法師物ぐるひ(ほふしものぐるひ) 大蔵流本

▲シテ「ざゞんざ。浜松の音はざゞんざ。
あゝ酔うた酔うた。殊の外たべ酔うた。いや。何かと云ふ内に戻り着いた。なうなう。これのはおりやるか。やい女共。女共は居らぬか。
▲女「いや。戻られたさうな。戻らせられてござるか。
▲シ「何ぢや。戻らせられたか。
▲女「中々。
▲シ「今の程、声をばかりに呼うだに。どれに居た。
▲女「隣に居りました。
▲シ「総別、某が表から戻れば裏から出る。又裏から戻れば表から出る。あゝ合点の行かぬ。暇をやる程に出て行け。
▲女「又今日も殊ない御機嫌と見えました。ちと奥へ行て休ませられい。
▲シ「置き居ろ。いつおのれが酒を盛つた事がある。その上身共は寝たうない。男が暇をやるに、出て行くまいか。
▲女「すれば真実でござるか。
▲シ「真実でなうて何とするものぢや。
▲女「それならば出て参りませうが、総じて暇を貰うには、男の手から塵を結んでなりとも取るものぢやと申す程に、何ぞ印を下されい。
▲シ「何ぢや。塵を結んでくれい。易い事。さあさあ。これを持つて早う出て行け。
▲女「なう物狂や物狂や。今のは譬へでこそあれ。何ぞこなたの身に付いた物を下されい。
▲シ「何ぢや。身に付いた物をくれい。
▲女「中々。
▲シ「暇をやる女に何が惜しからうぞ。この小袖を遣る程に、これを持つて早う出て行け。
▲女「すれば一定でござるか。
▲シ「又くどい事を云うて。行かぬか。出て失せい出て失せい出て失せい。
▲女「あゝ痛あゝ痛あゝ痛。申し。かな法師は何となさるゝぞ。
▲シ「かな法師に構ふ事か。まだそれに居るか。出て行け出て行け。憎い奴の憎い奴の憎い奴の。《女は太鼓座へ着く》
扨も扨も憎い奴でござる。いつぞは暇を遣らう暇を遣らうと存ずる処に、今日と申す今日、暇を遣はして、この様な満足な事はござらぬ。心が清々と致いた。さらば奥へ行て休まうと存ずる。《シテ中入りすると、女立ちて》
▲女「扨も扨も苦々しい事でござる。又例の御酒機嫌かと存じてござれば、誠に暇をくれられてござる。あの様な男は藪を蹴ても五人や七人は蹴出しませうが、一人あるかな法師が不憫にござる。《泣く》
まづ急いで親里へ参らう。誠にこの事を父様母様の聞かせられたならば、さぞ肝を潰させらるゝでござらう。いや。まづこの所にちと休らうで参らう。《笛の上に座り着く》
▲シ《一声》「物に狂ふも五臓故、酒の仕業と覚えたり。春の脈は弓に絃、掛くるが如く狂ふにぞ、ありかも匂ひも懐かしや。咲き乱れたる花どもの、物云ふ事はなけれども、軽漾激して影唇を動かせば、花の物云ふは道理なり{*1}。《カケリ。謡。シホリながら尋ぬる》
いやなうなう。あれなる人に物問はう。そなたへ年の頃二十ばかりなる女は行かぬか。何。行かぬ。《又カケリ。謡。尋ぬる》
これこれ。あれなる人に物云はう。そなたへ年の頃二十ばかりなる女は行かぬか。いゝや。その御はした連れたる女にてはなし。只一人、かいとり褄にて行かぬよなう。《又カケリ。謡》
いつか又、法師が母に逢ひ竹の。乱れ心や狂ふらん。《又カケリ。舞。打ち上げて打ち切る》
法師が母が能には、法師が母が能には。まづ春は蕨折る。扨又夏は田を植ゑ、秋は稲場に行き通ひ、冬になれば我が宿の、背戸の窓にうち向かひて、六よみ布を織りつけ、織りたる布は何々。青襖袴や十徳、布子表。帷子を誰が織つてくれうぞ。法師が母ぞ恋しき。
▲女「法師が母は只一人、涙にむせぶばかりにて、親の元へぞ帰りける。
▲シ「聞かまほしの御声や。あれは妻にてましますか。さりとては帰り合ひ、狂気をやめてたび給へ。
▲女「見目の悪きは生まれつき。一度去りたる仲なれば、何しに帰り合ふべき。
▲シ「見目の悪きとは、見目の悪きとは、たゞ酔狂のあまりなり。誠に見目は美しや。
▲女「それは誠か。
▲シ「中々に。いちひとの見目の良いは、田中権の頭の継娘。聟になりたや南無三宝。なう。愛しの人。こちへ渡らしめこちへ渡らしめ。
▲女「心得ました心得ました。

校訂者注
 1:底本は、「道程なり」。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の三 四 法師物ぐるひ」(国立国会図書館D.C.

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