居杭(ゐぐひ) 大蔵流本
▲シテ「これはこの辺りに住居致す居杭と申す者でござる。こゝに御目を掛けさせらるゝお方がござるが、これへさへ参れば、居杭よう来たとては頭を張り、ひたもの頭を張らせらるゝ{*1}が迷惑さに、清水の観世音へ祈誓を掛けてござれば、御夢想にこの頭巾を下されてござる。この頭巾を着たならば頭を張られぬか、但し張られても痛うないか、何ぞ奇特のないと申す事はござるまい。今日はあれへ参り、頭巾の奇特を見ようと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つてもお宿にござれば良うござるが。お宿にござらぬ時は参つた詮もない事でござる。いや。参る程にこれでござる。まづ案内を乞はう。物申。案内申。
▲亭主「いや。表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲シ「私でござる。
▲亭「いゑ。居杭。そちならば案内に及ばうか。なぜにつゝと通りはせぬぞ。
▲シ「左様には存じてござれども、もしお客ばしござらうかと存じて案内を乞ひましてござる。
▲亭「それは念の入つた事ぢや。扨この間は久しう来なんだが、何として見えなんだぞ。
▲シ「さればその事でござる。この間は田舎へ参つて、それ故御無沙汰を申しましてござる。
▲亭「某は又その様な事は知らいで、誰ぞなか言でも云うて来ぬかと思うて、気遣ひをしたわ、居杭。
▲シ「誰もなか言を申す者はござらぬが、ありやうはこれへさへ参れば、居杭よう来たとては頭を張り、ひたもの頭を張らせらるゝが迷惑さに、おのづと御無沙汰致しましてござる。
▲亭「これはいかな事。そちが頭を張るは憎うては張らぬ。可愛さ余つて張る事ぢやによつて、そつとも心にかけな、居杭。
▲シ「ご存じのお方は良うござるが、ご存じないお方の思し召しは、あの居杭はあの様に頭を張られても、何が嬉しうてお出入りするぞと思し召す処が、迷惑にござる。
▲亭「これはいかな事。そちが頭を張るはいづれもご存じの事ぢやによつて、そつとも心にかけな、居杭。これはいかな事。今まで居た居杭が見えぬ。居杭、居杭。
▲シ「扨も扨も不思議な事でござる。この頭巾着たれば見えぬさうな。ちと鼻の先へ参らう。
▲亭「居杭、居杭。居杭はどちへ行たぞ。居杭、居杭。居杭はそれへ行かぬか。居杭、居杭。
▲シ「いよいよ見えぬさうな。ちと頭巾を取つて見よう。
▲亭「居杭、居杭。いゑ、居杭。そちはどちへ行たぞ。
▲シ「只今表で人が逢ひたいと申しましたによつて、表へ参りました。
▲亭「たまたま来ては早表へ出る。かう通れ。
▲シ「いや。これが良うござる。
▲亭「いやいや。平にかう通れ。
▲シ「それならば畏つてござる。
▲亭「扨この間は久しう来なんだ程に、五日も十日も留めて置いて、ひたもの頭を張らうぞ、居杭。
▲シ「たとへ往ねと仰せられても、五日や十日では往ぬる事ではござらぬ。
▲亭「又往なうと云うたりとも往なす事ではないぞ、居杭。又居杭が見えぬ。どちへ行たか知らぬ。居杭、居杭。
▲シ「扨も扨も奇特な事でござる。清水の観世音は験仏者ぢやと申すが、疑ひもござらぬ。
▲算置「占屋算。占の御用。しかも上手。うらや算。うらの御用。しかも上手。
▲亭「いや。これへ算置きが参る。一算置かせうと存ずる。いや。なうなう。しゝ申し。
▲シ「やあやあ。こちの事でござるか。何事でござる。
▲亭「いかにも和御料の事ぢや。そなたは陰陽か。
▲シ「いかにも陰陽でござる。
▲亭「ちと頼みたい事がある。かう通らしめ。
▲算「心得ました。はあ。これはこなたのお屋敷でござるか。
▲亭「中々。身共が屋敷でおりやる。
▲算「まづは五百八十年万々年も御子孫繁昌のお屋敷の図と見えまする。
▲亭「余の者の云ふと違うて、和御料達のさう仰しやれば、近頃満足する事でおりやる。
▲算「これは我々の存ぜいで叶はぬ事でござる。
▲亭「さうであらう。扨頼みたい事がおりやる。まづ下におりやれ。
▲算「心得ました。扨お尋ねなされたいと仰せらるゝはいかやうな事でござる。
