茶壺(ちやつぼ) 大蔵流本
▲アト「《茶壺を背負ひ、「ざゞんざ」を謡うて出る》あゝ。酔うた酔うた。この道は一筋ぢやが、今日は二筋にも三筋にも見ゆる。これでは中々行かれまい。ちとこの所に休んで参らう。やつとな。
《と云うて左の肩を外して寝る》
▲シテ「これは昆陽野の宿を走り廻る、心も直にない者でござる。今日は昆陽野の市でござるによつて、あれへ参り、何ぞ良い物もあらば調儀致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。今日は門出を祝うてござるによつて、何ぞ仕合せのない事はござるまい。これはいかな事。これに何者やら寝て居る。さらば起こいて遣らう。やいやい。こゝは街道ぢや。起きて行け。起きて行かいでな。あゝ。熟柿臭い。酒に酔うたと見えた。見れば良い物を背負うて居る。これを調儀致さう。《引いて見てうなづく》
やいやい。こゝは街道ぢや。起きて行かいでな。起きて行たならば良からう。
やいやい。こゝは街道ぢや。起きて行かいでな。起きて行たならば良からう。
▲ア「あゝ。よう寝た。誰ぞ湯をくれい、茶をくれい。これはいかな事。これに何者やら寝て居る。やいやい。これは身共が物ぢや。こちへおこせ。
▲シ「これは身共が物ぢや。こちへおこせ。
▲ア「出合へ出合へ出合へ。
▲シ「やいやいやいやい。
▲目代「汝等はこの御政道正しい御代に、何事をわつぱと云ふぞ。
▲ア「私の物をあの者が取らうと申しまする。こちへおこせ。《シテ同じ様に云ふ》
▲目「いやいや。某が出ては聊爾はさせぬ。まづこれを身共に預けい。
▲ア「こなたはどなたでござる。
▲目「所の目代ぢや。
▲ア「目代殿ならば御礼申しまする。
▲シ「私も御礼申しまする。
▲目「いやいや。礼には及ばぬ。まづこれを身共に預けい。
▲ア「それならば預けまする程に、必ずきやつに遣らせらるゝな。
▲目「遣る事ではない。さあさあ。汝も預けい。
▲シ「私の物でござるによつて、預くるには及びませぬ。
▲目「いやいや。あの者も預けた程に、汝も預けい。
▲シ「それならば預けまする程に、必ずきやつに遣らせらるゝな。
▲目「心得た。扨汝は何者なれば、わつぱとは云ふぞ。
▲ア「私は中国の者でござるが、某の頼うだ者は殊ない茶好きで、毎年栂の尾へ茶を詰めにやられまする。又当年も、まんまと茶を詰めて下りまする処に、昆陽野の宿に知る人がござつて、これへ立ち寄つてござれば、殊の外御酒を強ひられ、正体もなうたべ酔い、こゝを路次とも存ぜず一方の肩を外いて伏せつて居りましたれば、あの者がどちからやら参つて、私の外いた方の肩へ手を入れ、我が物ぢやと申しまする。それを申し上がつての事でござる。目代殿でござらば、きつと仰せ付けられて下されい。《この言葉の内、シテ、目代の後ろより立ち聞きする》
▲目「あれが口をも問はう。まづそれに待て。
▲ア「心得ました。
▲目「やいやい。汝は何者なれば、わつぱとは云ふぞ。《シテ、アトの云ふ如くに云ふ》
はて。合点の行かぬ事ぢや。まづそれに待て。
はて。合点の行かぬ事ぢや。まづそれに待て。
▲シ「心得ました。
▲目「やいやい。あれは何ぢや。
▲ア「あれは茶壺でござる。
▲目「茶壺ならば入日記があらうが、知つて居るか。
▲ア「中々。私の傍に付いて居て詰めさせた事でござれば、書いた物よりよう覚えて居りまする。あれは存じますまい。問うて見させられい。
▲目「心得た。《又シテ立ち聞きして同じ様に云ふなり》
あれは何ぢや。
あれは何ぢや。
▲シ「あれは茶壺でござる。
▲目「茶壺ならば入日記があらう。覚えて居るか。《同断に云ふ》
あれも知つたと云ふわ。
あれも知つたと云ふわ。
▲シ「あれが知らうはずはござらぬが、知つたならばあれから先へ云へと仰せられい。
▲目「心得た。やいやい。汝から先へ云へと云ふわ。
▲ア「畏つてござる。
我が物故に骨を折る、我が物故に骨を折る、心の内ぞ可笑しき。《地を取る》
さ候へばこそ、さ候へばこそ。おれが主殿は中国一の法師にて、日の茶を点てぬ事なし。一族の寄り合ひに本の茶を点てんと、五十貫の庫裡を持ち、多くの足を使うて、兵庫の津には着いたり。兵庫を発つて二日に、栂の尾にも着きしかば、峯の坊・谷の坊。殊に名誉しけるは、赤井の坊の穂風を十斤ばかり買ひ入れ、背中にきつと背負うて、兵庫を指して下れば、昆陽野の宿の遊女が、袖をぢつと控へて、今様・朗詠・しほり萩を謡うて、抑へて酒を強ひたり。酒に酔うて寝たるを、日本一の大腑のあの古博奕打ちが来て、我が物と申すを、判断なしてたび給へ。所の検断殿。
▲目「一段とよう云うた。まづそれに待て。
▲ア「畏つてござる。
▲目「やいやい。あの者は云うた。汝も云へ。
▲シ「畏つてござる。《アトの舞ふ内、篤と見て、又同じ様に真似する》
▲目「一段とよう云うた。
▲シ「これは私の物でござる。かう持つて参る。
▲ア「遣つて下さるゝな。
▲目「いやいや。遣る事はならぬ。今度は相舞にせい。
▲シ「相舞には及ばぬ事でござる。
▲目「相舞にせいと云ふに。
▲シ「それならば畏つてござる。
▲目「汝も相舞にせい。
▲ア「心得ました。
▲シ「おのれが相舞にせうと思ふか。
▲ア「おのれが相舞にせうと思ふか。
▲シ「おのれ憎い奴の。
▲ア「おのれ憎い奴の。
▲目「やいやい。論はなし。急いで相舞にせい。
▲二人「心得ました。
▲目「どちなりとも、違うた方を曲事に云ひ付くるぞ。
▲二人「畏つてござる。《相舞にする。シテ、とかくアトの方を見て真似をする。アトも誑す心にて、「兵庫の津にも」のこの「も」の字を引き、二度「も」を云うて「着いたり」と云ふ。扨後にも「袖をぢつと」、又引いて云ふ。これも二度引く。又後の「酒に酔うて」のこの「て」の字も同断に引く。その外変りなし。シテは、とかくアトの後を後を、として行く心なり》
▲目「一段とよう云うた。理非を分けて取らせう。これへ出い。
▲二人「心得ました。
▲目「又出い。
▲二人「畏つてござる。
▲目「やい。聞くか。
▲二人「何事でござる。
▲目「昔より、論ずるものは中から取れと云ふ。これは身共が取つてのくぞ。《と云うて、目代茶壺を持ち、逃げ入る。》
▲ア「そなたの物にもならぬ。
▲シ「和御料の物にもならぬ。
▲ア「いざ、追ひかけう。
▲シ「それが良からう。
▲二人「あの横着者。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
底本:『狂言全集 上巻』「巻の二 九 茶壺」(国立国会図書館D.C.)
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