武悪(ぶあく) 大蔵流本

▲主「誰そ居るかやい。誰も居らぬか。次には誰も居ぬか。
▲冠者「いや。呼ばせらるゝさうな。はあ。呼ばせられまするか。
▲主「声をばかりに呼ぶに。どれに居た。
▲冠「お次に居ましてござるが、お声を承りませなんだ。
▲主「次には誰も居らぬか。
▲冠「他に誰も居りませぬ。
▲主「それならば云ひ付くる事がある。これへ出い。
▲冠「畏つてござる。
▲主「また出い。
▲冠「心得ました。
▲主「つゝと出い。
▲冠「はあ。
▲主「例の不奉公者の武悪めは何としたぞ。
▲冠「さればその事でござる。今朝も人をおこしましたが、気色も段々と快うござるによつて、この間には出勤をも致さうと申し越しまして御ざる。
▲主「武悪が執りなし、聞き事におりやる。
▲冠「はあ。
▲主「今日は汝に云ひ付くる程に、成敗して来い。
▲冠「畏つてはござれども、あの武悪が事は、幼少より召し使はれた者の事でござるによつて、又異見をも加へませう程に、何とぞこの度は御免なされて下されい。
▲主「それは汝が云ふまでもない。幼少より使うた者なれば、今日は心も直るか明日は出勤をもするかと思うて居れば、日に増し不奉公が度重なつて、もはや堪忍ならぬによつて汝に云ひ付くる。是非とも成敗して来い。
▲冠「お言葉を返しまするは何とも慮外にはござれども、武悪が事におきましては幾重にもお詫び言を申し上げまする。
▲主「むゝ。すれば汝は武悪に頼まれたな。
▲冠「いや。左様ではござらぬ。
▲主「良うおりやる。
▲冠「はあ。
▲主「この上は武悪を成敗せうともさせうず。又せずともさせうが、ていと仰しやるまいか。
▲冠「まづ物を云はせられい。
▲主「物を云はせいとは。
▲冠「成敗致しませう。
▲主「いや。おしやるまいものを。
▲冠「いや。致しませう。
▲主「それは誠か。
▲冠「誠でござる。
▲主「真実か。
▲冠「一定でござる。
▲主「さうなうては叶はぬ事ぢや。これは重代なれどもこれを貸して遣る程に、易々と成敗して来い。
▲冠「かやうにお受けを申しますからは、易々と成敗致しませう。
▲主「早う戻れ。
▲冠「心得ました。
▲主「ゑい。
▲冠「はあ。扨も扨も苦々しい事でござる。誠、かうござらうと存じて色々異見をも加へてござれども、承引致さいで今この仕儀になつてござる。是非に及ばぬ。まづそろりそろりと参らう。扨あの武悪は日頃心得た者でござるによつて、参るぞ。かゝるぞではなるまいが。何と致さう。いや。たばかつて討たうと存ずる。いや。参る程にこれぢや。お太刀を見付けられてはなるまい。隠いて案内を乞はう。物申。案内申。武悪は内に居りやるか。
▲シテ「はあ。表に物申とあるが。あれは確かに太郎冠者が声でござる。又叱りにおこされたものであらう。さりながら、太郎冠者とは日頃申し交はいた事もござるによつて、逢うても苦しうあるまいと存ずる。
▲冠「物申。
▲シ「案内とは誰そ。
▲冠「武悪は内に居りやるか。
▲シ「さう云ふは太郎冠者ではないか。
▲冠「さう云ふは武悪ではないか。
▲シ「ゑい。太郎冠者。
▲冠「ゑい。武悪。
▲シ「和御料ならば案内に及ばうか。つゝと通りはせなんだぞ。
▲冠「さうは思うたれども、もし客ばしあらうかと思うて、それ故案内を乞うておりやる。
▲シ「それは念の入つた事ぢや。扨頼うだ人のご機嫌は何とあるぞ。
▲冠「さればその事ぢや。今朝も今朝とてお尋ねなされたによつて、気色も段々快うござるによつて、近々には出勤も致さうと申し越しましたなぞと申し上げたれば、殊ないご機嫌でおりやつた。
▲シ「それは近頃満足致す。和御料がお側に居てお執り成しを云うてくるゝによつて、心長う養生をして、この様な満足な事はおりないぞ。
