伯母酒(をばがさけ) 大蔵流本

▲シテ甥「これは、この辺りに住居致す者でござる。某山一つあなたに伯母を一人持つてござるが、毎年酒を造つて商売致さるれども、殊の外吝い人でござつて、いつ参つても酒を一つ呑めと云はれた事がござらぬ。今日はちと思案を致いた事がござる程に、あれへ参りねだつてたべうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。いや。誠に世に吝い人もあるものでござれども、この方の伯母の様な吝い人はござるまい。今日こそ是非とも振舞はるゝであらう。いや。参る程にこれぢや。申し申し伯母者人。ござりまするか。
▲アト伯母「誰ぢや。
▲シ「私でござる。
▲ア「ゑい。誰か。そなたは久しう見えなんだが、何と変る事もおりないか。
▲シ「私もかれこれ致いて御無沙汰申しましてござるが、こなたも変らせらるゝ事もござらいで、めでたうござる。
▲ア「お見やる通り、妾も変る事もおりないよ。
▲シ「扨当年もまた酒を造らせられてござるか。
▲ア「中々。相変らず造つておりやるが、殊の外良う出来て、この様な満足な事はおりない。
▲シ「やれやれ。それは一段の事でござる。それにつき、今日参るも別なる事でもござらぬ。私の在所は薄う広い所でござるが、近頃御酒が殊の外はやりまするによつて、もし良く出来ましたならば、ひけんして{*1}売つて進じませうか。
▲ア「やれやれ。それは嬉しい事ぢや。なる事ならば、ひけんして売つてくれさしめ。
▲シ「中々。売つて進じませうが、良い酒か悪しい酒か、私がきいて見ずばなりますまい程に、一つきかせて下されい。
▲ア「近頃易い事ぢやが、そなたのきいて見るには及ばぬ。只良い酒ぢやと云うて売つてくれさしめ。
▲シ「こなたの何程良いと仰せられても、私がきいて見ねば知れませぬ。その上甘いを好いて参る衆もござり、又辛いを好く衆もござるところで、たべたうはござらねども平に一つきかせて下されい。
▲ア「その甘いを好く衆へは甘いで進じようず。辛いを好いて参る衆へは辛いを進じよう。その上今日は未だ売り初めをせぬによつて、和御料にきかする事はならぬ。
▲シ「扨々こなたは義理の堅い事を仰せらるゝ。則ち私に振舞はせらるゝが売り初めと申すものでござる。
▲ア「いや。妾はお足を取らねば売り初めとは思はぬ。
▲シ「はあ。すればこれ程に申しても、きかせらるゝ事はなりませぬか。
▲ア「中々。ならぬ。
▲シ「それならばたべますまい。私はもうかう参りまする。
▲ア「もはやおりやるか。
▲シ「さらばさらば。
▲ア「良うおりやつた。
▲シ「はあ。これはいかな事。扨々吝い人でござる。それ程に申したに振舞はれぬ。何と致さう。いや、思ひ出いた。致し様がござる。申し、ござるか。ござりまするか。
▲ア「和御料はまだ行かぬか。
▲シ「かう参りまするが、こなたへ申さう申さうと存じて、はつたと忘れた事がござるによつて、それ故立ち戻りましてござる。
▲ア「それは又いかやうな事ぢやぞ。
▲シ「さればその事でござる。この間私の在所へは七つ過ぐるといかめな鬼が出まするによつて、七つ過ぐると皆背戸門をさいて用心致しまする。承れば山一つこなたへも参つたとやら申しまする。こなたは一人御出なさるゝ事でござるによつて、七つ過ぎたならば用心をなされたならば良うござらう。
▲ア「やれやれ。それは怖ろしい事ぢや。誠に妾は一人居る事ぢやによつて、七つ過ぎたならば店を仕舞うて用心をするであらうぞ。
