地蔵舞(ぢざうまひ) 大蔵流本

▲シテ「《次第》我は仏と思へども、我は仏と思へども、人は何とか思ふらん。
これは坂東方の出家でござる。某未だ上方を見物致さぬによつて、この度思ひ立ち都へ上り、こゝかしこを一見致し、それより西国までも廻国致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に皆人の申さるゝは、若い時旅をせねば老いての物語がないと仰せらるゝによつて、ふと思ひ立つてござる。これはいかな事。程も参らぬに早日が暮るゝ。この辺りに在所はないか知らぬ。つゝとあれに火の光が見ゆる。さらばあれへ行て宿を取らう。これと存じたならば、あとの宿で宿を取らうものを。近頃残念な事を致いた。いや。参る程にこれに高札がある。読うで見よう。何々。往来の者に宿貸す事堅く禁制。これはいかな事。往来の者とは則ち我等如きの者の事でござるが。何と致さう。いや。知らぬ体で案内を乞はう。物申。案内申。
▲アト「いや。表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲シ「邏斎申さう。
▲ア「いや。こゝな御出家は。邏斎を乞はう者が案内を乞ふものでおりやるか。
▲シ「行き暮れた修行者でござる。一夜の宿を貸して下されい。
▲ア「近頃易い事なれども、この宿の入口に高札があつたを見やらなんだか。
▲シ「いゝや。見ませなんだ。
▲ア「この所の大法で、方々の様な往来の人に宿貸す事堅く禁制でおりやる。
▲シ「御大法はさる事なれども、行き暮れた者でござるによつて、何とぞ一夜の宿を貸して下されい。
▲ア「いやいや。どうあつてもならぬ事でおりやる。
▲シ「すればどうあつてもなりませぬか。
▲ア「はて扨くどい事を仰しやる。ならぬと云ふに。
▲シ「それならば良うござる。これはいかな事。扨々苦々しい事ぢやが何と致さう。いや。思ひ出いた事がある。申し。ござるか。ござりまするか。
▲ア「誰ぢや。
▲シ「私でござる。
▲ア「そなたはまだ行かぬか。
▲シ「かう参りまするが、何とぞこの笠を一夜預かつて下されい。
▲ア「それはそなたの物ぢやによつて、和御料の行方へ持つて行たが良うおりやる。
▲シ「さればその事でござる。私は出家の事でござれば、野に伏しても山に伏しても良うござるが、この笠は師匠より譲られた笠でござるによつて、雨露に打たせても又は人に誘はれてもなりませぬ程に、何とぞ一夜預かつて下されい。
▲ア「これは奇特な事ぢや。それならば笠は預かつておまさう程に、どれへなりとも置いて行かしめ。
▲シ「これは忝うござる。それならばこれへ置きませう。
▲ア「おう。その辺りが良からう。
▲シ「それならばこれに置きませう。扨明日は早く取りに参りませう。
▲ア「明日は早く取りにわたしめ。
▲シ「もうかう参りまする。
▲ア「もはやおりやるか。
▲シ「さらばさらば。
▲ア「良うおりやつた。
▲シ「はあ。《アト太鼓座へ引つ込む》
なうなう。嬉しや。まんまと宿を借り済まいた。辺りに人はないか知らぬ。誰も居らぬ。さらば入らう。
▲ア「表の座敷に人影がさすが。誰も行かぬか。何ぢや。誰も行かぬ。それならば盗人であらう。いや。なうなう。こゝな御出家は、人の座敷へなぜに案内なしに入つておりやるぞ。
▲シ「こなたに宿を借りは致さぬ。なお構やつそ。
▲ア「こゝな人はむさとした。この座敷に居て身共に宿を借らぬといふ事があるものか{*1}。
▲シ「そなたは最前この笠を一夜預かりは召されぬか。
▲ア「笠は預かつたれどもそなたに宿は貸さぬ。
▲シ「この笠の下は今夜一夜は身共が儘ぢや。笠にこそ宿を借りたれ。和御料に宿は借らぬ。なお構やつそ。
▲ア「むゝ。御坊は面白い事を云ふが、それならば笠より外へ出た処は何とするぞ。
▲シ「それは切つてなりとも削つてなりとも取らしめ。
▲ア「それならば云はう。そりやこちらが出たわ。
▲シ「出はすまい。
▲ア「又こちらが出たわ。
▲シ「出はすまい。《幾つも云うて》
▲ア「扨も扨も面白い出家でござる。大法を破つて宿を貸さうと存ずる。なうなう。
▲シ「何事でござる。
▲ア「大法を破つて宿を貸す程に、ゆるりと休ましめ。
▲シ「それは忝うござる。
▲ア「さりながら、大法を破つて宿を貸す事ぢやによつて、必ず喧しう仰しやるな。
▲シ「畏つてござる。《アト引つ込み太鼓座に着く。シテ寝て》
はゝあ。よう寝た事かな。いや。後夜起きの時分ぢや。勤めを致さう。南無帰命礼四方。にやもにやもにやも。《経を読む》
▲ア「これはいかな事。最前の出家が何やら喧しう申す。なうなう。御坊は何を喧しう仰しやるぞ。
