粟田口(あはたぐち)　大蔵流本

▲大名「罷り出たる者はこの辺りに隠れもない大名です。天下治まりめでたい御代でござれば、この間のあなたこなたのお道具くらべは夥しい事でござる。それにつき、今度は持ち料の粟田口を比べさせられうとの御事でござるが、某が道具の内に粟田口があるか、太郎冠者を呼び出し承らうと存ずる。やいやい。太郎冠者あるかやい。

▲冠者「はあ。

▲大「居るか居るか。

▲冠「はあ。

▲大「居たか。

▲冠「お前に。

▲大「念なう早かつた。まづ立て。

▲冠「畏つてござる。

▲大「天下治まりめでたい御代なれば、この間のあなたこなたのお道具くらべは、何と夥しい事ではないか。

▲冠「御意の通り、この間のあなたこなたのお道具くらべは、夥しい事でござる。

▲大「それよそれよ。それにつき、今度は持ち料の粟田口を比べさせられうとの御事ぢやが、某が道具の内に粟田口があるか。

▲冠「御道具は悉く私の存じて居りまするが、粟田口と申す物はつひに見た事もござらぬ。

▲大「むゝ。汝が知らずばあるまい。何としたものであらうぞ。

▲冠「されば何となされてようござらうぞ。

▲大「いゑ。都にはあらうか。

▲冠「何が扨、都にないと申す事がござらうか。都にはござりませう。

▲大「それならば汝は太儀ながら、今から都へ上つて粟田口を求めて来い。

▲冠「畏つてござる。

▲大「やい。紙に包んでも万疋はする物ぢやと云ふ程に、必ず抜かれな。

▲冠「抜かる事ではござらぬ。

▲大「早う戻れ。

▲冠「畏つてござる。

▲大「ゑい。

▲冠「はあ。

▲大「ゑい。

▲冠「はあ。

▲大「もう戻つたか。

▲冠「まだお前をにじりも致しませぬ。

▲大「かう云ふは油断をさせまいためぢや。急げ急げ。

▲冠「畏つてござる。

▲大「早う戻れ。

▲冠「心得ました。

▲大「ゑい。

▲冠「はあ。

▲大「ゑい。

▲冠{*1}「はあ。

▲大「ゑい。

▲冠「はあ。扨も扨も、こちの頼うだ人の様に、物を急に仰せらるゝお方はござらぬ。さりながら、いつ物を仰せらるゝとあつても、只今の様にわつさりと仰せ付けらるゝによつて、御奉公が致しよい。まづ急いで参らう。いや。誠に只今までのお道具くらべに、何一色負けさせられた事はござらぬに、今度の粟田口只一色で負けさせられては、某までも残念にござる。随分と走り廻つて良い粟田口を求めて参らうと存ずる。何かと申す内に都近うなつたと見えて、殊の外賑やかになつた。いや。これは早、都へ上り着いた。また田舎とは違うて、家建ちまでも格別な。あれからつゝとあれまで、仲良さゝうに軒と軒とを建て並べた程にの。これはいかな事。身共は不念な事を致いた。粟田口はどの様な物で、又どこ元にあるをも存ぜぬ。遥々の所を問ひには戻られまいが。これはまづ何としたものであらうぞ。はゝあ。さすが都ぢや。かう見るに、知れぬ事を呼ばゝつて歩けば知るゝと見えた。さらば某もこの辺りから呼ばゝつて参らう。粟田口買はう。粟田口買ひす。なうなう。そこ元に粟田口はござらぬか。ぢやあ。こゝ元にはないさうな。さらば他へ参らう。粟田口買はう。粟田口買ひす。いや。これこれ。その辺りに粟田口はござらぬか。ぢやあ。こゝ元にもないさうな。これからちと上京へ参らう。粟田口買はう。粟田口買ひす。なうなう。それに粟田口はござらぬか。