▲冠「それはそつとも気遣ひお召さりやるな。さりながら、そなたも段々気色も良さゝうな程に、早う出勤をしたならば良からう。
▲シ「中々。某も大方快い程に、近々には出勤をもするであらうぞ。
▲冠「それが良からう。
▲シ「扨今は何と思うておりやつたぞ。
▲冠「只今参るも別なる事でもおりない。そなたに注進があつて参つた。
▲シ「それは心元ない。いかやうな事でおりやる。
▲冠「いやいや。そつとも気遣ひな事ではない。頼うだ人、今晩俄かに客を得させらるゝが、肴にはつたと事を欠かせられた。そなたは時ならず川魚を獲つて上ぐるによつて、それを獲つて上げさせ、鼻に当てゝ出勤をもしたならば、いよいよ御首尾も良からうと思うてその注進に参つた。
▲シ「やれやれ。ようこそ知らせておくりやつたれ。幸ひ裏に生簀程の所があるが、これに魚は夥しうある。獲つて上げう程に、まづ内へ入つて一盃呑むまいか。
▲冠「いやいや。内も忙しい程に、早う獲つて上げさしめ。
▲シ「それならばまづそなたからおりやれ。
▲冠「いやいや。不案内な程に和御料から行かしめ。
▲シ「それならば身共から参らう。さあさあ。おりやれおりやれ。
▲冠「参る参る。
▲シ「最前も云ふ通り、和御料がお側に居て色々とお執り成しを云うておくりやるによつて、心長う養生をしてこの様な満足な事はおりないぞ。
▲冠「それは身共が良い様に申し上ぐるによつて、少しも気遣ひさしますな。さりながら、大方良さゝうなによつて、少しも早う出勤をさしめ。
▲シ「何が扨この間には出勤をするであらう。いや。来る程にこれでおりやる。
▲冠「はあ。この池にも魚が居るか。
▲シ「見た処は小さい池なれども魚は夥しうある。しいしいしい。あれあれ。あの如く魚はある事ぢや。
▲冠「誠に夥しい事ある。扨これは何ぞ道具でもいるか。
▲シ「いやいや。別に道具はいらぬ。押し草といふ事をして獲る程に、そなたも這入つて獲らしめ。
▲冠「いやいや。身共は戻ると{*1}その儘お前へ出ねばならぬ程に、足を濡らいてはならぬ。和御料ばかり這入つて獲らしめ。
▲シ「それならば某ばかり這入つて獲らう程に、そなたはそれで草を集めてくれさしめ。
▲冠「心得た。早う這入らしめ。
▲シ「心得た。やつとな。しいしいしい。あれあれ。あれへも行くわ。
▲冠「心得た心得た。がつきめ。やるまいぞ。
▲シ「戯れ事をすな。しいしいしい。
▲冠「うろたへ者。御太刀ぢやが見知らぬか。
▲シ「誠に。見れば御太刀ぢや。すれば汝は誠、討ちに来たか。
▲冠「御意で討ちに来た。覚悟せい。
▲シ「まづ待て。
▲冠「待てとは。
▲シ「物を云はせい。
▲冠「物を云はせいとは。
▲シ「さればその事ぢや。一旦のお腹立ちは御尤なれども、御相口を以てお詫び言を申し、又ともどもお詫び言を云うてくれうそちが、易々とお受けを申して討ちに来る所存は、何とも聞こえぬ事でおりやる。
▲冠「それは汝が云ふまでもない。御相口を以てお詫び言を申し、某もともどもお詫び言を申し上げたれども、そちが不奉公が度重なつたによつて、汝を成敗せぬにおいては身共までもお手討になさるとのお事ぢや。背に腹は替へられず討ちに来た。とても逃れぬ処ぢや。尋常に討たれい。
▲シ「まづ待て。
▲冠「待てとは。
▲シ「それ程にまで思し召し詰めさせられた事ならば、なぜに宿で知らせてはくれぬぞ。宿で知らせたならば、妻子とも暇乞ひをし、又そちにも盃をして、やい武悪。尋常に腹を切れ。介錯を某がして遣らうなどゝ云ふそちが、たばかつて討つ所存は聞こえぬ事でおりやる。
