鞍馬参(くらまゝゐり) 大蔵流本

▲シテ主「これはこの辺りに住居致す者でござる。今日は初寅でござるによつて、鞍馬へ参らうと存ずる。まづ太郎冠者を呼び出いて申し付けう。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。今日は初寅ぢやによつて鞍馬へ参らうと思ふが、何とあらうぞ。
▲アト冠者「一段と良うござりませう。
▲シ「それならば何ぞ道具を持てと云へ。
▲ア「畏つてござる。やいやい。頼うだ人の鞍馬へ参らせらるゝによつて、何ぞ道具を持てと仰せらるゝ。ぢやあ。申し申し。
▲シ「何事ぢや。
▲ア「お道具とは何の事ぢやと申しまする。
▲シ「これはいかな事。某が家に居て道具をえ知らぬか。弓なりと鎗なりと或いは鉄砲なりと持てと云へ。
▲ア「心得ました。やいやい。頼うだ人の御内に居てお道具をえ知らぬか。弓なりと鎗なりと或いは鉄炮なりと持てと仰せらるゝ。ぢやあ。申し申し。
▲シ「何事ぢや。
▲ア「弓は絃が切れてござる。鎗は過日どれへやら遣らせらるゝ。鉄炮は人のかたげて歩くならでは見ぬと申しまする。
▲シ「某が前では苦しうない{*1}が、各の前でその様な事を云ふなと云へ。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「所詮参りに長道具はいらぬもの。汝一人供に連れう。
▲ア「それが良うござらう。
▲シ「追つ付けて行かう。さあさあ来い来い。
▲ア「参りまする参りまする。かやうの神参りに長道具はいらぬものぢやが、太刀などを持ちましたは、なりの良いものでござる。
▲シ「某も追つ付け作つて持たせうぞ。
▲ア「それが良うござらう。
▲シ「いや、参る程にもはや御前ぢや。
▲ア「誠に御前でござる。
▲シ「汝もこれへ寄つて拝め。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「やいやい。拝まぬか。
▲ア「拝まずと良うござる。
▲シ「拝まずと良いと云うて、主より先へ出て拝むといふ事があるものか。
▲ア「神仏の前では主と下人の隔てはないと申す。
▲シ「いかに神仏の前ぢやと云うて、主と下人の隔てがなうて叶はうか。今夜は通夜をする。汝はそれへ寄つて寝ずの番をせい。
▲ア「寝ずの番を致しまするか。
▲シ「夜が明けたならば早う起こせ。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「ゑい。
▲ア「はあ。これはいかな事。内で使ふが足らいで、外でまで寝ずの番をせいと云はるゝ。見れば余念なう寝て居らるゝ。ちと起こさうと存ずる。申し申し。
▲シ「何事ぢや。
▲ア「宿坊へは寄らせられぬか。
▲シ「いやいや。思ふ仔細があるによつて、宿坊へは寄るまい。云はれぬ事々を云はずとも、寝ずの番をせい。
▲ア「心得ました。これはいかな事。宿坊へも寄るまいと仰せらるゝ。いつも宿坊へ寄らせらるればお茶の御酒のとあつて、某までも御馳走になる。某ばかりなりと参らうと存ずる。申し申し。
▲シ「何事ぢや。
▲ア「宿坊へは私ばかりなりと参りませうか。
▲シ「こゝな奴は。おのれを遣れば某も行く。いつも宿坊へ寄ればお茶の御酒のとあつて御馳走になる迷惑さに、寄るまいと云ふ事ぢや。云はれぬ事を云はずとも、寝ずの番をせい。
▲ア「はあ{*2}。憎さも憎し。今一度起こさう。申し申し申し。
▲シ「あゝ喧しい。何事ぢや。
▲ア「もう喧しう申しますまい。
▲シ「むゝ。汝がさう云ふも推量した。伏せりたさの儘であらう。許す。行て休め。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「夜が明けたならば早う起こせ。
▲ア「心得ました。
▲シ「ゑい。
▲ア「はあ。なうなう。嬉しや嬉しや。これを聞かうまでぢや。さらば休まう。はあはあ。あらありがたや。多門天より御福を下された。見れば夜も明けた。さらば頼うだ人を起こさう。申し申し。
▲シ「何事ぢや。
▲ア「夜が明けました。
▲シ「誠に夜が明けた。この様な時こそ起こすものなれ。扨、夜前宿坊へ寄らなんだによつて、すぐに下向せう。
▲ア「それが良うござらう。
▲シ「さあさあ来い来い。
▲ア「参りまする参りまする。