▲シ「この事を申さう申さうと存じて参つて、はつたと忘れましたによつて、それ故立ち戻りましてござる。それならばかう参りまする。
▲ア「もはやおりやるか。
▲シ「さらばさらば。
▲ア「良うおりやつた。
▲シ「はあ。なうなう嬉しや嬉しや。まんまと誑し済まいた。かやうに致すも別なる事でもござらぬ。つゝと臆病な人でござるによつて、こゝに風流の面がござる程に、これをかけて嚇いて、酒をたべうと存ずる。
▲ア「扨も扨も怖ろしい事でござる。最前甥の誰が参つて申すは、七つ下がるといかめな鬼が出ると申すによつて、もはや背戸門をさいて用心を致さうと存ずる。さらさらさら。はつたり。
▲シ「物申。案内申。
▲ア「最前店を仕舞うてござる程に、用があらば明日ござれ。
▲シ「これは近所の者でござるが、客があつて急に酒がいりまする程に、こゝをあけて下されい。
▲ア「何ぢや。近所の人ぢや。
▲シ「中々。
▲ア「いゑ。それならばあけておまさう。さらさらさら。
▲シ「いで喰らはう喰らはう。《と云うて、一遍追うて一の松へ追ひ詰める》
▲ア「あゝ。許させられい許させられい。《と云うて、逃げて廻り一の松へかゞみ居る》
▲シ「やいやいやいそこな奴。
▲ア「はあ。
▲シ「汝は憎い奴の。七つ下がつて殊に女の身としてこの家に一人居るは、定めて武辺立てゞあらう。頭からひと口にいで喰らはう。あゝ。
▲ア「あゝ。武辺立てゞはござらぬ。真つ平命を助けて下されい。
▲シ「おのれ真実命が助かりたいか。
▲ア「中々。命が助かりたうござる。
▲シ「命が助かりたくば、この鬼の云ふ事を聞くか。
▲ア「何なりとも承りませう。
▲シ「おのれは第一吝い奴ぢや。
▲ア「いや。吝うはござらぬ。
▲シ「身共がよう知つて居る。おのれ山一つあなたに甥を一人持つて居るではないか。
▲ア「こなたはよう御存じでござる。
▲シ「その甥が遥々と見舞ひに来ても、沢山にある酒を一つ振舞ふ事がないとな。
▲ア「いや。参る度ごとに振舞ひまする。
▲シ「身共がよう知つて居る。向後見舞ひに来たならば、夏ならば冷し済まし、又冬ならば燗をし済まいて、あれが厭と云ふ程呑まさうか。呑ますまいか。
▲ア「呑ませませう呑ませませう。
▲シ「汝呑まさぬに於いては、頭からひと口にいで喰らはう。あゝ。
▲ア「あゝ。呑ませませう呑ませませう。
▲シ「何ぢや。呑ませう。
▲ア「中々。
▲シ「それならば命を助けてやる。扨この鬼も酒が一つなるわやい。
▲ア「はあ。
▲シ「今酒蔵へ行て呑む程に、某が行方を見るな。
▲ア「見る事ではござらぬ。
▲シ「見たならば、頭からひと口にいで喰らはう。あゝ。
▲ア「見る事ではござらぬ。
▲シ「見るな。
▲ア「見は致さぬ。
▲シ「見るな。
▲ア「見は致さぬ。
▲シ「それや見居つたわ。頭からひと口にいで喰らはう。
▲ア「あゝ。見は致しませぬ。
▲シ「見るなと云ふに。
▲ア「見は致さぬ。
▲シ「見るな。見るな。《と云うて正面の方へ出て》
これが酒蔵ぢや。さらば戸をあけう。見居るまい。《なぞ云うて》くわらりくわらりくわらくわらくわら。扨も夥しい壺数ぢや。これ程ある酒をつひに振舞うた事がござらぬ。扨どれに致さうぞ。これに蓋の取りかけたのがある。これに致さう。《と云うて蓋を取つて》むゝ。扨も扨も旨い匂ひがする。まづ汲む物を取つて参らう。《と云うて太鼓座へ取りに行き、腰桶の蓋を取つて又こゝにて》
見居るまいぞ。見たならばいで喰らはう。あゝ。《と云うて嚇す。伯母は始終かゞみて居る。扨蓋を持つて行き》