▲冠「それも汝に習はうか。宿へ知らせたうはあつたれども、宿で知らせたならば、妻子とも名残惜しからうず。その上汝は日頃心得た者ぢやによつて、参るぞ。かゝるぞと云うて、討ち損なうては頼うだ人のお名までも出ると思うて、たばかつて討ち、後は良い様に弔うてとらせう程に、尋常に討たれい。
▲シ「またそのつれな事を云ふか。御意で討ちに来た者に、何しに手向かひをするものぢや。こゝをよう聞いてくれい。某もこの辺りで武悪武悪と云うて人に黒面をも見知られた者が、あ。武悪こそ太郎冠者にたばかられ、溝川へほつ込うで、蛙などを踏み潰いた様に闇々と討たれたと云はれう事ならば、いかほどそちが弔うてくれても、そつとも受くる事ではない。恨みはそちにとゞまつてあるぞ。《泣くなり》
▲冠「やあら。汝は日頃の口程にもない未練な事を云ふものぢや。かう云へば命を惜しむに当たる。とても逃れぬ処ぢや。尋常に斬られい。
▲シ「まだ云ひたい事もあれども、とやかう云へば命を惜しむに当たると云ふによつて、今それへ上がつて尋常に討たれう。さあさあ。おのれが斬りたからう方より斬り居れいやい。《太郎冠者も太刀振り上げて見て泣く》
▲冠「やいやい。汝をひと討ちと思うたれども、その覚悟極めたなりを見たれば、日頃の未練が起こつて太刀の打ち付けう所がない。命を助くるぞ。
▲シ「又人にものを思はする様な事を云ふか。おのれが斬りたからう方から斬り居れいやい斬り居れいやい。
▲冠「やいやい。何しに偽りを云ふものぢや。則ち御太刀も鞘に納むるぞ。
▲シ「それは誠か。
▲冠「誠ぢや。
▲シ「真実か。
▲冠「一定ぢや。
▲シ「ひとへに命の親と存ずる。
▲冠「あゝ。勿体ない。その手を取つて立たしめ。
▲シ「心得た。
▲冠「扨これからはそなたにちと頼み事がある。
▲シ「それはいかなる事ぢや。
▲冠「頼うだ人へは武悪をまんまと手に掛けましたと申し上げう所で。そなたは見えぬ国へ行てくれずばなるまい。
▲シ「何が扨、見えぬ国へも行かうず。身共が良い手本ぢやによつて、そなたも随分御奉公を大切に勤めさしめ。
▲冠「中々。大切に勤むるであらう。和御料も随分息災におりやれ。
▲シ「何と妻子と掛からせらるゝ事もあるまいか。
▲冠「いや。中々妻子に掛からせらるゝ程の事ではあるまい。その分は気遣ひさしますな。
▲シ「それならば心安い。扨見えぬ国へ行たならば、これが正真の生き別れといふものぢや。
▲冠「誠に生き別れといふものぢや。
▲シ「さりながら、命さへあらば又逢ふ事もあらうぞ。
▲冠「中々。又逢ふ事もあらうとも。
▲シ「まづそれまではさらば。
▲冠「さらば。
▲二人「さらばさらばさらば。
▲冠「あゝ。致すまいものは宮仕へでござる。武悪をひと討ちと存じたれども、きやつが覚悟を極め首差し延べた処を見たれば、日頃の未練が起こつて命を助くる事は助けてござるが、これからは某が身の上が大事ぢや。まづそろりそろりと参らう。さりながら頼うだ人はつゝと正直なお方ぢやによつて、面白可笑しう申したならば誠になされぬと申す事はござるまい。いや。何かと云ふ内に戻り着いた。申し。頼うだお方ござりまするか。太郎冠者が戻りましてござる。
▲主「いや。太郎冠者が戻つたさうな。太郎冠者戻つたか戻つたか。
▲冠「ござりまするかござりまするか。
▲主「ゑい。戻つたか。
▲冠「只今戻りました。
▲主「扨かの武悪めは成敗したか。
▲冠「まんまと討ちましてござる。
▲主「や。まんまと討つた。
▲冠「中々。
▲主「それは誠か。
▲冠「誠でござる。
▲主「真実か。
▲冠「真実でござる。
▲主「やれやれ。それはでかいた。身共は汝を遣つた後で、殊の外気遣ひをしたやい。
▲冠「それは又いかやうの事でござる。
▲主「あの武悪めは日頃心得た者ぢやによつて、参るぞ。かゝるぞで討ち損なうては外聞も悪いと思うて。いくばくか気遣ひにあつたいやい。
