右近左近(おこさこ) 大蔵流本

▲右近「これはこの辺りに住居致す右近と申すお百姓でござる。誠に当年は豊年とは申しながら、某が田は畦を限つてよう出来て、この様な満足な事はござらぬ。それについて、ちと苦々しい事が出来てござるが、某が分別にはあたはぬによつて、女共を喚び出し相談を致さうと存ずる。いや。なうなう。これのは内に居さしますか。
▲女房「妾を用ありさうに呼ばせらるゝは、いかやうの事でござるぞ。
▲右「ちと用の事がある程に、まづかう通らしめ。
▲女「心得ました。扨御用と仰せらるれば心元なうござるが、それはいかやうの事でござるぞ。
▲右「別の事でもおりない。まづ当年は豊年とは云ひながら、某が田は畦を限つてよう出来て、この様な満足な事はおりないぞ。
▲女「誠に豊年とは申しながら{*1}、こなたの田は畦を限つてよう出来て、妾も悦びまする。
▲右「これと云ふも、そなたの精を出いてくれた故ぢやと思へば、ひとしほ悦ぶ事でおりやる。
▲女「左様に思し召して下さるれば、妾も骨を折つた甲斐あつて嬉しう存じまする。
▲右「扨それにつき、ちと気の毒な事が出来ておりやるわ。
▲女「それは又いかやうな事でござるぞ。
▲右「さればその事ぢや。この間左近めが牛を放いておこいて、某が田を大目程撫で喰ひにさせたによつて、その儘左近が所へ行て、なぜにこれの牛を放いておこいて田を喰はせたと云うたれば、はて畜生のした事ぢやによつて、堪忍をしたが良いと云ふ。成程畜生のした事ぢやによつて堪忍をせうが、それならば牛をおこすか、年貢をはかるかと云うたれば、それもならぬと云ふ。某も余り腹が立つたによつて、この事を地頭殿へ公事に上げうと云うたれば、出居にとうと寝て居て、公事に上げたくば上げうまでよと、ねそねそと云うたが、何と腹の立つ事ではないか。
▲女「扨々それは憎い事でござる。こなたと妾と骨を折つて作り済まいた田を牛に喰はするといふは、近頃腹の立つ事ではござれども、左近殿の云はるゝ通り、畜生のした事でござるによつて、これは堪忍をなされたならば良うござらう。
▲右「これはいかな事。和御料までその様な事を仰しやる。いかに畜生のした事ぢやと云うて、これを堪忍をすれば、目の前で身共が損の行く事{*2}ぢや。その上去年の未進さへ済まさずに置いて、何と堪忍がなるものでおりやるぞ。
▲女「お腹立ちは近頃御尤ではござれども、こゝをよう聞かせられい。あの左近殿は村での口きゝでござり、その上地頭殿をば手一杯にせられまする。又こなたは口不調法にはあり、その上地頭殿へと云うては、年頭の礼ならではござらぬによつて、この事を公事に上げさせられたりと、こなたの負けになりませう程に、これは堪忍をなされたならば良うござらう。
▲右「おう。そなたの仰しやる通り、左近は口きゝにはあり、地頭殿は手一杯にする。又身共は口不調法にはあり、地頭殿へとては年頭ならで行た事はない。扨相談と云ふはこゝの事ぢや。今も云ふ通り、身共は口不調法ぢやによつて、和御料名代に出て、この事を良い様に公事に上げてくれさしめ。
▲女「なう物狂や物狂や。男ありながら、何と妾が出らるゝものでござる。これはぷつゝりと思ひ止まらせられい。
▲右「すればこれ程に云うても、そなたが出る事はならぬか。
▲女「何と{*3}女が出らるゝものでござるぞ。
▲右「良い良い。置き居れ。頼まぬ。上は御清粋ぢや。理を以て申し上ぐるに、負くるといふ事があるものか。おそらくは勝つて見せう。
▲女「あゝ申し申し。すればどうあつてもこの事を公事に上げさせられねばなりませぬか。
▲右「この事を公事に上げいで何とするものぢや。
