富士松(ふじまつ) 大蔵流本
▲主「罷り出でたる者はこの辺りに住居致す者でござる。某召し使ふ下人が、暇をも乞はいでいづ方へやらおりさうてござる。承れば夜前罷り帰つたとは申せども、未だ某が前へ目見えも致さぬ。言語道断憎い奴でござるによつて、今日は彼が私宅へ立ち越え、散々に折檻を加へうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。いや。誠に暇を乞うてござらば、五日や十日は取らせませうものを。暇を乞はぬ処が憎うござる。いや。参る程に彼が私宅はこれでござる。某が声と聞いたらば出ますまいによつて、作り声を致し呼び出さうと存ずる。《扇をかざして》
物申。案内申。
物申。案内申。
▲シテ「やら奇特や。夜前罷り帰つたを、早どなたやら御存じあつて、表に物申とある。案内とは誰そ。物申どなたでござる。
▲主「しさり居ろ。
▲シ「はあ。
▲主「俄かの慇懃、迷惑致す。お手上げられい。
▲シ「はあ。
▲主「その如く主の声をも聞き忘るゝ程の不奉公ではなるまい。この間は某に暇をも乞はいで、いづ方へおりさうた。
▲シ「さればその事でござる。一人召し使はるゝ太郎冠者の事でござれば、お暇の儀を申し上げたりと、とても下されまいと存じて、忍うで富士参詣を致いてござる。
▲主「富士参詣をすれば、主に暇を乞はぬ法ですか。
▲シ「はあ。
▲主「憎い奴の。これはいかな事。散々に折檻を加へうと存じてござれば、富士参詣を致いたと申す。権現への恐れもござるによつて、まづこの度は差し許さうと存ずる。やいやい。許す。立て。
▲シ「それは誠でござるか。
▲主「誠ぢや。
▲シ「真実でござるか。
▲主「一定ぢや。
▲シ「あら心安や。
▲主「何と気遣ひにあつたか。
▲シ「いつもより御気色が変らせられてござるによつて、すはお手討ちにでも遭ひませうかと存じて、身の毛を詰めて居りました。
▲主「某もいつもよりは腹が立つたれども、富士参詣をしたと云ふによつて許いた。これへ出て富士の様子を語れ。
▲シ「畏つてござる。天下治まりめでたい御代でござれば、峯から谷、谷から峯まで参り下向の人ばかりでござる。
▲主「定めてさうであらう。扨聞けば汝は見事な富士松を持つて来たとな。
▲シ「いや。私は左様の物を持つては参りませぬ。
▲主「な隠しそ。夜前かな法師が告げた。
▲シ「やあやあ{*1}。かな法師が申し上げましたか。
▲主「中々。
▲シ「持つては参りましたが、あれは人のことづかり物でござる。
▲主「ことづかり物なりとも見する事はなるまいか。
▲シ「お目に掛くる分は苦しうござらぬ。お目に掛けませう。さらさらさら。あの松でござる。
▲主「あの松か。
▲シ「中々。
▲主「扨も扨も聞き及うだよりは木付きの良い見事な松ぢや。
▲シ「やいやい。頼うだ人の御出なされた程にお盃を出せ。何ぢや。代がない。代がなくば古袷なりとも持つて行け。ゑい。
▲主「やいやい太郎冠者。
▲シ「何事でござる。
▲主「これは聞き及うだよりは木付きの良い見事な松ぢやなあ。
▲シ「路次すがらも、見る程の者が褒め物に致しました。
▲主「さうであらう。扨汝が行た後で庭を作り直いたが、島崎にあの松を植うる程のらい地がある。あの松を身共にくれまいか。
▲シ「最前も申す通り、人のことづかり物でござるによつて、上ぐる事はなりませぬ。
▲主「それならば替へ事には何とあらうぞ。
