太刀奪(たちばひ) 大蔵流本

▲主「これはこの辺りに住居致す者でござる。今日は北野の御手水の会でござるによつて、参詣致さうと存ずる。まづ太郎冠者を呼び出いて申し付けう。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。今日は北野の御手水の会ぢや程に、参詣せうと思ふが何とあらうぞ。
▲シテ「これは一段と良うござりませう。
▲主「それならば追つ付いて行かう。さあさあ来い来い。
▲シ「参りまする参りまする。
▲主「今日は天気も良いによつて、定めて賑やかであらうぞ。
▲シ「誠に今日は天気も良うござるによつて、さぞ大参りでござらう。
▲主「戻りにゆるりと慰うで帰らうぞ。
▲シ「それは良うござらう。《主廻り掛かると通り人{*1}出て、一の松にて名乗る》
▲通り人「これはこの辺りの者でござる。今日は北野の御手水の会でござるによつて、参詣致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。いつも辺りの若い衆を誘うて参るが、今日は他に用事もござつたによつて、某一人で参る。天気も良うござる程に、定めて賑やかでござらう。《通り人{*2}廻り掛かると、主、太刀を見付けて》
▲主「やい。太郎冠者。
▲シ「何事でござる。
▲主「あの太刀を見よ。何と結構な太刀ではないか。
▲シ「誠に結構な太刀でござる。
▲主「某もあの様な太刀が望みぢやが。
▲シ「はあ。こなたはあの太刀が欲しうござるか。
▲主「中々。あの様な太刀を欲しい事ぢや。
▲シ「それならば私が取つて上げませう。
▲主「こゝな者が。人の持つて居る太刀を、何と取らるゝものぢや。
▲シ「いや。見た処が眉あひの延びた奴でござるによつて、取るに取られぬ事はござらぬが、私は丸腰でござる。こなたのお腰の物を貸して下されい。
▲主「それならば貸しては遣らうが、これは無用にしたならば良からう。
▲シ「いやいや。お気遣ひなさるゝな。追つ付け取つてお目に掛けませう。
▲主「早う取つて来い。
▲シ「心得ました。はあ。
▲通り「扨も扨も、早この辺りから色々売り物がある。慰みに見物致しながら参らう。はあ。これは何ぢや。《これより太郎冠者、通り人{*3}の左の方へ行きて、顔を見ながら口真似を云ふ》
▲シ「これは何ぢや。
▲通り「子どもの持て遊び。
▲シ「子どもの持て遊び。
▲通り「起き上がり小法師。振り鼓振り鼓。
▲シ「起き上がりこぼふし。振り鼓。
▲通り「ひいひい風車。
▲シ「ひいひい風車。
▲通り「何を求めうと儘ぢや。《もし早く行き着いたらば、茶の湯の道具や武具・馬具・唐物、いづれなりとも色々云うて居る。太郎冠者、言葉の切れ候ふ処にて、太刀を取つて引いて見る》
いや。こゝな者。
▲シ「何事ぢや。
▲通り「なぜに身共が持つて居る太刀に手を触はるぞ。
▲シ「この人混みの中{*4}ぢやによつて、ちと触はるまいものでもないわ扨。
▲通り「何ぢや。触はるまいものでもない。
▲シ「中々。
▲通り「汝は定めてすつぱであらう。ひと討ちにして遣らう。
▲シ「あゝ。真つ平命を助けてくれい。
▲通り「命が助かりたいか。
▲シ「中々。命が助かりたい。
▲通り「見ればおのれは良い一腰をさいて居る。それをおこせ。
▲シ「何ぢや。一腰をおこせ。
▲通り「中々。
▲シ「何とこれが遣らるゝものぢや。遣る事はならぬ。
▲通り「おのれ、おこさずば胴斬りにして遣らう。
▲シ「あゝ。遣らう遣らう。
▲通り「早うおこせ。
▲シ「つゝとその方へのいて居よ{*5}。
▲通り「心得た。
▲シ「さあ取れ。