▲女「それならば、妾が云ふ事を聞かせられい。総じて公事と申すものは、云ひ様によつて理を以て非に落つるものでござる。その上最前も申す通り、こなたは口不調法なお方でござるによつて、地頭殿へ出て公事に上げうと思し召す事を、宿で稽古なされい。妾が地頭殿になつて公事を承つて、悪しい処があらばこゝが悪しいかしこが悪いと申して、直いて遣はしませうが、何とござらう。
▲右「むゝ。何と云ふぞ。某は口不調法なによつて、地頭殿へ出て云ふ事を宿で稽古して見よ。そなたが聞いて直いてくれうと仰しやるか。
▲女「中々。その通りでござる。
▲右「これは一段と良からう。何とぞ聞いて直いてくれさしめ。
▲女「さりながら、こなたも家{*4}ぢやと思し召して、又例の我が儘が出ませう程に、地頭殿ぢやと思し召していかにも謹んで稽古なされい。
▲右「何が扨謹んで稽古するであらう。又そなたもそれでは地頭殿らしうない程に、地頭殿らしう取り繕うて出さしめ。
▲女「妾も取り繕ひませうず。早う出させられい。
▲右「追つ付け出よう。《太鼓座へ入る》
▲女「かやうに致すも別なる事でもござらぬ。妾はちと訳があつて、左近殿の贔屓をせねばなりませぬ。《と云うて笛の上へ引つ込み、烏帽子を着刀を差し棒を持つて、御白洲と云ふ時分に出て腰掛けて居る》
▲右「扨も扨もこちの女共を、地下の衆も他郷の衆も褒めさせらるゝは尤ぢや。某が口不調法ぢやによつて、地頭殿へ出て公事に上ぐる事を宿で稽古して見よ、直いてくれうと申す。はあ。扨地頭殿へはこれを真つ直に行て、ひち通れば則ち御門ぢや。御門には門番衆が居らるゝによつて、挨拶を云うて通らずばなるまい。はあ。これは当所に住居致す右近と申すお百姓でござるが、ちと公事がござつて御白洲へ通りまする。通させられて下されい。通れ。はあ。いづれも近頃御大儀に存じまする。《などゝ云うて》
まづ御門は通つた。扨これからは御玄関ぢや。御玄関には侍衆が出て居らるゝ所で、これはちと慇懃に云うて通らずばなるまい。はあ。物申し上げまする。これは当所に住居致す右近と申すお百姓でござるが、ちと公事の様な事がござつて御白洲へ通りまする。何とぞお通しなされて下されい。通れ。はゝ。はあ通りまする。これはいづれも様、近頃ご苦労に存じまする。御免ありませう。通りまする。《などゝ云うて》
はあ。まんまと御玄関をば通つたわ。扨これからは御白洲ぢや。これには地頭殿が自身出て居らるゝ所で。あゝ。これは気味が悪うなつた。誠に女共が無用にせいと申したに、已めに致せば良うござつたものを。但し戻らうか。いやいや。御門を通り御玄関を通つたによつて、後へは返すまい。あゝ。扨これは苦々しい事ぢやが。何としたものであらうぞ。おうそれそれ。男の心と大仏の柱は太うても太かれと云ふ。何の思い切つて行くに、行かれぬと云ふ事があるものか。恐らくは往んで見せう。
▲女「やい。こゝなうろたへ者。何者ぢや。
▲右「あゝ。真つ平許させられい。
▲女「おのれ。何者ぢや。
▲右「私は当所に住居致す右近と申すお百姓でござる。
▲女「その右近がこれへは何として出たぞ。
▲右「この間右近が牛が放たれて、左近が田を喰べました。
▲女「それならば左近が出るはずぢや。
▲右「あゝ。只今のは申し違へてござる。左近が牛が放たれて、右近を喰べましてござる。
▲女「何ぢや。牛が右近を喰うた。
▲右「いやいや。左様ではござらぬ。左近が右近が田をたうました。
▲女「それでは分からぬ。早う云はぬか。
▲右「右近がたこでござる。
▲女「あのうろたへ者。縛れ。括れ。