▲冠「私もぬかる事ではござらぬ。溝川へほつ込うで、たばかつて討ちましてござる。
▲主「何ぢや。たばかつて溝川へほつ込うで討つた。
▲冠「中々。
▲主「それはでかいた。扨その太刀の切れ味は何とあつたぞ。
▲冠「お大事になされませい。は。只、水などへ打ち込うだ様に、手筒に覚えがござりませぬ。
▲主「さうであらう。親者人のわざよしぢやと云うて譲られた。
▲冠「定めて左様でござらう。
▲主「扨武悪程の者なれども、今日は手討にせうか。明日は汝に云ひ付けて成敗させうかと思うて居たれば、何やら胸の内へ打ち込うだ様にあつたが、今日汝が成敗したといふ事を聞いたれば、心が清々としたいやい。
▲冠「御尤にござる。
▲主「この様な心面白い時は遊山に出よう。
▲冠「良うござりませう。
▲主「東山へ行かう。
▲冠「尚々でござる。
▲主「さあさあ来い来い。
▲冠「参りまする。
▲主「扨武悪が最期は何とあつたぞ。
▲冠「さすがは日頃の口程ござつて、首差し延べて尋常に討たれましてござる。
▲主「いかさま。さうであらう。身共に逢ひたいとは云はなんだか。
▲冠「何とぞ今一度お目に掛かりたいお目に掛かりたいと申しましてござる。
▲主「きやつは幼少より使うた者ぢやによつて、定めてさうであらう。{*2}
▲シ「《主廻り掛かると一の松にて名乗る》太郎冠者が蔭で命を助かる事は助かつてござるが、これと申すも日頃清水の観世音を信仰致すによつて、その御利生であらうと存ずる。又見えぬ国へ行たならば再び参詣致す事もなるまいによつて、これよりお暇乞ひに清水へ参らうと存ずる。《と云ひ舞台へ入る時、主に行き逢ふ。シテは袖にて顔を隠し一の松に屈みて居る》
▲主「太郎冠者。そこをのけ。
▲冠「何を見させらるゝ。
▲主「今それへ武悪が出た。行て見て参らう。
▲冠「いや。申し。武悪は私が手に掛けましてござる。
▲主「何ぢや。手に掛けた。
▲冠「中々。私の手に掛けました者が、何と出るものでござる。
▲主「いやいや。今のは確かに武悪であつた。行て見て参らう。
▲冠「いや。申し。私を連れさせらるゝは何のためでござる。この様な時のためではござらぬか。私が見て参りませう{*3}。
▲主「それならば汝に云ひ付くる程にきつと見て来い。
▲冠「畏つてござる。扨々むざとした奴ぢや。どこ元に居る事ぢや知らぬ。やい。こゝなうろたへ者。
▲シ「面目もおりない。
▲冠「面目もないと云うて。何としてこれへ出たぞ。
▲シ「さればその事ぢや。そなたの蔭で命を助かる事は助かつたが、これと云ふも日頃清水の観世音を信仰したによつてその御利生であらう。又見えぬ国へ行たならば再び参詣する事もなるまいによつて、お暇乞ひに清水へ参らうと思うてこれまで出たれば、某が運こそ尽きたれ。今頼うだ人のお目に掛かつた。この上はそなたに恨みはない程に、身共が首を取つて頼うだ人のお目に掛けてくれさしめ。
▲冠「又うろたへた事を云ふ。一旦武悪は私が手に掛けましたと申し上げたものを、今又これが武悪が首でござると云うて、何とお目に掛けらるゝものぢや。
▲シ「誠にその通りぢや。とかく某は途方に暮れて分別にあたはぬによつて、和御料良い様に了簡をしてくれさしめ。
▲冠「扨々むざとした事をした。これはまづ何としたものであらうぞ。
▲シ「されば何として良からうぞ。
▲冠「いゑ。今一度そなた、頼うだ人にお目に掛からしめ。
▲シ「何と頼うだ人の前へ出らるゝものぢや。
▲冠「されば、そこは調儀ぢや{*4}。最前路次で、武悪が最期は何とあるぞとお尋ねなされた時分、今一度こなたにお目に掛かりたい掛かりたいと申しましてござると申し上げて置いた処で、そなたは幽霊になつてお目に掛からしめ。