▲通り「いや。おのれは心得た出し様をする。取り直いておこせ。
▲シ「それ程用心をするならば、な取つそ。
▲通り「おのれ、取り直いておこさずば、唐竹割りにして遣らう。
▲シ「あゝ。取り直いて遣らう取り直いて遣らう。
▲通り「早う取り直いておこせ。
▲シ「是非に及ばぬ。さあ取れ。
▲通り「こちへおこせ。
▲シ「危ない事をする。
▲通り「まづこれは身共が物ぢや。やい。聞くか。
▲シ「何事ぢや。
▲通り「恥づかしい事なれども、某はつひに生き物を斬つた事がない。おのれを斬り習ひに、どれから斬らうぞ。
▲シ「あゝ。真つ平許いてくれい許いてくれい。
▲通り「瓜割りにして遣らう。
▲シ「何とぞ命を助けてくれい。
▲通り「命が助かりたいか。そりや手が出るわ。
▲シ「出はすまい。
▲通り「足が出るわ。
▲シ「出はすまい。
▲通り「《幾つも云うて、笑うて》扨も扨も、一段の慰みでござる。やい。聞くか。
▲シ「何事ぢや。
▲通り「今は北野へ参りぢやによつて、命を助けてやる。下向にこゝに居たならば、只置く事ではないぞ。
▲シ「居よと云うても居る事ではない。
▲通り「某が行方を見るな。
▲シ「見る事ではない。
▲通り「見たならばひと討ちにするぞ。
▲シ「見はせぬと云うに。
▲通り「見るな。
▲シ「見はせぬ。
▲通り「見るな。
▲シ「見はせぬ。
▲通り「そりや見居つたわ。おのれ、胴斬りにして遣らう。
▲シ「中々見る事ではない。
▲通り「見るな。
▲シ「見はせぬ。
▲通り「見るな見るな見るな。
▲シ「見はせぬ見はせぬ見はせぬ。これはいかな事。眉あひの延びた奴かと存じたれば、目の鞘の外れた奴でござる。それはともあれ、頼うだ人のお腰の物を取られたが、何とせうぞ。さりながら、正直なお方ぢやによつて、面白可笑しう申しないて置かうと存ずる。申し。頼うだお方。ござりまするか。太郎冠者が太刀を取つて参りましてござる。
▲主「いや。太郎冠者が太刀を取つて参つたと見えた。太郎冠者。何と取つたか取つたか。
▲シ「取りました取りました。
▲主「何と取つたか。
▲シ「こなたのをあなたへ取りました。
▲主「何ぢや。こなたのをあなたへ取つた。
▲シ「中々。
▲主「それぢやによつて無用にせいと云うたに。
▲シ「さればその事でござる。眉あひの延びた奴かと存じたれば、目の鞘の外れた奴でござつて、私を見ますると、あの氷の様な太刀をすると抜いて、胴斬りにせうと申しましたによつて、こなたのお腰の物を遣はして、やうやう命を助かつてござる。こなたは太郎冠者を一人拾はせられたと申すものでござる。
▲主「又そのつれな事を云ふ。あの腰の物は重代で、汝一人や二人に替る腰の物{*6}ではないゝやい。
▲シ「それは余りお情けない事を仰せらるゝ。あのお腰の物は求めさせられたらばござらうが、この太郎冠者は又と二人はござりますまい。
▲主「大切な腰の物を取られて、又その様な事を云ふか。諸侍が丸腰で、何と帰らるゝものぢや。これは又何としたものであらうぞ。
▲シ「それならば良い事がござる。きやつが申すは、今は北野へ参りぢやによつて許す。下向にこゝに居たならば、只置く事ではないと申したによつて、これに待つて居まして、きやつが通る処をこなたと私と致いて捕らへまして、お腰の物は扨置き、丸裸に致しませうが、何とでござる。
▲主「これは一段と良からうが、汝はその者の顔を見覚えて居るか。。
▲シ「中々。見覚えて居まする。やうやう下向の時分でござる程に、これへ寄つてござれ。
▲主「心得た。
▲通り「今日は一段の仕合せを致いた。急いで罷り帰らう。《と云うて廻る》
