釣狐(つりぎつね) 大蔵流本
▲狐「《次第》別れの後に啼く狐、別れの後に啼く狐、吼噦の涙なるらん。《地に取らす》
これはこの所に年久しく住む狐でござる。こゝに誰と申して大いたづら者のあるが、この間狐を釣る程に釣る程に、某の類を悉く釣り絶やいてござるによつて、聊爾に餌をかけに出る事がならいで迷惑致す。何とがな致さうやれと存ずるところに、彼が伯父坊主に伯蔵主と申してござるが、これが申す事は、たとへあまさかさまな事を申してもあの者が承引致すと申すによつて、伯蔵主に化けて参り意見を申さうと存じ、形の如くよう化けたかと存ずる。やうやう日も暮れる。時分も良うござるによつてまづそろりそろりと参らうと存ずる。誠に物には取り得がござるわ。あの者が犬などを飼うて置いたらば、かやうに参る事はなるまいに、犬を飼はぬがこれが一つの取り得でござる。これはいかな事。今遠いで犬が啼いたれば、近くて啼くかと存じてびつくりと致いた。これと申すも心に誤りがあるによつて、遠いで啼く犬の声にさへ怖づる程にの。いや。参る程にこれぢや。まづ案内を乞はう。物申、案内申。
▲アト「いや。表に物申とある。案内とは誰そ。いゑ、伯蔵主様{*1}でござるか。
▲キツネ「おう。愚僧でおりやる。
▲ア「これは早日も暮れましたに、何と思し召しての御出でござるぞ。
▲キ「只今参るも別なる事でもおりない。ちとそなたに意見をしたい事があつて遥々と来てすわ。
▲ア「それは忝うござる。まづかう通らせられい。
▲キ「いやいや。それへは通るまい。これで申さう。
▲ア「それならばこれで承りませう。扨御意見と仰せらるゝはいかやうの事でござるぞ。
▲キ「別の事でもおりない。聞けばそなたは狐を釣るとの。
▲ア「いや。左様の事は致しませぬ。
▲キ「な隠さしましそ。寺へ来る程の人が、そなたの甥の誰こそは狐を釣れ。あれはつゝと執心深い恐ろしいものぢやによつて、余の者にさへ意見を仰しやらうそなたがなぜに意見を仰しやらぬぞと、来る程の人が仰しやるによつて、よもや偽りではおりやるまい。
▲ア「扨はそれ程にまでお耳へ入りましてござるか。それならば何を隠しませうぞ。ふと人に頼まれまして一二匹釣りましてござるが、それより段々面白うなつて、いかさま狐の十四五匹も釣りませうか。
▲キ「それそれそれお見やれ。人といふものは無い事は云はぬものでおりやる。仏の戒には殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒戒とて、殺生を一の頭に戒めて置かれた。これを愚僧が作り出いて云ふでもない。こゝに狐の執心の深い恐ろしい物語がある。語つて聞かさう程にようお聞きやれ。
▲ア「承りませう。
▲キ「すべて狐は、神にてまします。
▲ア「ほう。
▲キ「天竺にてはやしほの宮、唐土にてはきさらぎの宮、我が朝にては稲荷五社の明神、これ正しき神なり。まつた人皇七十四代鳥羽の院の上童に玉藻の前と云ひしも狐なり。君に御悩を掛けし故、安倍泰成占ひて、壇に五色の幣を立て、薬師の法を行ひければ、叶はじとや思ひけん、下野の国那須野が原へ落ちて行く。極内通のものなれば、大凡にしては叶はじとて、三浦の介・上総の介両人に仰せ付けらるゝ。両人仰せ承り、家の面目これに過ぎじと家の子若党引き連れて那須野が原に下着して、犬は狐の相なれば犬にて稽古あるべしとて、百日犬をば射たりける。それより犬追物といふ事始まりたり。されば百日に満つる日、大きなる狐矢先に中つて死すれば、君の御悩も治らせ給ふ。なほもその執心大石となつて、人間の事は申すに及ばず畜類鳥類までもその石の勢に当たつて死す。されば殺生をする石なればとて、殺生石とは付けられたり。総じて狐といふものは、仇をなせば仇をなす。恩を見すれば恩を報ずる。あたかも身に影の添ふが如く執心の深い恐ろしいものぢやによつて、この以後はふつゝと釣らしますな。
▲ア「扨々かやうの恐ろしい御物語を初めて承つてござる。この上はふつゝりと狐を釣る事ではござらぬ。
▲キ「それならばとてもの事に、その狐を釣る道具をも捨てゝくれさしめ。
▲ア「それはこなたのお帰りなされた後で捨てませう。
▲キ「いやいや。愚僧が戻つた後でその道具を見たならば、又釣りたい心が出れば悪いによつて、とてもの事に愚僧が目の前で捨てゝくれさしめ。
▲ア「それならば畏つてござる。これでござる。
▲キ「くんくん。なう生臭や生臭や。早う捨てゝくれさしめ。
▲ア「心得ました。《この間にくんくんと云ふ》申し。罠を捨てましてござる。
▲キ「むゝ。何ぢや、罠を捨てさしました。
▲ア「中々。
▲キ「やれやれ。愚僧が遥々と来て意見を申したに、承引なくば腹も立たうに、承引あつて罠まで捨てゝくれさしまつて、愚僧も満足してすわ。
▲ア「何が扨こなたの御意見{*2}でござるものを、承引致さぬと申す事がござらうか。扨、最前から余程間もござるによつて、ちと通らせられい。
▲ キ「いや。最前からそれへ通らなんだも、この間狐を釣つた事なれば内もむさからう程に、清うなつてやがて参らう。
▲ア「それならば、清うなつてやがて御出なされませい。
