中快く乗り、又陸(くが)になれども、天気よく打ち続き足も軽くして、祝ふ事でござる。いや、こゝ元は何と申すぞ。やあやあ。何ぢや、近江の国。湖ぢや。これは、国元で承り及んだよりも広々として、眺めひとしほある湖水ぢや。扨は、この橋は隠れもない、かの瀬田の長橋でござらう。扨も扨も、良い景かな。古歌にも、真木の板も苔生ふばかりなりにけり、幾代経ぬらん瀬田の長橋。と詠まれたるも、この所での事でござらう。扨々、海上とは違うて、陸道(くがぢ)を通れば心面白い事かな。扨、こゝ元は何と申す所ぢや。伊勢の国、安濃郡(あのごほり)ぢや。扨は、早(はや)伊勢の国へ着いた。やれやれ、嬉しい事かな。遥々日向の国を発つて伊勢路に来るまで、恙(つゝが)なう足手息災で、これひとへに大神宮の御利生と存じ、ありがたい事でござる。いや、殊の外草臥(くたび)れたれば、幸ひこれに御堂(みだう)がある。この御堂の縁に、ちと休んで参らう。
▲アド出家「これは、この辺りに住居(すまひ)致す、斎夢坊と申す者でござる。今朝(こんてう)さる方(かた)へ斎(とき)に参り、只今帰る。まづ、そろりそろりと参らう。いつもとは申しながら、取り分き当年は殊の外、世間ともに雨続き良うて、田がよく植わるゝ。と申して、いづ方の在所にも、これのみ祝ふ事でござる。いや、この御堂(みだう)の縁に、快う昼寝をして居る者があるよ。これは、伊勢参宮の者と見えたよ。一炊の眠りに千年(せんねん)を延ぶる。と申すが、この事であらう。これは、羨ましい事かな。愚僧もこれに、ちと休らうで参らうよ。
▲二のアド「これは、この在所に住居(すまひ)致す百姓でござる。今朝(こんてう)は志の事ありて、在所の衆中へ茶を煎じて供養致し、何か今まで隙入(ひまい)り多くして、只今やうやう早苗を分けに罷り出でた。まづ、参らう。雨続きが良うござる程に、早苗を分けて、今日明日の内に田を植ゑさせう。と存ずる。いや。この御堂(みだう)に、斎夢坊の余念もなう昼寝しておぢやるよ。これは、誰ぢや。伊勢参宮道者(だうじや)ぢやよ。これは、旅の疲れにて、前後弁(わきま)へず寝入りたるは尤ぢやが、斎夢坊は、今朝(こんてう)某の方(かた)へ斎に来て、左程に草臥るゝ事もあるまいに。これは又、出家に似合はぬ事ぢやよ。まことにこの御坊は、いづ方へ斎非時(ときひじ)に参りても、先々にてよく眠るによつて、斎の夢と書いて斎夢坊と名付けた。と申すが、まことぢやよ。これは、あまりな事ぢやに、起こしませう。こりやこりやこりや。やれ、起きよ。
▲二人「はつはつ。
▲シテ「いや、何右衛門殿か。はて、快う夢を見、寝て居るに、急な起こし様で、肝を潰したよ。
▲二のアド「和御料(わごれう)は、誰ぢや。某は近付きではないが。何とて某が名を知りたるぞ。
▲シテ「今朝(けさ)程、そなたに斎に参つたわ。
▲二のアド「某は、斎にそなたは呼ばぬよ。
▲出家「こゝは、何と申す所でござるぞ。
▲二のアド「御坊は寝忘れたか。そなたの在所でおぢやるわ。
▲出家「某は日向の者ぢやに、某が在所。とは。そちは、何者ぢや。
▲二のアド「何者。と云ふ事があらうか。そなたは狼狽(うろた)へたの。
▲出家「やあら、狼狽(うろた)へた。とは憎い奴の。所を尋ぬるに、所の者ならば教へはせいで、男に向かつて狼狽へた。とは推参な。参宮道者なれども、堪忍せぬぞ。
▲シテ「まさしく今朝(こんてう)、斎にまで呼うで、愚僧を近付けて、存ぜぬ。と。そなたは何事を云ふぞ。斎夢坊は、愚僧ぢや。
▲二のアド「これは一円、合点が行かぬわ。まさしう斎夢坊は、そなたではおりないか。
▲シテ「斎夢坊はこれ、愚僧ぢやわ。
▲出家「某は、日向より伊勢参宮する者ぢやよ。
▲二のアド「いよいよこれは、合点が行かぬ。まづ、心を静めてよくお聞きやれ。そなた、何程日向より参宮する。と仰(お)しやつても、まさしく衣(ころも)を着し、坊主ではないか。
▲シテ「某を坊主。とは。やあやあ、これはこれは。これは、どうした事ぢや。