▲シ「替へ事には何とござらうか。
▲主「替へ事と云へば汝も早趣くよな。
▲シ「左様ではござらぬが。先の者に承つて見ようとの事でござる。
▲主「これは尤ぢや。扨何と替へたものであらうぞ。
▲シ「何が良うござらうぞ。
▲主「備前三郎の大太刀と替へう。
▲シ「これは結構な替へ物ではござれども、先の者が太刀を持たする程の者でござらぬによつて、これとはえ替へますまい。
▲主「それならばこれとは替へまい。何が良からうぞ。
▲シ「何が良うござらうぞ。
▲主「いえ。鷹犬と替へう。
▲シ「これも良い替へ物ではござれども、先に鷹がござらぬによつて、鷹のない犬ばかりはいりますまい。
▲主「誠に鷹のない犬ばかりはいるまい。何と替へうぞ。
▲シ「何とが良うござらうぞ。
▲主「惜しけれども黒の馬と替へう。
▲シ「繋ぎ所がござらぬ。
▲主「汝が家に繋げ。
▲シ「あのお馬は口の強いお馬でござつて、小家の一軒や二軒は引き倒しまする。
▲主「誠に口の強い馬ぢやによつて、小家の一軒や二軒は引き倒さう。もはや何も替へ物もない処で、身共戻らう。
▲シ「申し。富士の神酒がござる。戴かせられぬか。
▲主「中々。戴かう程にこれへ持て。
▲シ「畏つてござる。はあ。お神酒でござる。
▲主「これへ注げ。
▲シ「畏つてござる。
▲主「この神酒を戴けば、富士禅定したも同じ事ぢやなあ。
▲シ「御同然でござる。
▲主「今一つ注げ。
▲シ「畏つてござる。
▲主「恰度ある。
▲シ「恰度ござる。
▲主「扨この神酒について思ひ出いたが、汝はいづれもへ交じつて推参を云ふとな。
▲シ「いや。私は左様の事は申しませぬ。
▲主「な隠しそ。口が良いと聞いた。この神酒に付けて一句以て参らう。
▲シ「良うござりませう。
▲主「かうもあらうか。
▲シ「早出ましたか。
▲主「手に持てる。
▲シ「手に持てる。
▲主「かはらけ色の古袷。
▲シ「加へて参りませう。
▲主「早う加へて来い。
▲シ「畏つてござる。やいやい。次でものを声高に云ふな。最前の古袷を早御句になされたぞ。ゑい。加へて参りました。
▲主「これへ注げ。
▲シ「畏つてござる。
▲主「扨今のは付けぬか。
▲シ「何とやらでござりました。
▲主「手に持てる土器色の古袷。
▲シ「かうもござりませうか。
▲主「早出たか。
▲シ「さけごとにあるつぎ目なりけり。{*2}
▲主「《吟じて》聞いたよりは一段と口が良い。もう呑むまい。取れ。
▲シ「今一つ上がりませぬか。
▲主「いやいや。もはや呑むまい。
▲シ「それならば取りませう。
▲主「扨某はこれから山王へ参らう。
▲シ「お供致しませう。
▲主「いや。おりやるまいものを。
▲シ「いや。参りませう。
▲主「はて、来いで何とせう。お立ちやれ。
▲シ「畏つてござる。
▲主「御山王へ参る路次すがら付け合ひをして、付けずばあの松を取るぞ。
▲シ「これは迷惑にござる。
▲主「後なる者よ暫しとゞまれ。
▲シ「畏つてござる。
▲主「太郎冠者太郎冠者。やい太郎冠者。おのれはそれに何をして居るぞ。
▲シ「後なる者よ暫しとゞまれと仰せられたによつて、これにとゞまつて居まする。
▲主「今のは句でおりやる。
▲シ「やあやあ。御句でござるか。
▲主「中々。
▲シ「それならばそれと仰せられいで。付けませうものを。
▲主「早う付けい。
▲シ「ふたりとも渡れば沈む浮き橋を、後なる者よ暫しとゞまれ。