▲亭「別なる事でもおりない。失せ物でおりやる。
▲算「失せ物。
▲亭「中々。
▲算「総じて失せ物の待ち人のと申すが算置きの手取り物でござる。
▲亭「さうであらう。
▲算「扨いつの事でござる。
▲亭「今日只今の事でおりやる。
▲算「今年は。《一年の元と日月刻限を云つて》
まづ手占を置いて見ませう。たんちやうけんろきんなんば。はゝあ。これは生類でござるの。
まづ手占を置いて見ませう。たんちやうけんろきんなんば。はゝあ。これは生類でござるの。
▲亭「扨々和御料は上手ぢや。いかにも生類でおりやる。
▲シ「扨も扨もいかい上手かな。疑ひもない生類でござる。又何事を申す。承らう。
▲算「この生類が合うて申すはいかゞでござるが、私の置く算はよう合ふとあつて、ある名は仰せられいで、ありやうが来たか{*2}ありやうが来たかなどゝ仰せらるゝ事でござる。
▲亭「定めてさうであらう。扨その生類がこの屋敷を離れたか離れぬかを見てくれさしめ。
▲算「はあ。かう見ました処が、この広いお屋敷{*3}でござるによつて、手占の分では知れませぬ。一算置きませう。
▲亭「それならば一算置いてくれさしめ。
▲算「心得ました。只今置き顕はいてお目に掛けませう。まづ今日の卦体がとうとこれに当たつて居りまする。
▲亭「はゝあ。これは珍しい算でおりやるの。
▲算「これは素人かと存じてござれば、良い処へお気が付きました。これは天狗の投げ算と申して、我の家ならで他にない算でござる。
▲亭「さうであらう。つひに見た事がおりない。
▲算「算木配りと申して、これを悉く置き直す事でござるが、殊の外難しい事でござる。
▲亭「定めてさうであらう。
▲算「一往六害の水、二義七陽の火、三生八難の木、四殺九厄の金、五鬼十の土。水生木、木生火、火生土、土生金、金生水、金克木、金克木。
▲亭「何とでおりやる。
▲算「はあ。大方知れましてござるが。こゝに金克木と克致いた処で、ちと難しうはござれども、さりながら大方知れましてござる。
▲亭「何と知れておりやる。
▲算「お屋敷の事は扨置き、お座敷を離れぬ失せ物でござる。
▲亭「いやいや。座敷に居て見えぬ物ではおりない。
▲算「扨それは何でござる。
▲亭「人でござる。
▲算「や。人。
▲亭「中々。
▲算「人などがこの曇り霞みもないお座敷の内で見えぬと申すは、何とも不審な事でござる。
▲亭「それにつき最前から合点の行かぬ事がある程に、きやつが居所を指いてくれさしめ。
▲算「居所を指いてくれい。
▲亭「中々。
▲算「これは良い処へお気が付きました。今一算置いて、今度こそ神変奇特を置き顕はいてお目に掛けませう。
▲亭「それが良からう。
▲算「犬土走れば猿木へ登る。鼠桁走れば猫きつと見たり見たり。知れましてござる。
▲亭「何とでおりやる。
▲算「こなたの左の方に座して居るとござる。
▲亭「いやいや。某が左の方には何も見えぬぞや。
▲算「いや。見た処は見えませぬ。きやつは神仏の加護を得た者と見えまするによつて、中々見た分では見えますまい。ちと捜いて見させられい。
▲亭「それならば捜いて見ようか。
▲算「それが良うござらう。
▲亭「やつとな。
▲シ「これはいかな事。すでに捕らへられうと致いた。ちと所を替へう。
▲算「何とお手に触はりまするか。
▲亭「何も手へ触はらぬ。
▲算「確かに左の方に居るとござるが。
▲亭「いやいや。何も手に当たらぬ。
▲算「申し申し。早所を替へました。
▲亭「何ぢや。所を替へた。
▲算「中々。
▲亭「それはどこに居るぞ。
▲算「それは今一算置かねば知れませぬ。
▲亭「それならば今一算置いてくれさしめ。
▲算「心得ました。今度こそ置いたり置いたりと仰せらるゝ様に置き顕はいてお目に掛けませう。
▲亭「早う置いてくれさしめ。
▲算「大水出づれば堤の弱り。何と尤な事ではござらぬか。
▲亭「尤な事でおりやる。
▲算「大風吹けば古家の祟り。これも尤な事でござる。
▲亭「その通りでおりやる。
▲算「あちらとこちらは隣{*4}りなりけり、あちらとこちらは隣りなりけり。知れましてござる。