▲右「あゝ。もはや参りまする。許させられい。あゝ。悲しや悲しや悲しや。《と云うて気を失ふ》
▲女「扨も扨も気の毒なゝりかな。申し申し。これは何とした事でござるぞ。気を確かに持たせられい。
▲右「あゝ。もはや戻りまする。許させられい許させられい。
▲女「これこれ。妾でござるわ妾でござるわ。
▲右「何ぢや。妾。
▲女「中々。妾でござるわ。
▲右「和御料はこれへ何しに来た。
▲女「ゑい。又うろたへた事を仰せらるゝ。これは家{*5}でござるわ。
▲右「それならば地頭殿はどれへ行かれたぞ。
▲女「扨々むざとした。今の地頭殿は妾でござるわ妾でござるわ。
▲右「すれば今烏帽子を着刀を差し棒を持つて、縛れ括れと云うたはそちか。
▲女「中々。妾でござる。
▲右「やい。そこな者。
▲女「何事でござる。
▲右「公事の聞き様こそあらうずれ、今の様に理非も聞き分かいで、縛れ括れと云ふ事があるものか。
▲女「でもこなたの様にむざとした事ばかり云うて、何と公事がなるものでござるぞ。これはぷつゝりと思ひ止まらせられい。
▲右「おうそれそれ。身共が誤つた。この公事はそちと相談をせずば身共が勝たうものを。
▲女「いや。こなたは異な事を仰せらるゝ。それには又仔細ばしござるか。
▲右「仔細のない事を云はうか。一体おのれは左近贔屓ぢやいやい。
▲女「なう物狂ひや物狂ひや。こなたは人聞きの悪い事を仰せらるゝ。男ありながら、妾が左近殿の贔屓をするには、証拠ばしござるか。
▲右「証拠がなうて叶はうか。云うたらば恥をかゝうがの。
▲女「恥をかく覚えはござらぬ。あらば仰せられい。
▲右「それならば云はう。それ先度、地下に寄り合ひがあつたわ。
▲女「それが何と致した。
▲右「まづ聞け。身共も行く。左近も行たが、身共が行くとその儘、何やら用ありさうに左近が座を立つによつて、合点の行かぬ事ぢやと思うて某も後から行て見たれば、おのれは左近が所に居たではないか。
▲女「あれは左近殿の茶を飲めと云はれましたによつて、茶を飲うで居ました。
▲右「何ぢや。茶を飲うで居た。
▲女「中々。
▲右「《笑うて》茶を飲うだ者が、二人ともに鼻の上にしつぽりと汗をかくものか。
▲女「なう腹立ちや腹立ちや。妾が恥は誰が恥ぢや。皆こなたの恥ではないか。こゝな男畜生めが男畜生めが。
▲右「やい。そこな奴。
▲女「何ぢや。
▲右「箸に目鼻を付けても男は男ぢや。夫に向かうて男畜生と云ふ事があるものか。
▲女「でも我が恥を知らぬは畜生も同じ事ではないか。
▲右「おのれ総別、この間甘やかいて置けば方領もない。散々に習はかいて遣らう{*6}。《と云うて棒を取る》
▲女「又例の杖取りばいか。
▲右「いやあいやあいやあ。
▲女「何とするぞ何とするぞ。
▲右「いやあいやあ。
▲女「やあ。参つたの。《と云うて、女は男を打ち倒いて入るなり》
▲右{*7}「やいやいやいやい。身共をこの様にしても、おのれは左近とは婦夫ぢやいやい婦夫ぢやいやい。《と云うて、笑うても留める。又追ひ込むにも。両様なり》

校訂者注
 1:底本は、「申しがら」。
 2:底本は、「行く行」。
 3:底本は、「何も」。
 4・5:底本は、「内」。
 6:「ならはかす」は、「思い知らせる。懲らしめる」意。
 7:底本は、「▲「右やい(二字以上の繰り返し記号三つ)」。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の二 七 内沙汰」(国立国会図書館D.C.

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