▲スリ「これは洛中を走り廻る、心も直にない者でござる。あれへ田舎者と見えて、何やらわつぱと申す。ちと当たつて見ようと存ずる。なうなう。しゝ申し。

▲冠「こちの事でござるか。何事でござるぞ。

▲ス{*2}「いかにも和御料の事ぢや。この広い洛中を、何をわつぱと云うてお歩きそ。

▲冠「私は田舎者で、別に聊爾は申さぬ。真つ平御免あれ。

▲ス「いや。これこれ。聊爾仰しやると云うて咎むるではおりない。今そなたの仰しやつたは何事ぞと申す不審でおりやる。

▲冠「只今私の申した事の。

▲ス「中々。

▲冠「私の頼うだ者が粟田口を求めて来いと申し付けましたによつて、それを呼ばゝつて歩きまする。

▲ス「扨、粟田口を見知つてお尋ねあるか。但し知らいでお尋ねあるか。

▲冠「これは都人のお言葉とも覚えませぬ。存じて居れば、それを買はうと申せども、存ぜぬによつて呼ばゝつて歩きまする。

▲ス「これは身共が誤つた。すれば和御料は仕合せな者ぢや。

▲冠「仕合せと申して、見えた向きの者でござる。

▲ス「いやいや。身に付いた仕合せではない。洛中に人多いといへども、粟田口は身共でおりやる。

▲冠「すれば、粟田口は人でござるか。

▲ス「中々。

▲冠「人を粟田口と申すには、仔細ばしござるか。

▲ス「中々。仔細がおりやる。云うて聞かさう。ようお聞きやれ。

▲冠「心得ました。

▲ス「まづ都の東に粟田口といふ在所がある。その氏生まれの者は悉く粟田口でおりやるが、今度御大名衆に粟田口くらべがあつて、皆買ひ取らせられたれども、某は寸頃も良し、都の重宝にとあつて残し置かれたれども{*3}、和御料が余り欲しさうに仰しやるによつて、代物によつて買はれても参らうかと存ずる事でおりやる。

▲冠「仔細を承れば尤でござる。それならば求めませうが、代物はいか程でござるぞ。

▲ス「万疋でおりやる。

▲冠「誠に頼うだ者の、紙に包んでも万疋はする物ぢやと申されてござるによつて、万疋に求めませうが、只今にもござらうか。

▲ス「いつなりとも参らう。

▲冠「まづ和御料からおりやれ。

▲ス「まづこなたからござれ。

▲冠「それならば案内者のために身共から参らうか。

▲ス「それが良うござらう。

▲冠「さあさあ。おりやれおりやれ。

▲ス「参る参る。

▲冠「扨かやうにふと言葉を掛け同道致すも、他生の縁でがなおりやらうぞ。

▲ス「仰せらるゝ通り、他生の縁でがなござらうぞ。かう参るからは、こなたを寄り親殿と頼みまする。良い様に引き廻いて下されい。

▲冠「その分は気遣ひさしますな。扨、いづれも粟田口を御重宝なさるゝは、いかやうな事でおりやるぞ。

▲ス「只今は天下治まりめでたい御代なれば、左様の事はござらねども、もし人の御語らひ、勢などに御出なさるゝ時分、千騎万騎召し連れられうよりも、この粟田口一人御馬の先に立てば、いかなる満々たる敵も、夏の蚊や蠅を大団扇で逐ふ如く、又雪霜に水をかくるが如く、片端よりめつきめつきと滅却致し、その上いかなる悪魔閻魔でも引き退くによつての御重宝でござる。

▲冠「すればお大名の御重宝なされいで叶はぬものでおりやる。

▲ス「その通りでござる。

▲冠「さあさあ、おりやれおりやれ。

▲ス「参る参る。

▲冠「戻つて頼うだ人に今の通りを申し上げたならば、殊ない御満足であらうぞ。

▲ス「それは一段の事でござる。扨程は遠うござるか。

▲冠「もそつとぢや。随分急がしめ。

▲ス「心得ました。

▲冠「いや。何かと云ふ程にこれでおりやる。

▲ス「これでござるか。

▲冠「和御料が同道した通り申し上げう。まづそれにお待ちやれ。

▲ス「心得ました。

▲冠「申し。頼うだ人。ござりまするか。太郎冠者戻りましてござる。

▲大「ゑい。太郎冠者が戻つたさうな。太郎冠者戻つたか戻つたか。

▲冠「ござりまするかござりまするか。

▲大「ゑい。戻つたか。

▲冠「只今戻りました。

▲大「やれやれ大儀や。して云ひ付けた粟田口を求めて来たか。

▲冠「まんまと求めて参りました。

▲大「出かいた出かいた。これへ見せい。

▲冠「いや。お手へ上げるものではござらぬ。

▲大「扨粟田口は何ぢや。

▲冠「人でござる。

▲大「何ぢや。人ぢや。

▲冠「中々。

▲大「人を粟田口と云ふは、何ぞ仔細でもあるか。

▲冠「中々。仔細がござる。《粟田口の云うた通りを云うて》悉く買ひ取らせられてござれども、私の求めて来た粟田口は、寸頃も良し、都の重宝にとあつて残し置かれたれども、私の才覚を以て求めて参りました。