▲亭「何とでおりやる。
▲算「今度はこなたと私の間に居て、こなたの顔をちくり、私の算を置く所をじろりじろりと見て居るとござる。
▲亭「そなたは最前もその様な事を仰しやつたが、お見やれ。和御料と私が間には何も見えぬぞや。
▲算「見た処は見えませねども、総じて神隠しなどゝ申して、かやうの事は時々ある事でござる。その上最前は、こなたの声高に仰せられたによつて、きやつが外いたものでござらう。今度はこなたと私と致いて誑いて捜しませうが、何とござらう。
▲亭「これは一段と良からう。
▲算「構へてぬからせらるゝな。
▲亭「ぬかる事ではおりない。
▲二人「やつとな。
▲シ「又捕らへられうと致いた。何と致さう。いや。致し様がござる。《八卦を取り散らし、算木を取つて》これこれ。いかな上手でも、これを取つたならば算は合ふまいと存ずる。
▲算「何と、お手には触はりませぬか。
▲亭「いやいや。何も手には触はらぬ。
▲算「確かにこの辺りに居るはずでござるが。いや。申し。算の合はぬこそは道理なれ。この様に八卦を取り散らし、その上算木が見えませぬ。こなたの取らせられて何の役に立たぬ物でござる。こちへ返させられい。
▲亭「そちはむざとした{*5}事を云ふ。身共が取つて何にするものぢや。
▲算「でもこなたの取らせられいで誰が取るものでござる。
▲亭「これこれ。皆これへ出た。和御料は最前の生類が合うたばかりで、いかい下手ぢや。早う仕舞うて帰らしめ。
▲算「こなたは算置きを呼うで、算は置かせうではなうて、なぶらせらるゝと申すものでござる。
▲シ「ちと喧嘩をさせう。
▲亭「あ痛、あ痛、あ痛。やい。そこな者。
▲算「何事でござる。
▲亭「なぜに身共が鼻の抜くる程引いた。
▲算「何ぢや。鼻を引いた。
▲亭「中々。
▲算「こなたは物に狂はせらるゝか。身共は算木を仕舞うて居て、そこへ手もやりはせぬものを。
▲亭「おのれがせいで誰がするものぢや。
▲算「あ痛、あ痛、あ痛。なう。そこな人。
▲亭「何事ぢや。
▲算「何事とは。なぜに某が耳を引かせられた。
▲亭「そちは気が違うたか。身共はそれへ手をやりはせぬ。
▲算「はて、こなたがせいで誰がするものでござる。
▲亭「あ痛、あ痛、あ痛。やいやいやい。そこな奴。
▲算「やあ。
▲亭「やあとは。おのれ憎い奴の。諸侍をなぜに打擲した。
▲算「何ぢや。打擲。
▲亭「中々。
▲算「《笑うて》いよいよこなたは物に狂ふと見えた。これお見やれ。まだ算袋の紐を締めて、そこへ手もやりは致さぬ。
▲亭「おのれがせいで誰がするものぢや。
▲算「あ痛、あ痛、あ痛。なうなうなう。そこな人。
▲亭「何事ぢや。
▲算「何事とは落ち着いた。算置きも公界者ぢや。なぜに打擲召された。
▲亭「いや。おのれは最前から色々の云ひ掛けをする。某はそれへ手もやりはせぬ。
▲算「はて、和御料がせいで誰がするものぢや。
▲亭「あ痛、あ痛、あ痛。あゝ。いたいたいた。もはや堪忍ならぬ。果たし合はう。
▲算「引く事ではないぞ。
▲二人「いざござれ。やあやあやあ。
▲シ「扨も扨も面白い事かな。これはいかな事。見れば真の喧嘩になつた。出ずばなるまい。はあ。申し申し。
▲亭「何やら声が致す。
▲算「真に致す。
▲シ「聊爾をなさるゝな。お尋ねの居杭はこりや、これに居りまする。
▲亭「尋ぬる者はあれでござる。
▲算「急いで捕らへさせられい。
▲亭「あの横着者。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
▲シ「あゝ。許させられい許させられい。
校訂者注
1:底本は、「張らせらるが」。
2:底本は、「ありやうが有りやうが来たか」。
3:底本は、「屋御敷」。
4:底本、「隣」一字、判読困難。
5:底本は、「むざしとした」。
底本:『狂言全集 中巻』「巻の一 三 居杭」(国立国会図書館D.C.)
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