不腹立(はらたてず) 大蔵流本

▲一アト「これはこの辺りに住居致す者でござる。某志の深い者で、この程小庵を結んでござるが、未だ似合はしい住持がござらぬ。それにつき、私ばかりでもござらぬ、今一人申し交はいた人がござるが、もしあの方に相応な者もござるか、今日はあれへ参り承らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、お宿にござれば良うござるが。もしお宿にござらぬ時は、参つた詮もない事でござる。いや。参る程にこれぢや。まづ案内を乞はう。物申。案内申。
▲二アト「いや。表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲一ア「私でござる。
▲二ア「いゑ。こなたならば案内に及びませうか。つゝと通りはなされいで。
▲一ア「左様には存じてござれども、もしお客ばしござらうかと存じて、それ故案内を乞ひましてござる。
▲二ア「それは近頃念の入つた事でござる。扨只今は何と思し召しての御出でござるぞ。
▲一ア「只今参るも別なる事でもござらぬ。扨こなたの方に住持はござりませぬか。
▲二ア「さればその事でござる。私も方々と尋ねまするが、未だ似合はしい者もござらぬが。何とこなたの方にはござりまするか。
▲一ア「私もかなたこなたと探しまするが、今に相応な者もござりませぬ。
▲二ア「扨々それは苦々しい事でござる。
▲一ア「それにつき私の存じまするは、上下の街道へ参つたならば、似合はしい者も通らぬ事はござるまい程に、言葉を掛け住持に頼まうと存じまするが、何とござらうぞ。
▲二ア「これは一段と良うござりませう。
▲一ア「扨は御同心でござるか。
▲二ア「いかにも同心でござる。
▲一ア「それならばまづこなたからござれ。
▲二ア「先次第にござれ。
▲一ア「先と{*1}仰せらるゝによつて私から参りませうか。
▲二ア「それが良うござらう。
▲一ア「さあさあ。ござれござれ。
▲二ア「参る参る。
▲一ア「扨かやうの事も尋ぬる時はないものでござる。
▲二ア「仰せらるゝ通り、坊主はあつても思はしい者はござらぬ。
▲一ア「上下の街道へ参つたならば、似合はしい者の通らぬ事はござるまい。
▲二ア「何が扨通らぬ事はござるまい。
▲一ア「参る程に上下の街道でござる。
▲二ア「左様でござる。
▲一ア「まづこゝに休らうで居りませう。
▲二ア「それが良うござらう。
▲シテ「これは東国方の出家でござる。某未だ上方を見物致さぬにより、この度都へ上り、名所旧跡を見物致し、又良さゝうな所もあらば足をも止めうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に皆人の仰せらるゝは、若い時旅を致さねば年寄つての物語がないと仰せらるゝによつて、ふと思ひ立つてござる。それ良い所もあれかし。足を止めうものを。
▲一ア「いや。申し。これへ似合はしい出家が参りまする。言葉を掛けて見ませう。
▲二ア「それが良うござらう。
▲一ア「いや。なうなう。しゝ申し。
▲シ「やあやあ。こちの事でござるか。何事でござるぞ。
▲一ア「いかにもこなたの事でござる。聊爾な申し事ながら、どれからどれへござるぞ。
▲シ「私の。
▲一ア「中々。
▲シ「私は風に木の葉の任する如くにて候ふ。
▲一ア「これは面白いお答へでござるが、それには仔細ばしござるか。
▲シ「中々。仔細がござる。総じて木の葉と申す物は、風が吹けばいづ方までも参りまする。又勢{*2}が已めばどこになりとも止まりまする。私もその如く、止め手があれば止まりまする。又止め手がなければいつまでも参りまするによつて、それ故只今の通り申した事でござる。
▲一ア「仔細を承れば尤でござる。それならば私が止めませうが、止まつて下さるゝか。
▲シ「止めてさへ下さるゝならば止まりませう。
▲一ア「かやうに申すも別なる事でもござらぬ。私は志の深い者でござつて、小庵を取り結んでござるが、未だ似合はしい住持がござらぬによつて、これへ据ゑましたうござる。
▲シ「それは出家の望む所でござる。据ゑてさへ下さるゝならば、据わりませう。
▲一ア「それは近頃忝うござる。扨私一人でもござらぬ。今一人申し合うた人がござる。これとお知る人に致しませう。まづそれに待たせられい。
▲シ「心得ました。
▲一ア「申し申し。私の止めてござれば、早速止まられてござる。こなたもあれへ行て近付きにならせられい。
▲二ア「心得ました。申し申し。あの仁の止められましたに早速止まつて下されて、近頃忝うござる。
▲シ「止めて下されて忝う存じまする。
▲一ア「さていつなりともござらうか。
▲シ「いつなりとも参りませう。
▲一ア「それならばまづこなたからござれ。
▲シ「私は不案内にござる。まづこなたからござれ。
▲一ア「それならば私から参りませう。さあさあ。ござれござれ。
▲シ「こなたはござらぬか。
▲二ア「まづござれ。
▲シ「参りまする参りまする。扨かやうにふと言葉を掛け同道致すは、他生の縁でがなござらうぞ。
▲一ア「仰せらるゝ通り、他生の縁でがなござらう。