▲キ「ちと寺へも渡らしめ。
▲ア「参りませう。
▲キ「愚僧が事なれば、別に馳走はおりない。昆布に山椒、良い茶を申さう{*3}。
▲ア「そのお茶が何よりでござる。
▲キ「構へて茶ばかりでおりやるぞや。
▲ア「心得ました。
▲キ「さらばさらば。
▲ア「ようござつた。
▲キ「おう。なうなう嬉しや嬉しや。まんまと意見を申して罠までを捨てさせてござる。この様な心良い{*4}時は、小歌節で元の古塚へ戻らうと存ずる。
我が古塚を忍び忍びに立ち出て、往なうやれ戻らうやれ。我が古塚へしやならしやならと。
これはいかな事。誠にきやつが心が直つて罠までを捨てたかと存じたれば、某が帰る道の真ん中にまんまと張り済まいて置いた。総じて人間が我等如きのものを見ては、野狐の心ぢやなどゝ云うて笑ふと聞いたが。はあ。きやつは畜生には劣つた、執心の深い怖ろしい奴でござる。扨某も折節罠の辺りは通れども、いかやうの事をして若狐どもを釣る事やら、怖ろしうてつひに見た事がござらぬ。良いついでゞござるによつて、そと見ようと存ずる。さりながら、これはちとこは物ぢや。くんくんくん。なうなう。旨い匂ひかな。若狐どものかゝるこそは道理なれ。上々の若鼠を油揚げにして置いた程にの。いやいや。この様な所に長居は無用。只道を替へて元の古塚へ戻らうと存ずる。が、よう思へば、きやつは某がためには累類の命を取つた敵ぢや。見え逢うたこそは幸ひなれ。敵討ちを致さうと存ずる。いや。おのれよう聞け。おのれがその真つ黒な小さいなりをして、よう某が累類の命を取つたな。おのれ、それが良いかこれが良いか。只今敵討ちをするぞ。ゑい。おのれめおのれめおのれめおのれめ。もはや堪忍ならぬ。飛び掛かつて喰はう。いやいや。この重い物を着て居て喰うたならば、その儘罠に掛かるでござらう。とてもの事にこの重い物を脱いで来て、たつた一口に致さうと存ずる。やい。おのれよう聞け。今この重い物を脱いで来てたつた一口にする程に、そこを一寸でも退いたらば卑怯者であらうぞ。ゑい。くわいくわいくわい。《中入り》《アト名乗座に立つて》
▲ア「最前伯父の伯蔵主の参られて、某が狐を釣る事を色々意見を申され、とてもの事に狐を釣る道具をも捨てゝくれいと申されてござるが、何とやら不思議な事もござつたによつて罠を捨てたと申して、則ち捨て罠と申すものに致いて置いてござるが、今罠の辺りで狐の啼き声が致いてござる。心元なうはござるによつて参つて見ようと存ずる。まづそろりそろりと参らう。あの伯蔵主はつひにあの様な事を申された事がござらぬ。その上伯蔵主の寺からは余程隔たつてござつて、夜中などに参られた事もござらぬ。何とも合点の参らぬ事でござる。南無三宝。さればこそ某が申さぬ事か。毒餌を散々に致いた。これは疑ひもない、古狐が伯蔵主に化けて参つて某を誑いたと見えた。扨々憎い奴でござる。何としたものであらうぞ。おうそれそれ。かやうに一度餌に付いては重ねて参るものぢやによつて、今度は本罠に掛けて置いて伯蔵主狐を釣らうと存ずる。扨々憎い奴でござる。誠かうござらうと存じて、某も中々油断は致さぬ。試しに捨て罠にして置いたをこの様に散々に致いた。思へば思へば腹の立つ事でござる。今に見居れ。この罠に掛けてその儘打ち殺いてくれう。はあ。大方罠も良うござる。扨これはどの辺りへ掛けて置かうぞ。あの山よりこの細道を通る事もあり。又あの谷合からこの畦道を参る事もござるが。これはどの辺りが良からうぞ。とかくこの道が夥しう狐の通る所ぢや。さらばこゝ元に掛けて置いてかの伯蔵主狐を釣らうと存ずる。これこれ。一段と良うござる。扨この辺りに忍うで居て様子を見ようと存ずる。《と云うて、打ち杖を持ち笛の上に着け、中入り後シテ幕際にて啼く時、その方を見て頭を下げ忍び入る。それより狐一の松へ出る時も、随分頭を下げ目を付けて居る。舞台へ入りかなたこなたと狐歩く内も、いかにも忍びて目を付けて居る。狐罠に掛かると打ち杖で舞台を叩きて頭を上げる。狐罠に掛かるとしやぎりを吹き、ホツハイヒウロロと云ふ時、外して入る》
そりや掛かつたわ。おのれ憎い奴の。ようもようも伯蔵主に化けて来て某を誑し居つたな。おのれそれが良いかこれが良いか。只今打ち殺いてくれう。おのれ拝うだというて逃がさうか。ようもようも騙した。只今ひと打ちに打ち殺すぞや。これはいかな事。罠を外いた。扨々残念な事かな。やいやい誰ぞ居らぬか。それへ古狐が逃げて行く。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞやるまいぞ。
校訂者注
1:底本、ここに「様」はない。岩波文庫本(『能狂言』1945刊)に従い補った。
2:底本、ここに「御」はない。岩波文庫本(『能狂言』1945刊)に従い補った。
3:底本は、「昆布に山椒能良い茶を申さう」。
4:底本は、「心面い(原文に心面いとあれども、蓋し心宜いの誤に疑ひ無からん。)」。
底本:『狂言全集 上巻』「巻の二 二 こんくわい」(国立国会図書館D.C.)
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