花子(はなご) 大蔵流本

▲主「これは洛外に住居致す者でござる。某一年東国へ下るとて、美濃国野上の宿長が所に宿を取り、花子と申す女に酌をとらせてござるが、誠に田舎とは申しながら心言葉の優しさ、中々都にもあれ体の女房はござるまいと存じ、上りには必ず連れて参らうと約束致いてござれば、某が上つた様子を聞いてこの間都へ上り、北白河に宿をとり、逢ひたい逢ひたいと申して度々文をくるれども、例の山の神が片時の間も離れぬによつて、逢ひに参る事がならいで迷惑致す。何とがな致さうやれと存ずる処に、こゝに思案を致し出いた事がござる。まづ山の神を呼び出しこの事を申し渡さうと存ずる。なうなう。これのは内に居さしますか。
▲女「妾を用ありさうに呼ばせらるゝはいかな事でござるぞ。
▲主「ちと用の事がある程に、まづかう通らしめ。
▲女「心得ました。扨御用と仰せらるれば心元なうござるが、それは又いかやうな事でござるぞ。
▲主「別の事でもおりない。この間打ち続いて夢見が悪いによつて、仏詣を致さうず。この事を申し渡さうと存じての事でおりやる。
▲女「扨は御用と仰せらるゝはその事でござるか。いや。申し。こなた程のお方が夢見などを心に掛けさせらるゝと申す事があるものでござるか。夢と申すものは果敢ないもので、合ふも不思議合はぬも不思議、只何事も果敢ない夢の浮世でござるによつて、そつとも心に掛けさせられぬが良うござる。
▲主「おう。そなたの仰しやる通り、金剛経にも如夢幻泡影、如露亦如電とあれば、夢程果敢ないものはなけれども、余り打ち続いての事ぢやによつて、平に仏詣をさせてくれさしめ。
▲女「扨又その仏詣と申すはいかやうの事で、何程暇のいる事でござるぞ。
▲主「おう。国々の寺々を廻る事ぢやによつて、一年暇がいらうも二年手間が取れうも知れぬ事でおりやる。
▲女「なう。物狂や物狂や。妾はこなたのお傍を片時も離るゝ事はなりませぬ。何と一年二年の間が待たるゝものでござるぞ。これはなりませぬ。
▲主「なう。そなたのさう仰しやるも、某を大切に思うての事なれば満足には存ずれど、余り打ち続いての事ぢやによつて、そなたの身の上の事でもあらうか。又某が身の上の事でもあらうと思へば、心に掛かつて悪しい程に、是非とも仏詣をさせてくれさしめ。
▲女「それ程に思し召さば、内での行をなされたが良うござる。
▲主「内での行は何でおりやる。
▲女「はて。頭香なりとも腕香なりとも焚かせられい。
▲主「あゝ。勿体ない。大俗の身として何とその様な荒行がなるものでおりやるぞ。
▲女「それならば外へと云うてはふつゝりとなりませぬぞ。
▲主「扨は外へと云うてはふつゝりとならぬか。
▲女「中々。なりませぬ。
▲主「それならばまづそれにお待ちやれ。
▲女「心得ました。
▲主「これはいかな事。苦々しい事ぢやが。何と致さう。いや。思ひ出いた。致し様がござる。なうなう。やあやあ。それならば持仏堂に閉ぢ籠つて七日七夜の座禅を致さう。
▲女「これは一段と良うござらう。妾が傍に付いて居て、湯も茶も取つて進じませうぞ。
▲主「いやいや。座禅の間、女と目と目を見合はせても座禅が無足するによつて、そなたの見舞ふ事はなるまいぞ。
▲女「それならばこれもなりませぬか。
▲主「おう。これ程に思ひ立つた大望を無足さするといふ事があるものでおりやるか。平に頼み存ずる。
▲女「あゝ。勿体ない。まづお手を取つて立たせられい。こなたもよくよくに思し召せばこそ、女に向かうてお手を合はさせらるゝに、あれもなるまいこれもなるまいと申すは余りでござる。それならば今夜一夜の暇を進じませう程に、今夜一夜の座禅をなされい。
▲主「すれば今夜一夜より外にはならぬか。
▲女「二夜と云うてはなりませぬ。
▲主「それならば是非に及ばぬ。今夜一夜の座禅なりとも致さうまでよ。
▲女「扨又その座禅と申すはいかやうの事をなさるゝ事でござるぞ。
