あかゞり 大蔵流本

▲主「これはこの辺りに住居致す者でござる。今日は山一つあなたへ茶の湯に参る。それにつき太郎冠者を呼び出いて申し付けう。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。今日は山一つあなたへ茶の湯に行くが、やうやう時分も良いによつて、行かう程に供をせい。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「さあさあ来い来い。
▲シ「参りまする参りまする。
▲主「扨茶の湯といふものは殊の外難しいものぢやによつて、掃除などをこゝかしこに気を付けて見習うて置け。
▲シ「何が扨私も随分気を付ける事で。
▲主「いや。来る程にいつもの溝川へ出た。
▲シ「誠に川へ出ました。
▲主「上が降つたと見えて水が増した。
▲シ「仰せらるゝ通り、上が降つたと見えて殊の外水が増しましてござる。
▲主「さあさあ。身共を負うて渡れ。
▲シ「畏つてはござりまするが、私は持病に皸がござつて、水を見ましてさへ六根へしみ渡りまするによつて、これは御免なされて下されい。
▲主「これはいかな事。汝を連るゝは何のためぢや。この様な時のためではないか。いかに皸があればとて、こればかりの川を負ひ越す事のならぬといふ事があるものか。どうあつても負うて渡れ。
▲シ「いかやうに仰せられても、こればかりは幾重にも御免なされて下されい。
▲主「扨々これは苦々しい事ぢや。と云うて行かずには居られぬ。是非に及ばぬ。そちを身共が負うて渡らうが、只はならぬ。聞けば汝はいづれもの初心講へ交じつて推参を云ふが、口が良いと聞いた。皸といふ題で歌を一首詠うだならば、身共が負ひ越してやらう。
▲シ「歌は詠みませうが、こなたに負はるゝ事は許させられて下されい。
▲主「その様な事を云はずとも、まづ一首詠め。
▲シ「心得ました。あかゞりは春は越路へ帰れかし冬こそあしのもとに住むとも。
▲主「聞いたよりは一段と口が良い。さりながら一首ばかりで負ふ事はならぬ程に、今一首詠うだならば負ひ越してとらせう。
▲シ「歌はいか程なりとも詠みませうが、負はるゝ事は許させられい。
▲主「まづ一首詠め。
▲シ「畏つてござる。あかゞりは弥生の末のほとゝぎすうづき廻りて音をのみぞなく。
▲主「天神ぞあるまい。さあさあ。負ひ越してとらせう。これへ負はれい。
▲シ「最前も申す通り、負はるゝ事は御免なされて下されい。
▲主「いやいや。汝を負ふとは思はぬ。天神を負ひ奉ると思ふ程に、早う来て負はれい。
▲シ「それならば許させられい。負はれまするぞ。
▲主「早う負はれい。
▲シ「必ず私を負ふと思し召すな。天神を負ふと思し召しませ。
▲主「中々。汝を負ふとは思はぬ。さらば渡るぞ。
▲シ「早う渡らせられい。
▲主「やつとな。さればこそ浅いわ。
▲シ「誠に浅うござる。
▲主「やつとな。おう。ちと深うなつた。
▲シ「その辺り{*1}は何とやら深さうにござる。この方を渡らせられい。
▲主「心得た。やつとな。おう。余程深うなつた。
▲シ「殊の外深うござる。はまらせらるゝな。
▲主「はまる事ではない。やい太郎冠者。この深い所で今一首詠め。
▲シ「向かうへ着いてから詠みませう。何とこの様な所で詠まるゝものでござるぞ。
▲主「いや。こゝ元で詠まずばこの川へはめてのけうぞ。
▲シ「あゝ。詠みませう。
▲主「早う詠め。
▲シ「あかゞりは恋の心にあらねどもひゞにまさりて悲しかりけり。
▲主「一段と良う詠うだ。やい。聞くか。
▲シ「何事でござる。
▲主「昔より下人が主を負うたゝめしはあれども、主が下人を負うたゝめしがない。おのれが様な奴はまづかうしてのけう。《と云うて川へはめて引つ込む》
▲シ「あゝ。悲しや悲しや。足を濡らすまいと思うて頭まで濡らいた。あゝ。くつさめくつさめ。

校訂者注
 1:底本は、「其通り」。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の四 六 あかゞり」(国立国会図書館D.C.

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