薩摩守(さつまのかみ) 大蔵流本
▲シテ「これは遥か遠国方の出家でござる。某未だ上方を見物致さぬにより、今度都へ上り、名所旧跡残りなく見物致し、それより淀・山崎・西の宮までは一見致いてござる。又これより住吉・天王寺へ参詣致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に出家程心安いものはござらぬ。あなたこなたの憐みを乞うて、楽々と旅を致いて通る事でござる。これはいかな事。今朝宿を早々立つたれば、殊の外喉が渇くが。この辺りに茶屋はないか知らぬ。いや。これに茶屋がある。なうなう茶屋殿。茶を一つ下されい。
▲茶屋「茶を参るか。
▲シ「中々。
▲茶「進じませう。《茶を汲みて》さらば参れ。
▲シ「これへ下されい。結構なお茶でござる。今一つたべませう。
▲茶「気に入つたならば、いか程なりとも参れ。《又汲みて》さらば参れ。
▲シ「これへ下されい。もはやたべますまい。
▲茶「早参らぬか。
▲シ「中々。お蔭で喉の渇きを止めましてござる。忝うござる。かう参りまする。
▲茶「これこれ。代りを置いて行かしめ。
▲シ「代りとは。
▲茶「茶代を置いて行かしめ。
▲シ「今の茶には、代りがいりまするか。
▲茶「こゝな人は。往還で茶屋をしながら、茶代を取らぬといふ事があるものか。この所は一服一銭ぢや。そなたは二服参つた程に、二銭置いて行かしめ。
▲シ「一服一銭が二服一銭でも、代りは持ちませぬ。
▲茶「こゝな人は。旅をもする者が茶代を持たぬといふ事があるものか。扨そなたはこれからどれへ行くぞ。
▲シ「住吉・天王寺へ参る。
▲茶「住吉・天王寺へ行く道に、神崎の渡しというて、隠れもない大河がある。それには定めて十丁の船賃が出るが、それは何とするぞ。
▲シ「かち渡りに致しませう。
▲茶「中々かち渡りになる河ではおりない。
▲シ「それならば上へなりと下へなりと廻りませう。
▲茶「上へ廻つても下へ廻つても、中々只渡らるゝ河ではおりない。
▲シ「是非に及びませぬ。これから伏し拝みに致しませう。
▲茶「すれば真実、持ち合はせはおりないか。
▲シ「くどい事を仰せらるゝ。それ程に思し召さば、この珠数なりともこの笠なりとも取らせられい。
▲茶「いやいや。茶代を取らうではない。扨々それは気の毒な事ぢや。それならば、茶代の事の扨置き、船賃をおまさう。
▲シ「それは忝うござる。これへ下されい。
▲茶「いやいや。船賃と云うて、手渡す物ではおりない。あの神崎の渡し守は殊の外秀句好きで、秀句さへ云へば悦うで船に乗するによつて、秀句を教へておまさうかといふ事でござる。
▲シ「習うてなる事ならば教へて下されい。
▲茶「別に難しい事でもおりない。あれへおりやつて船にお乗りやつたならば、定めて船賃をおこせと云うであらう処で、船賃は薩摩守と仰しやれ。
▲シ「左様に申しても苦しうござらぬか。
▲茶「中々。苦しうおりない。心はと問はゞ、忠度と答へさしめ。
▲シ「畏つてござる。
▲茶「この心は、昔平家の公達に薩摩守忠度といふお方があつた。又そなたがあれへ行て、只船にお乗りやるによつて、薩摩守と云ひ掛け、たゞのりと答へさせうためぢや。かうさへ仰しやつたならば、悦うで船にたゞ乗するであらうぞ。
▲シ「これは忝うござる。大方覚えました。扨私はもうかう参りませう。
▲茶「もはやおりやるか。
▲シ「下向に参つてこのお礼はきつと申しませう。
▲茶「お尋ねに預からうとも。
▲シ「さらばさらば。
▲茶「ようおりやつた。
▲シ「はあ。なうなう嬉しや嬉しや。茶代の事は扨置き、船賃までを貰うてござる。まづ急いで参らう。誠に旅は情け人は心と申すが、あの様な人がなければ、我等如きの貧僧は旅はなりませぬ。いや。参る程に大きな川へ出た。茶屋の教へたは定めてこの川の事であらう。扨乗る物が見えぬが、どこ元にある事ぢや知らぬ。いや。つゝとあれに見ゆる。急いで呼ばう。ほゝいほゝい。
▲船頭「いや。道者があると見えた。これはいかな事。只一人ぢや。
▲シ「これはいかな事。今立つたが又下に居た。但し聞き付けぬか知らぬ。又呼うで見よう。ほゝいほゝいほゝい。
▲船「あゝ喧しい。きやつはこゝ元の大法を知らぬと見えた。
▲シ「ほゝい。
▲船「ほゝい。こゝは大事の渡しでな、一人や二人は渡さぬいやい。
▲シ「これはいかな事。一人や二人は渡さぬと申す。何と致さう。いや。かやうの処で妄語を申した分は苦しうあるまい。ほゝい。道者はあまたあるいやい。
▲船「いゑ。道者はあまたあると申す。ほゝい。道者はあまたあると仰しやるか。
▲シ「中々。
▲船「それならばそれと、疾うに仰しやらいで。船を着けておまさうものを。
▲シ「ほゝい。
▲船「ほゝいほゝいほゝいほゝい。いゑ。御出家でござるか。
▲シ「船頭殿御大儀でござる。
▲船「船を止めて居まする。早う乗らせられい。
▲シ「心得ました。やつとな。