▲主「座禅衾といふ物を引つかつぎ、来し方行く末の事を悟る事ぢやによつて、はあ。窮屈な事でおりやる。
▲女「扨々それは御窮屈さうな事でござる。それならば妾がお見舞ひ申さずばなりますまい。
▲主「これはいかな事。今も云ふ通り、座禅の間女と目と目と見合はせても座禅が無足する程に、必ずお見舞ひやるなや。
▲女「お気遣ひなされまするな。お見舞ひ申す事ではござらぬ。
▲主「それならば明日は早々お目に掛からう。
▲女「明日は早々お目に掛かりませう。
▲二人「さらばさらばさらば。
▲主「いや。なうなう。やあやあ。厨騒々にして座禅行法なりがたしと云ふ事がある。必ずお見舞ひやるなや。
▲女「何が扨見舞ふ事ではござらぬ。
▲主「明日は早々お目に掛からう。
▲女「明日は早々お目に掛かりませう。
▲二人「さらばさらばさらば。《女太鼓座へ着く》
▲主「なうなう。嬉しや嬉しや。今夜一夜の暇を貰うて花子が方へ逢ひに参る。急いで参らうが、女の夫をたばかるには男の智恵には勝ると申す。賢う見舞ふまいとは申したれども、自然見舞ふに物陰からなと見て、座禅の体がなくば某を只は置くまいが。何と致さう。いや。致し様がある。やいやい。太郎冠者あるかやい。
▲冠者「はあ。
▲主「居るか居るか。
▲冠「はあ。
▲主「居たか。
▲冠「お前に。
▲主「念なう早かつた。まづ立て。
▲冠「畏つてござる。扨これは殊ない御機嫌でござりまする。
▲主「機嫌の良いこそ道理なれ。今夜一夜の暇を貰うて花子の方へ逢ひに行くいやい。
▲冠「それは一段の事でござるが、何と仰せられてお暇を貰はせられてござるぞ。
▲主「さればその事ぢや。只はくれまいと思うて、今夜一夜の座禅をすると云うて暇を貰うた。
▲冠「これは良い御調儀でござる。
▲主「扨それに付いて、そちにちと頼む事がある。
▲冠「それは又いかやうの御事でござるぞ。
▲主「さればその事ぢや。賢う見舞ふまいとは云うたれども、自然物陰からなと見て座禅の体がなくば、某を只は置くまい。窮屈にはあらうずれども今夜一夜の事ぢやによつて、座禅の体をして居てくれい。
▲冠「畏つてはござりまするが、この事は何とぞ御免なされて下されい。
▲主「それはなぜに。
▲冠「あのおかみ様は余のおかみ様と違ひまして、殊の外わゝしうござりまするによつて、この事が後日に知れましたならば、私を只は置かせられますまい。何とぞこの事は御免なされて下されい。
▲主「むゝ。すれば山の神は怖し。身共は怖うないか。
▲冠「いや、左様ではござらぬが。この事に限つては何とぞ御免なされて下されい。
▲主「良うおりやる。
▲冠「はあ。
▲主「この間花子が方へ使ひに遣ると思うて、言葉甘う云うて置けば方領もない。この上は座禅の体をするともさせうず。又せずともさせうが。ていとおしやるまいか。
▲冠「あゝ。まづ物を云はせて下されい。
▲主「物を云はせいとは。
▲冠「座禅の体を致しませう。
▲主「いや。おしやるまいものを。
▲冠「いや。致しませう。
▲主「それは誠か。
▲冠「誠でござる。
▲主「真実か。
▲冠「一定でござる。
▲主「これは戯れ事。座禅の体がして貰ひたさの儘ぢや。
▲冠「これは怖いお戯れ事でござる。
▲主「まづかう通れ。
▲冠「畏つてござる。
▲主「扨これに腰を掛けい。
▲冠「これは慮外にござる。
▲主「窮屈にはあらうずれども、今夜一夜の事ぢやによつて、この座禅衾を引つかついでくれい。
▲冠「畏つてござる。
▲主「賢う見舞ふまいとは云うたれども、自然見舞うてその座禅衾を取れと云うたりとも、必ず取るな。
▲冠「お気遣ひなされまするな。取る事ではござりませぬ。
▲主「明日は早々逢はうぞ。
▲冠「ゆるりと慰うで帰らせられい。《シテ走り込み中入りする》