▲シ「むゝ。某も今まで色々のものになつたが、つひに幽霊になつた事はおりない。
▲冠「又うろたへた事を云ふ。誰が幽霊になつた者があるものぢや。昔語りにも聞き及うだであらう程に、幽霊らしう取り繕うて、あの藪の陰から出さしめ。
▲シ「それならば幽霊らしう取り繕うてあの藪の陰から出う程に、そなたは頼うだ人の、傍へ寄らせられぬ様にしてくれさしめ。
▲冠「その分は心得た。早うお出やれ。
▲シ「追つ付け出るぞ。《楽屋へ入る》
▲冠「はて合点の行かぬ事ぢや。は。見ましてござる。
▲主「何と見たか。
▲冠「あの高い所へ登つて見ますれば、蟻の這ふまでも見えまするが、武悪の事は扨置き、人影も見えませぬ。
▲主「何ぢや。人影もさゝぬ。
▲冠「中々。
▲主「はて合点の行かぬ。今のは確かに武悪であつたが。やい。おのれ、武悪を助けて置いて、後日に知るゝと党類を絶やすぞよ。
▲冠「弓矢八幡討ちましてござる。
▲主「何ぢや。弓矢八幡討つた。
▲冠「中々。
▲主「はて合点の行かぬ。あの様によう似た者もないものぢや。
▲冠「いや。私はちと思ひ当たる事がござる。
▲主「それはいかやうな事ぢや。
▲冠「最前も申す通り、今一度こなたにお目に掛かりたいお目に掛かりたいと申してござるが、幸ひ、所は鳥辺野なり。もし武悪が幽霊ばし出ましたものでござらう。
▲主「何ぢや。武悪が幽霊。
▲冠「中々。
▲主「むゝ。こゝは鳥辺野ぢやな。
▲冠「左様でござる。
▲主「はあゝ。今まで心面白うあつたが、武悪が幽霊といふ事を聞いたれば、しきりに怖ろしうなつた。
▲冠「私も気味が悪うなりました。
▲主「この様な時分には宿へ戻らう。
▲冠「それが良うござらう。
▲主「さあさあ来い来い。
▲冠「参りまする参りまする。
▲主「遊山には又いつなりとも気分の良い時分に出るが良い。
▲冠「左様でござる。
▲主「{*5}武悪が最期に、今一度身共に逢ひたいと云うたか。
▲冠「さればその事でござる。他の事は申さいで、只こなたに今一度お目に掛かりたいお目に掛かりたいと申してござる。
▲主「さうであらう。あれは幼少より使うた者ぢやによつて、某に逢ひたいと云うは尤ぢや。《と云うて橋掛かりへ行く。武悪を見て》
そりや。何やらあれへ出た。
▲冠「誠に何やら出ましてござる。
▲主「他に道はないか。
▲冠「他に道はござらぬ。
▲主「まづ待て待て。某程の者が、鳥辺野で異形なものに逢うて、え言葉を掛けなんだとあれば、後難も口惜しい。言葉を掛けう。
▲冠「さりながら、傍へは寄らぬ{*6}ものでござる。
▲主「中々。寄る事ではない。やいやい。それへ出たは何者ぢや。
▲シ「武悪が幽霊でござる。
▲主「やいやい。武悪が幽霊ぞやと云ふわ。
▲冠「左様に申しまする。
▲主「その武悪は、太郎冠者に云ひ付けて成敗させたが、何としてこれへ出たぞ。
▲シ「さればその事でござる。お主の命を背いた者でござれば、地獄へも参らず、まして極楽へは参らず。魂は冥途にありながら、魄はこの世にとゞまつて。あゝ。苦しうござる。
▲主「やいやい太郎冠者。今のを聞いたか。この世で主命を背いた者は來世までを取り外すと云ふ。汝も随分大切に奉公をせい。
▲冠「畏つてござる。
▲シ「まだ尋ぬる事がある。
▲冠「申し。傍へは寄らせらるゝな。
▲主「心得た。地獄極楽があるとも云ひ、無いとも云うて、有無の二見が知れぬが。あるが定か。無いが定か。
▲シ「地獄極楽も確かにござる。
▲主「やいやい太郎冠者。すれば後生は願はう事ぢやなあ。
▲冠「左様でござる。
▲シ「まだ尋ぬる事がある。
▲冠「申し。必ず傍へ寄らせらるゝな。
▲シ「寄る事ではない。やい。地獄にも知る人といふ事があるか。汝より先へ行た者に逢ふ事か。但し逢はぬ事か。