▲大「それは一段とでかいた。扨どこ元に置いた。

▲冠「まづ御門外に置きました。

▲大「何ぢや。門外に置いた。

▲冠「中々。

▲大「やい。

▲冠「はあ。

▲大「初めからある事は後までもあると云ふによつて。きやつが聞く様に過を云はう。

▲冠「良うござりませう。

▲大「汝はあまたに答へい。

▲冠「畏つてござる。

▲大「やいやい。居るかやい。

▲冠「はあ。

▲大「居るか。

▲冠「はあ。

▲大「床机を持て来い。

▲冠「畏つてござる。

▲大「床机床机。

▲冠「はあ。お床机でござる。

▲大「太郎冠者これへ出い。

▲冠「畏つてござる。

▲大「何と今のは聞かうか。

▲冠「夥しいお声でござるによつて、定めて承りませう。

▲大「行て云はうは、粟田口に遥々の所を太儀にこそあれ。さうあれば、こゝに粟田口の書いた物がある。これに引き合はいて見たいが、合うてくれうかと云うて問うて来い。

▲冠「畏つてござる。

▲大「ゑい。

▲冠「はあ。なうなう。おりやるか{*4}。

▲ス「これに居りまする。

▲冠「何と今のお声をお聞きやつたか。

▲ス「あれはどなたのお声でござる。

▲冠「あれが頼うだ人のお声でおりやる。

▲ス「まづお声から致いてお大名と聞こえまする。

▲冠「くわつとお大名でおりやる。扨頼うだ人仰せらるゝは、粟田口に遥々の所を太儀にこそあれ。さうあれば、こゝに粟田口の書いた物がある。これに引き合はいて見たいが合うてくれうかと仰せらるゝ。

▲ス「いかやうにも合ひませうと仰せられい。

▲冠「心得た。はあ。いかやうにも合ひませうと申しまする。

▲大「合はうと云ふか。

▲冠「左様でござる。

▲大「それならば、先度伯父者人より粟田口の書いた物をくれられた。違ひ棚にあらう程に取つて来い。

▲冠「畏つてござる。はあ。これでござるか。

▲大「おう。これこれ。書いた物は調法ぢやなあ。

▲冠「左様でござる。

▲大「さらば読うで見よう。何々。粟田口の粟田口の。これは何ぢや。

▲冠「はあ。私にも読めませぬ。

▲大「真で書いてあるによつて読めぬ。定めて書の事であらう。

▲冠「左様でござらう。

▲大「何々。粟田口の書の事。東林・東馬とて二流あるべし。きやつはいづれの流れぢや。問うて来い。

▲冠「畏つてござる。なうなう。東林・東馬とて二流あるが、いづれの流れぢやと仰せらるゝ。

▲ス「東馬の流れぢやと仰せられい。

▲冠「心得た。はあ。東馬の流れぢやと申しまする。

▲大「はあゝ。東林は庶子、東馬は総領たるべし。きやつは惣領筋ぢやなあ。

▲冠「左様でござる。

▲大「粟田口は身の古き物なり。身が古いか問うて来い。

▲冠「畏つてござる。身が古いかと仰せらるゝ。

▲ス「生まれてこの方湯風呂を使ひませぬによつて、随分古うござると仰せられい。

▲冠「心得た。《その通り云ふ》

▲大「すれば古いはずぢや。さりながら、傍近う使ふにはちとむさいなあ。

▲冠「いづれ綺麗にはござらぬ。

▲大「粟田口は鎺元黒かるべし。鎺元が黒いか問うて来い。《冠者その通り云ふ》

▲ス「常に黒いはゞきを致いて居りまするによつて、随分黒うござると仰せられい。

▲冠「心得た。《その通り云ふ》

▲大「すれば、これも黒いはずぢや。粟田口は刄の強き物なり。はが強いか問うて来い。

▲冠「畏つてござる。《その通り云ふ》

▲ス「只今お前で岩巌石なりと噛み砕いてお目に掛けうと仰せられい。

▲冠「あの、そなたが。

▲ス「中々。

▲冠「扨々強い歯を持つた人ぢや。《その通り云ふ》

▲大「あの、きやつが。

▲冠「中々。

▲大「扨々強い歯を持つた奴ぢやなあ。

▲冠「左様でござる。

▲大「粟田口には銘あるべし。銘なくば贋物たるべし。いゑ。これが一大事の事ぢや。早う問うて来い。

▲冠「畏つてござる。《その通り云ふ》

▲ス「上京と下京に姉と妹を持つてござるが、これにをなごの子が一人づゝござる。こればし姪の内でござらうかと仰せられて下されい。

▲冠「これは姪でありさうなものぢや。《その通り云ふ》

▲大「姪とも姪とも。はゝあ。諸銘は上作たるべし。すればきやつは上作物ぢやなあ。

▲冠「左様でござる。

▲大「寸は次第不同。これは問ふに及ばぬ。扨いづれも粟田口を御重宝なさるゝはいかやうな事ぢや。問うて来い。

▲冠「これは路次で承つてござるが、只今は天下治まりめでたい御代なれば。《これより前に路にて聞きし通りを云ふ》悪魔閻魔でも引き退くによつての御重宝でござると申しまする。