▲シ「かう参るからは、万事良い様に引き廻いて下されい。
▲一ア「何が扨、その分はお気遣ひなさるな。お手を書かせらるゝか。
▲シ「手を書くと申す程の事ではござらねども、みゝずのぬたくつた様な事や、又雀の躍つた足跡の様な事を致いて、心覚えを致す事でござる。
▲一ア「それは定めて御卑下でござらう。かやうに申すも別なる事でもござらぬ。両人ともいとけないを持つてござるによつて、ゆくゆくはこなたの御指南を受けたうござる。
▲シ「左様のいとけないお方に御指南を申すは、私の得物でござる。
▲一ア「それは一段の事でござる。
▲二ア「もし経を御存じでござるか。
▲シ「まづ待たせられい。
▲二ア「何事でござる。
▲シ「まづ私の覚えました経は、法華経一部八巻・地蔵経・阿弥陀経・その他しくわらくわいのくわいまでは覚えて居りまするが、もし経と申す経は覚えませぬ。
▲一ア「それはあの仁の申し様が悪しうござる。もし経ではござらぬ。もし、経を御存じでござるかと申す事でござる。
▲シ「何が扨、出家の役でござるによつて、只今の通りは覚えて居りまする。
▲一ア「それは一段の事でござる。扨又こなたの御名は何と申しまする。
▲シ「はあ。私の名の。
▲一ア「中々。
▲シ「はあ。それは坊主となりと新発意となりと仰せられい。
▲一ア「何と尊い御出家を、坊主の新発意のと呼ばるゝものでござるぞ。是非とも仰せられい。
▲シ「どうあつても申せでござるか。
▲一ア「中々。
▲シ「ちと待たせられい。
▲一ア「心得ました。
▲二ア{*3}「はて。異な事に詰められてござる。
▲一ア「左様でござる。
▲シ「これはいかな事。私は師匠にかゝつて居る内から、新発意新発意と呼ばれて、未だ名がござらぬ。何と致さう。いや、致し様がござる。
▲一ア「申し申し。こなたの御名は何と申しまする。
▲シ「私の名の。
▲一ア「中々。
▲シ「腹立てずの正直坊と申しまする。
▲一ア「これは又面白い御名でござる。これにも仔細でもござるか。
▲シ「さればその事でござる。総じて私は師匠にかゝつて居る内から、楊枝を一本取り違へた事がなし。その上つひに腹を立てぬとあつて、師匠の腹立てずの正直坊と付けられてござる。
▲一ア「近頃殊勝なお名でござる。まづそれに待たせられい。
▲シ「心得ました。
▲一ア「申し。今のを聞かせられてござるか。
▲二ア「これで承つてござる。
▲一ア「それにつき私の存じまするは、世に正直な者はござるが、腹を立てぬ者はござるまいによつて、こなたと私と致いてなぶりまして、腹を立てずば真の出家でござらうず。もし腹を立てたならば売僧でござらうによつて、追ひ戻いて遣りませうが、何とござらうぞ。
▲二ア「これは一段と良うござらう。
▲一ア「それならば、こなたあれへ行て名を問はせられい。
▲二ア「心得ました。申し申し。私はあれに居まして御名を承りませぬが、何と申しまするぞ。
▲シ「腹立てずの正直坊と申しまする。
▲二ア「これは結構な御名でござる。
▲一ア「いや。申し申し。私はつゝと物覚えの悪しい者で、早御名を失念致いてござるが。何とやら申しましたの。
▲シ「腹立てずの正直坊でござる。只、腹を立ていで正直なとさへ思し召せば済む事でござる。
▲一ア「はあ。何とやら後光が差す様にござる。
▲シ「いや。左様にもござらぬ。
▲二ア「やい。わ坊主。おのれが名はゝらはらの正月坊か。
▲シ「こゝな者はむざとした。はらはらの正月坊といふ名があるものか。腹立てずの正直坊ぢやいやい。
▲二ア「そりや腹を立つるわ。
▲シ「いゝや。立ては致さぬ。
▲一ア「やい。わ坊主。そちが名はゝらはらの障子骨か。
▲シ「むう。こゝな人。出家の名にはらはらの障子骨といふ名があるものか。腹立てずの正直坊ぢやいやい。
▲一ア「そりや腹を立つるわ。
▲シ「いゝや。立ては致さぬ。
▲二ア「やい。わ坊主。おのれが名はゝらはらの腹こきか。
▲シ「やい。こゝな者。腹こきといふ名があるものか。腹立てずの正直坊ぢやいやい。
▲二ア「そりや腹を立つるわ。
▲シ「いゝや。立ては致さぬ。
▲一ア「やい。わ坊主。おのれが名はゝらはらの腹らこぢや。
▲シ「やい。こゝな者。出家の名に腹らこといふ名があるものか。腹立てずの正直坊ぢやいやい。
▲一ア「そりや腹を立つるわ。
▲シ「いゝや。立ては致さぬ。
▲二ア「そりや腹を立つるわ。
▲シ「いゝや。立ては致さぬ。《両方よりひたもの突き出す。「いゝや。腹は立てぬ」と云ふ。余り度々突かれて》
あゝ。申し申し。
▲二人「何事ぢや。
▲シ「腹は立てねども、両人しておなぶりやるによつて、業が煮ゆがいやい。
▲二人「あのやくたいなし。とつとゝ行かしめ。
▲シ「面目もおりない。

校訂者注
 1:底本は、「▲ア「一先と」。
 2:底本、「勢」一字、判読困難。
 3:底本は、「▲シ「」。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の五 八 不腹立」(国立国会図書館D.C.

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