▲主「句は出来たが、仕方を置け。
▲シ「畏つてござる。
▲主「上もかたかた下もかたかた。
▲シ「三日月の水に移ろふ影見れば、上もかたかた下もかたかた。
▲主「仕方を置けと云ふに。
▲シ「畏つてござる。
▲主「下もかたかた上もかたかた。
▲シ「いやあ。それは只今のを下上へおされた分の事でござる。
▲主「上を下へせうが下を上へせうが、句は身共が儘ぢや。付けずば松を取るぞ。
▲シ「あゝ。付けませう付けませう。
▲主「早う付けい。
▲シ「うつほ木の本末叩くけらつゝき、下もかたかた上もかたかた。
▲主「これから難句を以て参らう。
▲シ「これはこは物にござる。
▲主「こは物ともに以て参らう。西の海千尋の底に鹿啼きて。
▲シ「鹿の子まだらに立つは白浪。
▲主「余り句早い。静かに付けい。
▲シ「畏つてござる。
▲主「奥山に舟漕ぐ音の聞こゆるは。
▲シ「申し。ちと申し上げたい事がござる。
▲主「それはいかやうな事ぢや。
▲シ「最前西の海で啼く鹿を奥山へ遣らせられ、又奥山で漕ぐ舟を西の海へ遣らせられたならば、良い句が二句出来ませう。
▲主「海で鹿を啼かさうとも山で舟を漕がさうとも、句は身共が儘ぢや。付けずば松を取るぞ。
▲シ「あゝ。付けませう付けませう。四方の木の実やうみ渡るらん。
▲主「《吟じて》何かと云ふ内に、これは早お前ぢや。
▲シ「誠にお前でござる。
▲主「汝もこれへ寄つて拝め。
▲シ「畏つてござる。
▲主「扨いつ参つても森々とした殊勝なお前ではないか。
▲シ「誠にいつ参つても森々と致いて殊勝なお前でござる。
▲主「この山王の前の華表について一句以て参らう。
▲シ「良うござりませう。
▲主「かうもあらうか。
▲シ「早出ましたか。
▲主「山王の。
▲シ「山王の。
▲主「前の華表に丹を塗りて。
▲シ「赤きは猿の面ぞ可笑しき。
▲主「やい。そこな奴。
▲シ「はあ。
▲主「おのれは憎い奴の。身共は酔ふ上戸で、色に出るを知つて居ながら富士の神酒ぢやの何のと云うて呑ませ居つて。今更色に出たが可笑しいか。
▲シ「まづお心を静めてよう聞かせられい。山王の御使者はお猿殿ではござらぬか。そのお猿殿のお顔の赤い事をこそ申せ。こなたの面の事ではござらぬ。
▲主「又つらと云ふか。
▲シ「はあ。
▲主「さりながら、お前ぢやによつて許す。立て。
▲シ「畏つてござる。
▲主「扨汝も見事云ひ、某は又いか程云うても尽くる事ではないによつて、これからは千句に一句、一句詰めで以て参らう。
▲シ「良うござりませう。
▲主「それへ出い。
▲シ「心得ました。
▲主「又出い。
▲シ「畏つてござる。
▲主「これも句に。
▲シ「あて句をなさるゝ。
▲主「あつと云ふ。
▲シ「あつと云ふ。
▲主「声にもおのれ怖ぢよかし。
▲シ「けら腹立てば。
▲主「螻蛄腹立てば。
▲シ「つぐみ悦ぶ{*3}。
▲主「何でもない事。しさり居ろ。
▲シ「はあ。
▲主「ゑい。
▲シ「はあ。
校訂者注
1:底本は、「やいやい」。
2:底本は、「つぎ目なりけり。《吟じて》▲主「聞いたよりは」。
3:「螻蛄(けら)腹立てば鶫(つぐみ)悦ぶ」は、(ツグミの餌にけらを与える事から)一方が怒れば他方が喜ぶたとえ。
底本:『狂言全集 上巻』「巻の五 五 富士松」(国立国会図書館D.C.)
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