世にはむさとした者があるものでござる。存じ寄らず今日良い太刀を手に入れて、この様な満足な事はござらぬ。戻つて皆の者に話いたならば、さぞ羨むでござらう。《廻り掛かるを太郎冠者見付けて》
▲シ「あれでござる。
▲主「あれか。
▲シ「中々。
▲主「さあさあ。汝行て捕らへい。
▲シ「こなた行て捕らへさせられい。
▲主「いやいや。身共に捕らへられぬ。汝行て捕らへい。
▲シ「いやいや。私は見知つて居ます。こなた行て捕らへさせられい。
▲主「それなら身共が捕らへるぞ。
▲シ「早う捕らへさせられい。心得た。がつきめ。やるまいぞ。
▲通り「これは何となさるゝ。
▲主「何とすると云うて。覚えがあらう。
▲通り「覚えはござらぬ。
▲シ「あら。良いなりの。
▲通り「おのれは最前のすつぱではないか。
▲シ「おのれこそすつぱなれ。
▲主「早う打擲せい。
▲シ「今竹篦を当てゝやらう。やつとな。これはいかな事。きつと捕らへてござれ。
▲主「心得た。
▲通り「そこを放させられい。
▲主「いやいや。放す事はならぬ。
▲シ「おのれ、これを戴かせてくれう。これはいかな事。きつと捕らへてござれと申すに。
▲主「その様な事でなるものか。縄をかけい縄をかけい。
▲シ「縄をかけまするか。
▲主「早うかけい。
▲シ「心得ました。《と云うて太刀座へ行き、綯ひかけを持つて出る。その内にすつぱ、「こゝを放せ」と云ふ。主「ならぬ」と云うてせり合うて居る》
申し申し。幸ひこれに綯ひかけがござる。これを綯うて掛けませう。
▲主「はて。今から縄を綯うて間に合ふものか。
▲シ「でも他にはござらぬ。
▲主「いかにないと云うて。扨々もどかしい奴の。《すつぱ、太刀にて太郎冠者を転ばす》
▲シ「扨々こなたはむざとした。きつと捕らへてござらぬによつて、きやつが色々いたづらを致しまする。
▲主「何と縄はよいか。
▲シ「大方できました。いや。一段と良うござる。
▲主「それならば早う掛けい掛けい。
▲シ「心得ました。やいやい。これへ足を入れい入れい。
▲主「やい。そこな奴。誰が足を入るゝものぢや。上から掛けい掛けい。
▲シ「畏つてござる。やいやい。これへ首を入れい。
▲主「ゑい。もどかしい。誰がそれへ首を入るゝものぢや。上から掛けいと云うに。
▲シ「心得ました。きつと捕らへてござれ。
▲主「心得た。早うかけい。
▲シ「やつとな。
▲主「これはいかな事。それでは掛からぬ。後ろから掛けい掛けい。
▲シ「後ろから掛けまするか。
▲主「後ろから掛けいと云うに。
▲シ「畏つてござる。さあ掛けました。
▲主「何と掛けたか。
▲シ「一段と良うござる。
▲主「それならば放すぞ。
▲シ「早う放させられい。
▲主「そりや放したわ。
▲シ「がつきめ。
▲主「これは身共ぢや。何とする。
▲シ「頼うだ人でござるか。
▲主「すつぱゝどれへ行くぞ。
▲シ「あれへ参りまする
▲主「早う捕らへい。
▲シ「心得ました。あの横着者。どれへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1~3:底本は、「通り」。
 4:底本は、「人混みのぢやによつて」。岩波文庫本(『能狂言』1943刊)に従い補った。
 5:底本、「〇」一字は判読困難。岩波文庫本(『能狂言』1943刊)に従い補った。
 6:底本は、「替る替の物」。岩波文庫本(『能狂言』1943刊)に従い改めた。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の三 七 太刀奪」(国立国会図書館D.C.

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