まづ一つ汲んでたべう。《と云うて酒を一つ呑まうとして、面へ閊ふる故》これはいかな事。はつたと忘れた。《と云うて面を片手にて外して呑む。呑んでから又面を着て》はあ。今朝からたべたいたべたいと存ずるところへ、つゝかけて呑うだによつて、只冷やりとばかりで風味を覚えぬ。今一つ呑うで風味を覚えう。《汲んで》
見居るまいぞ。《と云うて嚇し、初めの如くして呑む》
はあ。扨も扨も伯母者人の自慢を召さるゝは道理ぢや。殊の外良い酒ぢや。今一つたべうか。これでは窮屈な。何とぞ今少しゆるりとしてたべたいものぢやが。おうそれそれ。良い事を思ひ付いた。《と云うて面を右の方、横へ廻して着る》
おのれ見居るまいぞ。見たならば頭からひと口にいで喰らはう。あゝ。《と云うて頭を振り、足踏みして嚇す》
おうこれこれ。一段と良い。さらば又汲んでたべう。扨も扨も、この様な旨い酒はつひに呑うだ事がござらぬ。今一つたべうか。まだこれでも頭が重い。とてもの事に頭を軽うして呑みたいものぢやが。おうそれそれ。致し様がある。《と云うて左を下にして横になり、右の足を立て膝を折り、膝頭へ面を着せて》
やい。この方を見居るまいぞ。見たならばいで喰らはう。あゝ。《と云ひて足踏みして嚇す》
これこれ。これで一段と楽になつた。さらば今一つたべう。あゝ。扨も扨も呑めば呑む程旨い酒ぢや。今一つたべう。おのれ見居るまいぞ。見たならば、頭からひと口にいで喰らはう。あゝあゝ。これは良い慰みぢや。さらばたべう。あゝ。ちと酔うたさうな。とてもの事にちと休んでたべう{*2}。《蓋を枕にして寝て嚇す》
見居るまいぞ。見たならば、頭からひと口にいで喰らはう。あゝ。見るな。見居るまいぞ。《段々と酔うて寝る》
▲ア「なうなう。怖ろしや怖ろしや。最前甥が参つて知らせてござるが、真実でござる。あまの命を拾うた。扨殊の外静かになつたが。もはや出て行たか知らぬ。こは物ながら参つて見ようと存ずる。《と云うてそろりそろりとさし足して舞台へ入り、面を見付けて》
あゝ。真つ平命を助けて下されい。酒は惜しみませぬ程に、いか程も参つて早う出て行て下されい。申し申し。なぜにものを仰せられぬぞ。ものを仰せられいでは迷惑にござる。申し申し申し。《と云ひながら、そろそろと顔を上げて見て、後には立つて、甥を見付けて》
なう。腹立ちや腹立ちや。鬼ぢや鬼ぢやと思うたれば、あれは甥の誰ぢや。おのれ何としてくれうぞ。やいやいやい。《と云うて起こす。シテ起こされて、うつゝにて》
▲シ「いで喰らはう。《と云うて足にて嚇す》
▲ア「またそのつれな事をするか。これは何とした事ぢや。《と云うて面を取る。シテ目を覚まし、枕にしたる蓋を面と思ひ、顔に当てゝ》
▲シ「いで喰らはう。《と云うて嚇す》
▲ア「何のいで喰らはう。よう妾を誑し居つたな。
▲シ「あゝ。許させられい許させられい。《と云うて、ひよろひよろとして逃げ入る》
▲ア「あの横着者。捕らへて下されい。やるまいぞやるまいぞ。《と云うて追ひ入る》

校訂者注
 1:「ひけんして」は、底本のまま。意味不詳。
 2:底本は、「ちと休んでたでう」。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の二 四 伯母酒」(国立国会図書館デジタルコレクション

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