▲船「あゝ危ない。こなたはつひに船に乗つた事がないと見えた。
▲シ「恥づかしい事でござるが、今が初めてゞござる。
▲船「さう見えた。扨、道者は。
▲シ「道者とは。
▲船「そなたは最前道者があるとは仰しやらぬか。
▲シ「おゝ。道者の。
▲船「中々。
▲シ「道者は二三日も過ぎたならば後から参らうかと申す事でござる。
▲船「何ぢや。二三日も過ぎたならば後から参らうか。
▲シ「中々。
▲船「上らしめ。
▲シ「何と召さる。
▲船「何とすると云うて、出家が妄語を云ふといふ事があるものでおりやるか。
▲シ「船頭殿船頭殿。なう船頭殿。
▲船「あゝ喧しい。何事ぢや。
▲シ「船に乗りたさに妄語を申してござる。出家の事でござれば利益にもなりませう程に、何とぞ船に乗せて下されい。
▲船「誠に御出家の事ぢやによつて、乗せて遣るまいものでもないが。こゝは定めて十丁の船賃が出るが、それはお出しやるか。
▲シ「十丁が廿丁でも出しませう。
▲船「何ぢや。十丁が廿丁でも出さう。
▲シ「中々。
▲船「いゑ。それならば一人乗するも二人乗するも同じ事ぢや。船をさし止めて居る程に、早う参らしめ。
▲シ「心得ました。やつとな。
▲船「はあ。和御料は最前ので乗り覚えたと見えて、乗り振りが上がつた。
▲シ「最前ので乗り覚えましてござる。
▲船「さう見えた。扨船を出すが、何も用はおりないか。
▲シ「もはや用はござらぬ。早う出いて下されい。
▲船「心得た。ゑいゑい。扨御坊は船賃をお持ちやつたの。
▲シ「中々。
▲船「それならばこれで受け取りませう。
▲シ「向かうへ着いてから渡しませう。
▲船「何ぢや。向かうへ着いてから渡さう。
▲シ「中々。
▲船「なう御坊。
▲シ「何事でござる。
▲船「あの島をお見やれ。
▲シ「あの島が何と致いた。
▲船「方々の様に向かうへ着いてから渡さう渡さうと云うて、身共も再々乗り逃げに出合ふ。その様な事を云うてこゝ元で船賃を出さずば、あの島へ打ち上げて置いて、後へも先へも遣る事ではないぞ。
▲シ「あゝ。出しませう出しませう。
▲船「さあさあ。早うお出しやれ。
▲シ「船賃の。
▲船「中々。
▲シ「船賃は薩摩守。
▲船「何ぢや。薩摩守。
▲シ「中々。
▲船「薩摩守薩摩守。これは秀句ではないか。
▲シ「秀句ならば秀句の様なものでもあらうかぢやまで。
▲船「何ぢや。秀句の様なものでもあらうかぢやまで。
▲シ「中々。{*1}
▲船「《笑うて》扨々可笑しい事を云ふ人ぢや。又この神崎の渡し守の秀句に好きといふ事を、何としてお知りやつた。
▲シ「神崎の渡し守の秀句に好かるゝといふ事は、唐土・天竺・我が朝三国に隠れがおりない。
▲船「何ぢや。三国に隠れがない。
▲シ「中々。{*2}
▲船「《笑うて》扨々、御坊は近頃面白い人ぢや。扨この心を承りたい。
▲シ「向かうへ着いてから申しませう。
▲船「はあ。向かうへ着くまでは待ち遠なが。それならば、向かうへ着いてから承らう。扨今のは何とやらであつたの。
▲シ「薩摩守。
▲船「おうそれそれ。薩摩守薩摩守薩摩守。《笑うて》扨御坊はこれからどれへおりやる。
▲シ「住吉・天王寺へ参る。
▲船「天王寺へおりやるならば、下向にもこの所を通らしめ。船が好きならば、身共が船に乗せて浦々を漕ぎ廻つて、ゆるりと船遊びをさせうぞ。
▲シ「それは忝うござる。
▲船「扨最前のは何とやら云うたの。
▲シ「薩摩守。
▲船「おうそれそれ。薩摩守薩摩守薩摩守。《笑うて》いや。船が着いた。上らしめ。
▲シ「心得ました。やつとな。船頭殿御大儀でござる。かう参りまする。
▲船「あゝこれこれ。その心を仰しやれ。
▲シ「心とは。
▲船「はて。最前の薩摩守の心を仰しやれ。
▲シ「むゝ。薩摩守の心の。
▲船「中々。
▲シ「あまり面白うおりない。聞かずとも置かせられい。
▲船「これこれ。いかに面白うないとて、聞かずに置かるゝものか。平に心を仰しやれ。
▲シ「それならば下向になりとも申しませう。
▲船「あゝこれこれ。何と下向まで待たるゝものぢや。平に仰しやれと云ふに。
▲シ「むゝ。心の。
▲船「中々。
▲シ「心は薩摩守。
▲船「それは云ひ掛けで合点ぢや。その薩摩守の心を仰しやれと云ふに。
▲シ「はて。心は心でござる。
▲船「やあら。こゝな者は。いよいよ身共をなぶるか。その薩摩守の心を云はねば、後へも先へも遣る事ではないぞ。
▲シ「はあ。今思ひ出しました。
▲船「何と。
▲シ「物と。
▲船「何と。
▲シ「物と。
▲船「何と。
▲シ「薩摩守の心は。
▲船「心は。
▲シ「青海苔の引き干し。
▲船「あのやくたいなし。とつとゝおりやれ。
▲シ「面目もござらぬ。
校訂者注
1・2:底本はともに、「▲シ「中々。《笑うて》▲船「扨々」。
底本:『狂言全集 上巻』「巻の三 六 薩摩守」(国立国会図書館D.C.)
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