悪坊(あくばう) 大蔵流本
▲アト出家「これは西近江に住居致す出家でござる。今日は所用あつて東近江へ参る。まづ急いで参らうと存ずる。誠に今日は空が曇つてござるによつて、傘を持つてござる。何とぞ途中で雨に遇はぬ様に致したい事でござる。《と云うて一遍廻る内に出る》
▲シテ「ざゞんざ。浜松の音はざゞんざ。
はあゝ。酔うた酔うた。いや。これへ出家が参る。なうなう御坊。
はあゝ。酔うた酔うた。いや。これへ出家が参る。なうなう御坊。
▲ア「はあ。
▲シ「御坊はどれへおりやるぞ。
▲ア「西近江から東近江へ参る者でござる。
▲シ「何ぢや。西近江が東近江へ行かうた。
▲ア「いや。左様ではござらぬ。西近江から東近江へ参る者でござる。
▲シ「むゝ。何ぢや。西近江から東近江へ行く。
▲ア「中々。
▲シ「お供致さう。
▲ア「いや。見ますれば御仁体でござる。連れには似合ひますまい。御先へ参りませう。
▲シ「あゝこれこれ。連れには似合うたもあり、又似合はぬ連れもあるものぢや。是非ともお供申さう。
▲ア「その儀でござらば御意次第でござる。
▲シ「それならば先へおりやれおりやれ。
▲ア「まづこなたから御出なされませい。
▲シ「あゝ勿体ない。尊い御出家を何と後にさるゝものぢや。平に先へおりやれおりやれ。
▲ア「それならばお先へ参りませう。
▲シ「さあさあござれござれ。
▲ア「参る参る。
▲シ「はあゝ。扨御坊はどれからどれへやら行くと仰しやつたの。
▲ア「西近江から東近江へ参りまする。
▲シ「おうそれそれ。西近江から東近江へ行くと仰しやつた。なう御坊。
▲ア「はあ。
▲シ「この長刀をかうかいこうだところは、早からうか遅からうか。
▲ア「出家の事でござるによつて、早うござらうも遅うござらうも存じませぬ。
▲シ「さう云ふは遅いと云ふ事か。
▲ア「はあ。《と云うて傘で受くる》
▲シ「その傘で受けたところは、この長刀が切れまいと思ふか。おそらくその傘の十本や廿本は切り折つてお目に掛けう。
▲ア「あゝ。切れませう切れませう。
▲シ「何ぢや。切れう。
▲ア「中々。
▲シ「それならば堪忍をしてやらう。《立つてみても立たれぬ故》いや。なう御坊。
▲ア「はあ。
▲シ「身共はちと酔うたさうな。慮外ながら手を取つてくれさしめ。
▲ア「畏つてござる。さらば立たせられい。
▲シ「やつとな。いや。なうなう。怖い事はない。さあさあ。手を取つておくりやれ。
▲ア「畏つてござる。さあさあござれござれ。
▲シ「参る参る。扨御坊は、どれへやら行くと云うたの。
▲ア「西近江から東近江へ参りまする。
▲シ「おうそれそれ。西近江から東近江。いや。来る程に某が定宿ぢや。一飯を申し付けよう。かう通らしめ。
▲ア「いや。私はもはやお暇を申しませう。
▲シ「はて。一飯を申し付けうと云ふに。
▲ア「それならば通りませう。
▲シ「つゝと通らしめ。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「それにゆるりとおりやれ。
▲ア「心得ました。
▲シ「やいやい亭主亭主。
▲亭主「はあ。いゑ。悪坊様。今日も良いご機嫌でござる。
▲シ「いつおのれが酒を盛つた事があるぞ。
▲亭「はあ。
▲シ「御出家を一人同道した程に、一飯の云ひ付けい。
▲亭「畏つてござる。
▲シ「早う拵へい。
▲亭「心得ました。
▲シ「ゑい。
▲亭「はあ。
▲シ「いや。なうなう御坊。
▲ア「何事でござる。
▲シ「御坊はこの長刀が怖さうな。
▲ア「殊の外怖ろしうござる。
▲シ「あの柱へ寄せ掛けて置かう。
▲ア「それが良うござらう。
▲シ「いや。なうなう御坊御坊。
▲ア「はあ。
▲シ「身共はちと酔うたと見えて、あの柱が十本にも廿本にも見ゆる。これでは中々寄せ掛ける事はなるまい。只下に置かう。
▲ア「それが良うござらう。
▲シ「扨この刀も怖さうな。
▲ア「中々。怖うござる。
▲シ「これも下に置かう。
▲ア「それが良うござる。