▲女「最前これのは今夜一夜持仏堂へ閉ぢ籠つて座禅をなさるゝと仰せられてござる。それにつき賢うお見舞ひ申すまいとお約束は致いてござれども、承ればあまり御窮屈さうな事でござるによつて、何とも心元なうござる程に、そと物陰から見ようと存ずる。これはいかな事。扨も扨も御窮屈さうな事でござる。あの体を見ては中々見舞ひ申さずには置かれぬ。いや。申し申し。賢うお見舞ひ申すまいとお約束は致いてござれども、余りお心元なうござるによつて物陰から見ましてござるが、この体を見ましてはいかないかな、お見舞ひ申さずには居られませぬによつて、お約束をたがへてお見舞ひ申してござる。もはや妾がお見舞ひ申してござる程に、その座禅衾を取らせられい。
▲冠「《かぶりを振る》嫌ぢや。
▲女「近頃御尤ではござれども、とても座禅が無足致しました事でござるによつて、是非とも取らせられい。
▲冠「嫌ぢや。
▲女「それならば妾が取つて進じませう。《と云うて無理に取り、太郎冠者を見て》
やい。おのれは憎い奴の。これのはどちへ行たぞ、どちへ行たぞ。
▲冠「花子様へ御出なされてござる。
▲女「ゑ。腹立ちや腹立ちや。おのれまでが様と云ふか。めと云へいやい、云へいやい。
▲冠「近頃お腹立ちは御尤でござれども、まづお心を静めて良う聞かせられて下されい。私も真つかうござらうと存じて、色々御詫び言を致いてござれども、座禅の体を致さぬにおいてはお手討になされうとの御事でござるによつて、背に腹は替へられず座禅の体を致しましてござる。私に御咎はござりますまい。何とぞ御免なされて下されい。
▲女「何ぢや。そちが座禅の体をせずば手討にせうと云うたか。
▲冠「中々。
▲女「すれば汝に咎はないやい。
▲冠「はあ。
▲女「ありやうに花子方へ行くと云うたならば、一夜ばかりは遣るまいものでもないに。妾をたらいたと思へば身が燃ゆる様に腹が立つ。
▲冠「近頃御尤でござる。
▲女「扨これからはそちに頼む事がある。
▲冠「それは又いかやうな御事でござるぞ。
▲女「今までそちがして居た様に、妾を取り繕うてくれい。
▲冠「畏つてはござりまするが、頼うだ人のお帰りなされたならば、只は置かせられますまい。これは何とぞ御免なされて下されい。
▲女「いやいや。それはそつとも気遣ひすな。そちに指なりと指さする事ではない程に、是非とも取り繕うてくれい。
▲冠「その儀でござらば畏つてござる。まづこれにお腰を掛けさせらい。
▲女「心得た。
▲冠「扨御窮屈にはござりませう。今少しの間でござるによつて、この座禅衾を引つかついで居させられい。
▲女「心得た。扨汝は妾が云ふ事をよう聞いてくるゝによつて、何事なりとも用の事があらば云へ。叶へて取らせうぞ。
▲冠「それは忝う存じまする。
▲女「又この間慰みに守り袋や巾着を縫うて置いた。あれを汝に取らせうぞ。
▲冠「それは重ね重ねありがたう存じまする。
▲女「扨汝も最前から草臥れにもあらう程に、行て休め。
▲冠「畏つてござる。
▲主「更け行く鐘。別れの鳥も一人寝る夜はさはらぬものを。あゝ扨。柳の糸の乱れ心。いついつ忘れうぞ。寝乱れ髪の面影。私の恋は因果か縁か。因果と縁とは車の両輪の如く、只かりそめにいつの春か、思ひ初めて忘られぬ、花の宴や花の宴。寺々の鐘撞く奴は憎いな。恋ひ恋ひて。稀に逢ふ夜は日の出るまでも寝よとすれば。まだ夜深きに。こんこんこゝんこゝんこうと。撞くに又寝られぬ。
いや。太郎冠者が待ち兼ねて居らう。急いで戻らうと存ずる。《太鼓座に太刀を置き》
やいやい。太郎冠者。今戻つたぞ。あの山の神は見舞はなんだか。むゝ。何ぢや。見舞はなんだ。それは近頃満足した{*1}。誠に思ひ内にあれば色外に顕はるゝと、今夜の言の葉を心の内に持つて居て、自然山の神に見咎められてはいかゞな。又汝より外に語らうずる者もない処で、その座禅衾を取れと云ひたいものなれども、それを取つたならば汝も面はゆからうず。某も恥づかしう思ふによつて、とてもの事にその座禅衾を引つかづいて居て聞いてくれい。むゝ。何ぢや。聞いてくれう。それは近頃満足した。まづ今夜遥々とあれへ行てな、内の体を聞き居たれば、花子は優しや。小歌でな。