▲大「すれば大名の重宝せいで叶はぬものぢやなあ。

▲冠「左様でござる。

▲大「行て云はうは、粟田口に、書に悉く合うてくれて満足する。さうあれば山一つあなたに正真の粟田口を持たれたお方があるによつて、これへ同道して引き合はいて見たいが、行てくれうかと云うて問うて来い{*5}。

▲冠「畏つてござる。《その通り云ふ》

▲ス「いづくまでも御供致しませうと仰せられい。

▲冠「心得た。はあ。きやつが申しまする。いづくまでも御供致さうと申しまする。

▲大「行かうと云ふか。

▲冠「左様でござる。

▲大「それならば粟田口をこれへ出せ。

▲冠「心得ました。粟田口。あれへお出やれ。

▲ス「心得ました。

▲冠「つゝとお出やれ。

▲ス「はあ。

▲冠「粟田口。出ましてござる。

▲大「なうなう粟田口。

▲ス「はあ。

▲大「今は書と悉く合うてくれて満足する。又山一つあなたへ同道せうと云へば、行かうとあつて過分に存ずる。

▲ス「いづくへなりとも参りませう。

▲大「太郎冠者。太刀を持て。

▲冠「畏つてござる。はあ。お太刀を持ちましてござる。

▲大「これへおこせ。

▲冠「畏つてござる。

▲大「扨、汝をも供に連れうずれども、あの粟田口一人供に連るれば千騎万騎に向かふと聞いた。そちは草臥れにもあらう程に、行て休め。

▲冠「畏つてござる。

▲大「ゑい。

▲冠「はあ。

▲大「粟田口。お立ちやれ。

▲ス「畏つてござる。

▲大「さあさあ。おりやれおりやれ。

▲ス「参りまする参りまする。

▲大「扨粟田口といふは、そちが名か。

▲ス「粟田口は在名でござる。

▲大「名は何と云ふぞ。

▲ス「東馬が流れでござるによつて、名をば東馬乃丞と申しまする{*6}。

▲大「むゝ。すれば粟田口と呼うでも又東馬乃丞と呼うでも答ふるぢやまで{*7}。

▲ス「中々。答へまする。

▲大「答へまする答へまする。《笑うて》扨も扨も粟田口と申すものは、ものをはつしはつしと申して、近頃面白い者でござる。路次すがらきやつが名を呼うで参らうと存ずる。いや。なうなう。

▲ス「はあ。

▲大「路次すがらそなたの名を呼うで行かう程に、答へさしめ。粟田口。

▲ス「畏つてござる。

▲大「粟田口。おりやれ。

▲ス「参りまする。

▲大「東馬乃丞はわするか。

▲ス「これに候ふ。

▲大「粟田口。

▲ス「お前に。

▲大「東馬乃丞。

▲ス「これに候ふ。{*8}

▲大「粟田口{*10}。

▲ス「お前に候ふ。

▲大「東馬乃丞。

▲ス「これに候ふ。

▲大「粟田口。

▲ス「お前に。

▲大「東馬乃丞。

▲ス「これに候ふ。{*11}

▲大「《又幾度も返して、段々詰めて、笑うて》扨も扨も面白い事かな。かやうに致いて参るならば、いつ着くともなう参り着くでござらう。《この言葉の内、「良い時分でござる。外さう{*12}」と云うて粟田口は引つ込む》
粟田口。東馬乃丞。いや。これこれ。それへ粟田口は早走らぬか。ぢやあ。いや。なうなう、そこ元へ東馬乃丞は付かぬか。ぢやあ。粟田口粟田口。行き来の人に東馬乃丞。太刀も刀も吸はれたり。よくよく物を案ずるに、今の奴は都の誑しめにてありけるとや。南無三宝。しなしたるなりかな。いゑ。その粟田口。どれへ行くぞ。捕らへてくれ。やるまいぞやるまいぞ。

校訂者注

　1：底本は、「▲〇「」。

　2：底本は、「▲冠「」。

　3：底本は、「残し買かれたれども」。

　4：底本は、「おやるか」。

　5：底本は、「云うと問ふて来い」。

　6：底本は、「東馬乃る」。

　7：底本は、「答ゆるぢ丞と申しますやまで」。

　8：底本は、「▲ス「これに候。《いくつも云ふて。段々つめて。笑ふ。》」。

　9：底本は、「大太刀」。

　10：底本は、「あはだあはだ口」。

　11：底本は、「▲ス「これに候。《又幾度も返して。段々詰めて。笑ふて。》」。

　12：底本は、「さつそう（外さう歟）」。