▲シ「多くのお知る人にお目に掛かつてござるが、中にもこなたの親御様にお目に掛かりましてござる。
▲主「や。何ぢや、親者人に逢うた。《これより泣きて傍へ寄る》
▲冠「いや。申し申し。傍へ寄らせらるゝな。
▲主「やれやれ。お懐かしや。何となされてござる。早う云うて聞かせいやい。
▲シ「討死をなされた処でござれば、修羅道へ堕ちさせられ、夜に三度日に三度の戦に、太刀も刀も打ち折られてござるによつて、お目に掛かつたならば、お太刀・刀を取つて来いと仰せ付けられてござる。
▲主「やい太郎冠者。親者人は修羅道へ堕ちさせられたと云ふわ。
▲冠「左様に申しまする。
▲主「さう云つてくれい。これはこなたの譲らせられた太刀でござる。則ちこれを進じますると云うて、武悪に届けてくれいと云へ。
▲冠「畏つてござる。やいやい。これを遣はさるゝによつて、届けてくれいと仰せらるゝ。
▲主「もはや何もないか。
▲シ「まだござる。
▲主「あらば早う云うて聞かせい。
▲冠「申し。傍へは寄らせらるゝな。
▲主「心得た。
▲シ「あの方はこの方と違ひまして、殊の外暑うござるによつて、扇子をも取つて来いと仰せ付けられてござる。
▲主「やいやい太郎冠者。この世では刀金をならいた侍が、あの世では扇子一本に事を欠かせらるゝと云ふわ。
▲冠「左様でござる。
▲主「これは持ち古しましたれども、途中の事でござるによつてこれを進じまする。重ねて良い便りに何程なりとも進じませうと云うて、届けて貰うてくれい。
▲冠「畏つてござる。やいやい武悪。今の通り云うて早うお届け申せ。もはや早う戻つたらば良からう。
▲主「もはや何も云ふ事はないか。
▲シ「まだござる。
▲主「早う云うて聞かせい。
▲シ「こなたのお屋敷の狭い事をお心に掛けさせられ、あの方に広いお屋敷を求めて置かせられてござるによつて、お目に掛かつたならばお供して来いと仰せ付けられてござる。
▲主「やいやいやい。やい武悪。それは親者人の了簡違ひと云ふものぢや。汝もよう思うて見よ。身共がこの世に居てこそ、親者人の五十年忌も百年忌も弔へ。某があの世へ行て良いものか。戻つたならばさう云うてくれい。屋敷の狭い事をお心に掛けさせられて、武悪にお言伝を仰せ下されて、近頃忝うござる。私はその方の広い屋敷よりこの方の狭い屋敷が勝手でござる。その上只今では隣り屋敷を買ひ足しまして、殊の外広う住まひまするによつて、その方の屋敷は他へ譲らせられいと云うてくれい。
▲シ「それはこなたの御卑怯でござる。是非ともお供して来いと仰せ付けられましたによつて、どうあつてもお供致しませう。
▲主「やいやい。汝が跡をも懇ろに弔うてとらせう。早う戻れ。
▲冠「やいやい武悪。早う戻らぬか。
▲シ「いかやうに仰せられても、是非ともお供致さねばなりませぬ。
▲主「又これへ来る。早う戻つてくれい。太郎冠者。早う戻いてくれい。
▲冠「やいやい。早う戻れ。
▲シ「それは御卑怯でござる。是非ともお供致さねばなりませぬ。
▲主「あゝ。許いてくれい許いてくれい。

校訂者注
 1:底本は、「戻るぞ」。
 2:底本は、「さうであらう。《主廻り掛かると一の松にて名乗る》▲シ「太郎冠者が」。
 3:底本は、「参りませう」。
 4:底本は、「そこは調誼しや」。
 5:底本は、「▲主「すも武悪が最期に」。
 6:底本は、「傍へはいらぬ」。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の五 四 武悪」(国立国会図書館D.C.

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