▲シ「扨身共は殊の外草臥れた程に、これへ寄り、腰を打つてくれさしめ。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「やつとな。
▲ア「この辺りでござるか。
▲シ「おう。その辺でおりやる。
▲ア「これで良うござるか。
▲シ「おう。良うおりやる。
▲ア「これで良うござるか。
▲シ「良うおりやるとも。《いくつも云ふ。段々とシテ寝入る》
▲ア「これで良うござるか。《と云うて強く打つ》
▲シ「がつきめ。やるまいぞ。《と云うて起き返り、刀を取つて反り打つ》
▲ア「旅疲れに疲れましてちと眠りまして、それ故強う打つたものでござる。真つ平許させられい。
▲シ「何ぢや。旅疲れで眠つて強う打つたと云ふか。
▲ア「左様でござる。
▲シ「それならば堪忍をせう。扨今度はこちらを打つてくれさしめ。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「とてもの事にこの小袖を上へ掛けてくれさしめ。
▲ア「心得ましてござる。
▲シ「必ず眠るまいぞ。
▲ア「今度こそ眠る事ではござらぬ。この辺りでござるか。
▲シ「おう。その辺りが良うおりやる。
▲ア「これで良うござるか。
▲シ「それで良うおりやる。《又いくつも云ふ。初めの内は一度一度にシテ挨拶する。段々と寝る。出家篤と見澄まして、強く打つてみても起きぬ故、脇へのきて》
▲ア「なうなう怖ろしや。あまの命を拾うた。申し。御亭主。ござりまするか。
▲亭「何事でござる。
▲ア「あれは何と申す人でござる。
▲亭「こなたはあの人を御存じござらぬか。
▲ア「いゝや。何とも存じませぬ。
▲亭「あれは六角の童坊に悪坊と申して、大の酔狂人でござつて、あの人に逢うて疵を蒙らぬ者はござらぬが、こなたは疵は蒙らせられぬか。
▲ア「いやいや。仕合せと疵は蒙りませぬ。扨私はかう参りまする。
▲亭「一飯を申し付けられて、もはや出来ました。参つてござれ。
▲ア「いや。一飯も二飯もいりませぬ。私を往なせて下されい。
▲亭「それならばともかくもでござる。
▲ア「後を良い様にくろめて下されい。
▲亭「心得ました。
▲ア「頼みまする。
▲亭「はあ。
▲ア「なう怖ろしや。急いで参らうか。余り憎い事でござる。何と致さう。いや。致し様がござる。《傘と長刀と取り替へ、助老と刀を取り替へ、衣と小袖を取り替へ、刀を差し壺折をして長刀を持つて》
やい。最前身共をなぶつたが良いか。これが良いか。今起きて見居れ。この長刀をのせてくれうぞ。ゑい。なう怖ろしや。急いで罷り帰らう。
やい。最前身共をなぶつたが良いか。これが良いか。今起きて見居れ。この長刀をのせてくれうぞ。ゑい。なう怖ろしや。急いで罷り帰らう。
▲シ「はあ。よう寝た事かな。誰ぞ湯をくれい茶をくれい。これはいかな事。家ぢや家ぢやと思うたれば、これは定宿ぢや。定めて又たべ酔うて、これへ来て寝たものであらう。はあ。殊の外寒うなつたが。小袖は何とした知らぬ。はあ。これは何ぢや。これは衣ぢや。何として衣がこゝにある事ぢや知らぬ。又身共が刀があるはずぢやが。はゝあ。これは何ぢや。おうそれそれ。これは禅僧の座禅をする時かうする、助老といふ物ぢや。この助老が何としてこれにある事か。合点の行かぬ事ぢや。又長刀があるはずぢや。はあ。これに傘がある。身共が宿を立ち出る時は、小袖を着刀を差し長刀を持つて出たが、その様な物は一色もなうて、衣やら助老や傘があるわ。何とも合点の行かぬ事ぢや。はゝあそれそれ。最前夢心の様に出家を一人同道したと思うたが、日頃身共が大酒を好み悪逆を致すによつて、仏道に引き入れんため、定めて釈迦か達磨の変化させられて、この姿になされたものであらう。今日よりしてはぷつゝりと思ひ切つたぞ。
思ひ寄らずの遁世や、思ひ寄らずの遁世や。小袖に替へしこの衣、刀に替へしこの助老、長刀に替へたる傘をかたげて、頭陀に出ようよ頭陀に出ようよ。
行脚の僧に鉢を申さう。はつちはつち。
底本:『狂言全集 上巻』「巻の二 六 悪坊」(国立国会図書館D.C.)
コメント