灯火消えて暗うして。いともの凄き折節に。君が来たらうにや。
と某を君にして歌はれたによつて、身共も嬉しさに妻戸をほとほとゝ叩いたれば、内より誰ぞと云うた。その時腹が立つて、雨の降る夜に誰が濡れて来うずらうに、誰ぞと咎むるは人二人待つ身か。只置いて雨に打たせよ、とかはの。と云うたれば{*2}。
夜更けて来たが憎い程に。
とは歌はれたれども、何が待ち兼ねた事なれば、内よりも掛け金をりんと外された。その時。
妻戸をきりゝと押し開く。御簾の追ひ風匂ひ来る。人の心の奥深き。その情けこそ都なれ。花の春。紅葉の秋。誰が思ひ寝となりぬらん。
と云うてひつたりと抱きついたれば、花子の仰しやるは、ひと日進じた文をさもしゝてお捨てやつたとの。なう腹立ちや、と云うて突き倒された。その時。
情けの文は小車よ。情けの文は小車よ。只失うて叶ふまじ。巡り逢ふまで。
もし落ち散つて山の神に見咎められてはと思ひ、肌の守りに掛けて居まする。これ御らうぜられいと云うたれば、扨は左様でござるか。只何事も打ち捨てゝ、たまたま逢ふこそ優曇華なれ。まづかう通らせられいと云うて、何か楓の様な美しい手で某が手を取つて行かるゝによつて、身共も嬉しさにそろりそろりと通つたれば、奥には酒をとり調へ、九献を一つきこし召せとて、差いつ差されつかうつこまれつ呑む程に、早ほつてと酔うた。いざ夜も更くる。さらばまどろまうと云うて、とろとろとろとまどろうたれば、烏がこかあこかあと夜が明けた。さらば戻らうと云うて振り切つて戻つたれば、花子は優しや。送らうと仰しやつてな。
寝乱れ髪をほしやほしやと揺り下げて、いつに忘れうぞ面影。天竺・震旦・我が朝、三国一ぢやよの。夜はすでに明けゝれば、すごすごと扨お帰らうよの。吹上げの真砂の数さらばさらばに、遥々と送り来て、面影の立つ方を返り見たれば、月細く残りたり。名残惜しやの。
誠に、思ふに別れ思はぬに添ふと。あの美しい花子には添はで山の神に添ふとは、近頃口惜しい事ぢやなあ。語るに尽きはなけれども、もはやこれまでぢや。その座禅衾を取れ。むゝ。何ぢや。嫌ぢや。誠に汝もよしない長物語を聞いたと思うて、くねるよな。花子の仰しやるは、花中の鴬、舌は花ならねど香ばしいと。こなたの使はせらるゝ太郎冠者ぢやによつて、いつ来ても言葉尋常に匂ひなどして、情けらしう云うてくるゝによつて、目を掛けて使へと云はれた。それを嬉しう思うてその座禅衾を取れ。嫌ぢやと云うて、それがいつまで取らずに居らるゝものぢや。それならば身共が取つてやらう。
▲女「やい。わ男。良い座禅の仕様の。妾をたらいてどちへ行たぞ、どちへ行たぞ。
▲主「筑紫の五百羅漢へ参つた。
▲女「なう腹立ちや腹立ちや。一夜の内に筑紫まで行かるゝものか。ありやうに云はずば喰ひ裂いてのけうか。引つ裂いてのけうか。
▲主「信濃の善光寺へ参つた。
▲女「ゑゝ。又そのつれな事を云ふか。よう花子が方へ行き居つたな。
▲主「あゝ。許さしめ許さしめ許さしめ。
▲女「やい。おのれ、今になつてそのなりは何事ぞ。よう妾を出し抜いて行たな。あの横着者。どれへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本、「満」一字カスレ。判読困難。
 2:底本、「に」「いう」の三字カスレ。判読困難。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の五 六 花子」(国立国会図書館D.C.

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