▲二のアド「そなた、何程斎夢坊ぢや。と仰(お)しやつても、そなたは俗人ぢやわ。
▲出家「何と、愚僧を俗人ぢや。とは。
▲二のアド「でも、坊主ではないわ。
▲シテ「これはこれは。これは又、何とした事ぢやぞ。
▲二のアド「いか様(さま)、これは合点が行かぬが、何とした事ぞ。まこと、思ひ出した。最前某が、両人を慌たゞしう急に起こしたによつて、これは魂が入り替つたものであらう。
▲出家「某は、疑ひもない日向の者で、心に違うた事もなし、そなたをつひに見た事もないが、姿は衣(ころも)を着、坊主ぢや。これは、合点の行かぬ事ぢや。
▲シテ「いか様、何右衛門殿の仰(お)しやる通り、今朝(こんてう)そなたの所へ斎に参つたは、紛ひもない事なり。斎夢坊は愚僧ぢやが、又そなたの仰(お)しやれば、髪を結ひ俗体ぢやが、これは、不思議な事ぢやよ。
▲二のアド「とかくに、これは今一度、こゝに両人寝させて、某が起こし様がある程に、今一度両人ともに、寝さしませ。
▲シテ「その儀ならば、今一度寝よう程に、出家は出家、俗は俗と、体(たい)も心も一同する様にしておくりやれ。
▲二のアド「心得た。まづ、早く寝さしませ。
▲シテ「心得た。
▲二のアド「これは、不思議な事かな。まことに昔よりも、人の寝入りたるを急に起こさぬものぢや。と申すが、かやうの事でござらう。これは、前代未聞の物語になる事でござる。いや、やうやう寝入りませうに、まづ、斎夢坊から起こしませう。これ、なうなうなうなう。
▲出家「むうむう。良う寝た。よいや、何右衛門殿か。まづ今朝(こんてう)は、忝うござる。いかうお斎の上で御酒(ごしゆ)にたべ酔うて、これにちと休みましたよ。
▲二のアド「尤でおぢやる。こちらも起こさう。これこれ、なうなうなう。
▲シテ「あゝゝ。扨々、良う寝たよ。これは、殊の外日が長(た)けたわ。これは、どなたでござるぞ。ようこそ起こして下されました。某は、西国方より遥々参宮を致す者でござるが、殊の外草臥れまして、これにまどろみましたよ。
▲二のアド「それそれ。いづれも、それでこそ良けれ。最前の通りでは、某の迷惑致すよ。
▲シテ「最前の通り。とは、それは又、何事でばしござるぞ。
▲二のアド「扨は、様子を知らぬか。
▲シテ「中々。何事も存ぜぬよ。
▲二のアド「又、斎夢坊は、お知りやらぬか。
▲出家「夢にも存ぜぬよ。
▲二のアド「それならば、話して聞かせう。最前、両人がよくこの所に余念もなう寝て居さしましたを、某が何心なく、慌たゞしく急に起こしたれば、魂が入り替りたるものであらうわ。斎夢坊は、参宮の志。と仰(お)しやる。又、日向の道者は、某に今朝(こんてう)の斎の礼を仰(お)しやる。何とも、心と体(たい)とが替りたるによつて、某も起こして迷惑致し、よく思案をして、両人を又寝させて、只今そろそろと起こしたれば、まことの俗は俗、出家は出家と、分かりておぢやるよ。
▲シテ「これは、夢にも存ぜぬ。只今の様子を承れば、これは、不思議な事でござる。これは、後々{*1}までの物語になる事でござるよ。扨、日も長(た)けてござる程に、もはやお暇申さう。さらば、暇申さん。
▲二人「あら、名残惜しや。
▲シテ「こなたも名残惜しけれど、あの日を向かうては、遥かの伊勢に参りける。
▲二人「げにもさあり、やよがりもさうよの、さうよの。
▲シテ「下向道の土産には、下向道の土産には、伊勢菅笠(すげがさ)や千度祓(せんどばらひ)、鯨物差・貝杓子・青海苔・布海苔(ふのり)・簫(せう)の笛。買ひ集め、取り集め、日向の国に帰りけり、日向の国に帰りけり。
校訂者注
1:底本は、「是(これ)は々後(のち(二字以上の繰り返し記号))」。
底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション)
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