▲シ「扨いつとは云ひながら、夜前も大籠りであつたなあ。
▲ア「誠に大籠りでござりました。
▲シ「あの大籠りの内に夜半ばかりの頃、汝が声でわつぱと云うたが、あれは何事であつたぞ。
▲ア「あの大籠りの内には私に似た声もござらうが、私ではござらぬ。
▲シ「こゝな奴は。汝を使ふ某が、余の者の声と汝が声とを聞き紛ふものか。確かに聞いた。包まず云へ。
▲ア「扨は真実聞かせられたか。
▲シ「中々。聞いた。ありやうに云へ。
▲ア「それならば何を隠しませうぞ。夜前多門天より御福を下されてござる。
▲シ「それはめでたい事ぢや。その様子は。
▲ア「夜前夜半ばかりの頃、御殿の内が震動致いてござれば、八十ばかりの老僧の香の衣に香の袈裟、皆水晶の数珠をつまぐり鳩の杖にすがり、汝年月鞍馬へ参れども、つひに福を与へぬ。今こそ福を与ふるとあつて、福ありの実を下されてござる。
▲シ「それはめでたい事ぢや。まづそれに待て。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「これはいかな事。某へ下されう御福を、太郎冠者に下されてござる。面白可笑しう申して、福をこの方へ取らうと存ずる。やいやい太郎冠者。某も御福を賜つたわ。
▲ア「それは諸共にめでたい事でござる。
▲シ「仔細は汝が云ふに少しも違はぬ。某へ下されうずれども、折節太郎冠者を連れたによつて太郎冠者に渡す。路次で受け取れと仰せられた。その御福をこの方へおこせ。
▲ア「これは迷惑でござる。
▲シ「何の迷惑。
▲ア「こなたの御福はこなたの御福、私の福は私の福と、別々に致しませう。
▲シ「でも多門天の仰せられた事を翻す事はならぬ。足元の明るい内渡いてな。
▲ア「扨は真実受け取らせらるゝか。
▲シ「おんでもない事。
▲ア「ちと待たせられい。
▲シ「心得た。
▲ア「これはいかな事。あの体で云はるゝによつて、渡さずばなるまい。とても渡すからは、散々になぶつて渡さうと存ずる。申し申し。
▲シ「何事ぢや。
▲ア「又多門天の仰せられた事を聞かせられたか。
▲シ「いゝや。何とも聞かぬ。
▲ア「福を渡さば、福渡しといふ事をして渡せ。さなくば渡しそと仰せられてござる。
▲シ「扨その福渡しといふは難しい事か。
▲ア「別に難しい事でもござらぬ。私の、鞍馬の大悲多門天の御福を主殿に参らせたりや参らせたと申さば、こなたは、たばつたりやたばつたと仰せらるゝ分の事でござる。
▲シ「その分の事か。
▲ア「中々。
▲シ「大方覚えた。受け取らう程に早う渡せ。
▲ア「畏つてござる。鞍馬の大悲多門天の御福を主殿に参らせたりや参らせた。
▲シ「扨これはいつ頃云ふ事ぢや。
▲ア「置いてあさつて頃仰せられい。
▲シ「すれば遅いといふ事か。
▲ア「左様でござる。
▲シ「今度は言葉の下から受け取らう。早う渡せ。
▲ア「畏つてござる。鞍馬の大悲多門天の御福を主殿に参らせたりや参らせた。
▲シ「たばつたたばつたたばつたたばつた。
▲ア「はあ。喧しうござる。その様に仰せられては御福が渡りませぬ。今度は左右をして静かに{*3}受け取らせられい。
▲シ「心得た。早う渡せ。
▲ア「鞍馬の大悲多門天の御福を主殿に参らせたりや参らせた。
▲シ「たばつたりやたばつた。
▲ア「それはあまりねばうござる。今度は小拍子にかゝつて受け取らせられい。
▲シ「早う渡せ。
▲ア「大悲多門天の御福を主殿に参らせたりや参らせた。
▲シ「たばつたりやたばつた。
▲ア「参らせた。
▲シ「たばつた。
▲ア「参らせた。
▲シ「たばつた。
▲ア「はゝあと仰せられい。
▲シ「はゝあ。
▲ア「申し。めでたい事がござる。
▲シ「それがいかやうな事ぢや。
▲ア「御福はこなたにとうとござりました。
▲シ「それこそめでたけれ。行て休め。
▲ア「はあ。
▲シ「ゑい。
▲ア「はあ。

校訂者注
 1:底本は、「若しうない」。
 2:底本は、「ア」。
 3:底本は、「左右をしてるに」。岩波文庫本(『能狂言』1943刊)に従い改めた。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の二 一 福渡」(国立国会図書館D.C.

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