舟ふな(ふねふな) 大蔵流本

▲アト「これはこの辺りに住居致す者でござる。この間はいづ方へも出ねば、心が屈して悪しうござるによつて、今日はどれへぞ遊山に出ようと存ずる。まづ太郎冠者を呼び出し申し付けう。《常の如く》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。この間はいづ方へも出ねば心が屈して悪しいによつて、今日はどれへぞ遊山に出ようと思ふが、何とあらうぞ。
▲シテ「御意なくば申し上げうと存ずる処に、一段と良うござりませう。
▲主「さりながら、この辺りは大方見尽くいたによつて、今日はどれへぞ珍しい所へ行きたいものぢや。
▲シ「誠にこの辺りは大方御見物なされましたによつて、今日はどれへぞ珍しい所へお供致したうござるが、どこ元が良うござらうぞ。
▲主「汝、分別をして見い。
▲シ「さればどの辺りが良うござらうぞ。
▲主「どこ元が良からうぞ。
▲シ「いゑ。西の宮は何とでござる。
▲主「扨その西の宮は面白い所か。
▲シ「つゝと面白い所でござる。
▲主「それならば追つ付けて行かう。さあさあ来い来い。
▲シ「参りまする参りまする。
▲主「その西の宮といふ所は景の良い所か。
▲シ「浦山をかけてござれば、浦で網を引かせられうとも、又山で狩りをなされうとも、思し召す儘の所でござる。
▲主「それは一段の所ぢや。いや。何かと云ふ内に、これは大きな川へ出たが。これは何といふ川ぢや。
▲シ「こなたはこの川を御存じござらぬか。
▲主「いゝや。何とも知らぬ。
▲シ「これは神崎の渡しと申して、隠れもない大河でござる。
▲主「扨これは乗る物でもあるか。但し徒歩渡りか。
▲シ「いつも乗る物がござる。見て参りませう。
▲主「早う見て来い。
▲シ「畏つてござる。いつもこの辺りに乗る物があるが。今日は何として見えぬ知らぬ。いや。つゝとあれに見ゆる。急いで呼ばう。ほゝい。ふなやい。ふなやい。
▲主「やいやい。ふなと云うては来ぬ程に、ふねと云うて呼べ。
▲シ「こなたのご存じない事でござる。私に任せて置かせられい。ほゝい。ふなやい。ふなやい。
▲主「やいやい。扨々汝はむざとした。ふなと云うては来ぬ程に、ふねと云うて呼べと云ふに。
▲シ「私の前では苦しうござらぬが、各の前でその様な事を仰せられたならば、定めて恥をかゝせられう。
▲主「恥をかゝうとは。
▲シ「古歌にもふなとこそ読うでござれ。ふねとはござりますまい。
▲主「いや。推参な。おのれが分で古歌だてを云ひ居る。古歌にあらば読め。
▲シ「心得ました。ふな出して跡はいつしか遠ざかる須磨の上野に秋風ぞ吹く。何とふなではござらぬか。
▲主「それは定めてふねでがなあらう。
▲シ「こなたの分と致いて、古歌を直させらるゝ事はなりますまい。
▲主「それならばこの方にはふねといふ古歌がある。読うで聞かせう。よう聞け。
▲シ「畏つてござる。
▲主「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行くふねをしぞ思ふ。何とふねではないか。
▲シ「それは定めてふなでがなござらう。
▲主「おのれが分として、古歌を直す事はなるまい。
▲シ「私の方にはまだふなと詠うだ古歌がござる。
▲主「あらば読め。
▲シ「ふな競ふ堀江の川の水際に来居つゝ鳴くは都鳥かも。何とふなではござらぬか。
▲主「それも定めてふねでがなあらう。
▲シ「こなたの分として、古歌を直させらるゝ事はなりますまい。
▲主「某が方にもまだふねと詠うだ古歌がある。
▲シ「あらば読ませられい。
▲主「さりながら、これはちと早う読まねばならぬ。
▲シ「早うなりとも遅うなりとも読ませられい。
▲主「心得た。ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行くふねをしぞ思ふ。何とふねではないか。
▲シ「扨はこなたの事でござる。
▲主「こなたの事とは。
▲シ「褻にも晴にも歌一首と申すが、それは最前の歌でござる。
▲主「これはいかな事。最前のは人丸の歌。今のは猿丸太夫の早歌と云うて、作者が違うてある。
▲シ「いかに作者が違うても、歌は一つでござる。それまでもない事。かなたの着き場とこなたの着き場とは何と申す。
▲主「それは、ふふ。ふね着きよ。
▲シ「ふな着きとこそ申せ。ふね着きとは申しますまい。その上私の方にはまだござる。
▲主「あらば読め。
▲シ「心得ました。ふな人は誰を恋ふとか大島のうら悲しげに声の聞こゆる。何とふなではござらぬか。
▲主「ちとそれに待て。
▲シ「畏つてござる。
▲主「これはいかな事。太郎冠者といらざる古歌詮索を致いて、ふねと申す古歌にほうど詰まつた。何と致さう。いや。謡で詰めうと存ずる。やいやい。
▲シ「何事でござる。
▲主「某が方にはふねと謡ふ謡があるが、汝が方にもあるか。
▲シ「こなたの方にござれば、私が方にもござる。あらば謡はせられい。
▲主「心得た。山田矢橋の渡し舟の、夜は逢ふ人なくとも。
▲シ「いや。一段の事を謡ひ出された。後で詰めうと存ずる。
▲主「月の誘はゞおのづから、ふねもこがれて出づらん。
▲シ「ふ。なう主殿。
▲主「何と。
▲シ「ふな人もこがれ出づらん。
▲主「何でもない事。しさり居れ。
▲シ「はあ。
▲主「ゑい。
▲シ「はあ。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の四 八 舟ふな」(国立国会図書館D.C.

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