▲シ「勤めを致す。にやもにやも。
▲ア「いや。勤めもならぬ。
▲シ「はあ。勤めもなりませぬか。
▲ア「中々。
▲シ「それならば又伏せりませう。
▲ア「それが良からう。《シテ又寝る》
余り夜寒にござる程に、御出家に御酒を一つ申さうと存ずる。いや。なうなう御出家。
▲シ「いや。もう喧しう申しますまい。
▲ア「その事ではおりない。まづ起きさしめ。
▲シ「何事でござるぞ。
▲ア「今夜は余り夜寒におりやる程に、御酒を一つ申さうと存じて持つて参つた。
▲シ「これは近頃忝うはござれども、私は飲酒戒を保ちまするによつて、酒を呑む事はなりませぬ。
▲ア「何ぢや。飲酒戒を保つ。
▲シ「中々。
▲ア「扨々それは奇特な事ぢや。それならばかう持つて参らう。
▲シ「申し申し。
▲ア「これを置いて参らう。
▲シ「それがあるによつての事でござる。まづこの方へござれ。
▲ア「心得た。
▲シ「扨只今も申す通り、飲酒戒を保ちまするによつて酒を呑む事はなりませぬが、吸ふと申しては苦しうござりませぬ。
▲ア「誠に吸ふと云うては苦しうあるまい。一つ吸はしめ。
▲シ「それならば吸ひませうか。
▲ア「身共が酌を致さう。
▲シ「これは慮外にござる。
▲ア「恰度吸はしめ。
▲シ「おう。恰度ござる。
▲ア「誠に恰度あるわ。
▲シ「さらば吸ひませう。
▲ア「それが良からう。
▲シ「扨も扨も結構な御酒でござる。今一つ吸ひませう。
▲ア「いか程なりとも吸はしめ。又某が注いでやらう。
▲シ「これは度々慮外にござる。おう。又恰度ござる。
▲ア「又恰度ある。
▲シ「扨々結構な御酒でござる。お蔭で寒さを忘れました。扨こなたは参りませぬか。
▲ア「某もちと戴きませう。
▲シ「これは慮外でござる。私が酌を致しませう。
▲ア「それならば注いで下されい。
▲シ「心得ました。
▲ア「おう。恰度ござる。
▲シ「誠に恰度ござる{*2}。
▲ア「扨一つ受け持つた程に、肴をなされい。
▲シ「易い事。経を読みませう。
▲ア「何と経が肴になるものでござるぞ。何ぞ小舞を舞はせられい。
▲シ「それならば舞ひませう程に、謡うて下されい。
▲ア「心得ました。《「土車」など謡ふ》
▲シ「やんややんや。
▲ア「さらば骨折りに又進じませう。
▲シ「戴きませう。ちと謡はせられい。
▲ア「心得ました。《小謡》
▲シ「こなたは参る。私は吸ふでござる。
▲ア「その通りでござる。
▲シ「扨又これを進じませう。
▲ア「これへ下されい。
▲シ「又酌を致しませう。
▲ア「謡はせられい。
▲シ「心得ました。《小謡》
▲ア「上々の酒盛になりました。
▲シ「誠に上々の酒宴になつてござる。
▲ア「扨最前のは余り短うて{*3}見足りませぬ程に、今一つ長い事を舞はせられい。
▲シ「それならばこゝに私に似合うた舞がござる。これを舞はせませう程に、こなたは囃いて下されい。
▲ア「何と申して囃しまするぞ。
▲シ「地蔵舞を見まいな見まいなと云うて囃いて下されい。
▲ア「その分の事でござるか。
▲シ「中々。
▲ア「大方覚えました。囃しませう程に早う舞はせられい。
▲シ「心得ました。地蔵舞を見まいな見まいな。
▲ア「地蔵舞を見まいな見まいな。
▲シ「地蔵の住む所は伽羅陀山に安養界、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天に山都率天。廿五有を廻つて罪の深き衆生を、錫杖を取り直し掻い掬うてはぼつたり、突い掬うてはひつたり。昔釈迦大師の忉利天へ上つて御説法の折節、地蔵坊を召されて忝くも如来の黄金の御手を差し上げ、地蔵坊がつむりを三度までさすつて、善哉なれや地蔵坊、善哉なれや地蔵坊、末代の衆生を地蔵に預け置くなりと仰せを受けてこの方走り廻り候へど、誰やの人が憐れみて茶の一服もくれざれば、草臥れ果つるお地蔵、この御座敷へ参りてあひの物で十盃、三度入り{*4}で十四盃、縁日に任せて廿四盃呑うだれば、糀が花が目に上がり、左へはよろよろ右の方へはよろよろ、よろよろよろとよろめけば慈悲の涙せきあへず、衣の袖を顔に当て、衣の袖を顔に当てゝ、六道の地蔵の酔ひ泣きしたを御覧ぜ、六道の地蔵の酔ひ泣きしたを御覧ぜ。《しやぎり留め》

校訂者注
 1:底本は、「事がるものか」。
 2:底本は、「丁度座る」。
 3:底本は、「見うて」。
 4:底本は、「三斗入り」。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の四 五 笠の下」(国立国会図書館D.C.

前頁  目次  次頁