河原太郎(かはらたらう) 大蔵流本

▲女「これはこの辺りに住居致す太郎と申す者の妻でござる。妾は毎年酒を造つて商売致しまする。則ち今日は河原の市でござるによつて、あれへ参り商売致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠にいつもとは申しながら、当年は殊の外酒がよう出来て、この様な嬉しい事はござらぬ。いや。参る程に河原へ参つた。扨も扨も、今日は天気が良いによつて、夥しい市立ちゞや。この辺りが良さゝうな。さらばこれへ店を出さう。《腰桶を置き、内より錫を出し、酒林を立て掛け、五度土器も出して置く》やいやい。太郎が酒はこれでござる。御用があらば、こなたへ仰せられいや。《と云うて居付く》
▲シテ「これはこの辺りに住居致す太郎と申す者でござる。某が女共は毎年酒を造つて商売致しまする。則ち当年も造つてござる。それにつき夜前試しを致さうと申してござれば、明日河原へ参れと申したによつて、これより河原へ参りねだつてたべうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に今日は一段の天気でござるによつて、定めて市立ちもあまたござらうと存ずる。何かと申す内に河原ぢや。扨も扨も夥しい市立ちゞや。今日は良い天気ぢやによつて、やがて人もあまた出るでござらう。扨、女共はどこ元へ店を出した事ぢや知らぬ。いや。さればこそこれに居る。なうなう。女共。早う御出やつたの。なうなう。女共。早う御出やつたの。
▲女「いゑ。これのは出させられてござるか。
▲シ「今日は天気が良いによつて、夥しい市立ちでおりやるよ。
▲女「中々。夥しい人でござる。扨こなたは何と思うて出させられてござるぞ。
▲シ「その事ぢや。夜前も試しをせうと云うたれば、明日河原へ来いと仰しやつたによつて、それ故参つた。
▲女「やれやれ。ようこそ出させられたれ。さりながら今朝からまだ売り初めを致さぬによつて、後にござれ。
▲シ「扨々そなたは悪い合点ぢや。身共が試しをしたいと云ふも、別の事ではない。酒が良う出来たか悪しう出来たか心元ないによつて、きいて見ようといふ事でおりやる。
▲女「その分ならばお気遣ひをなさるゝな。いつもとは申しながら、当年は取り分き風味が良う出来てござる。
▲シ「いやいや。そなたばかり良う出来たと云うて、身共がきいて見ねば知れぬ。その上万一悪しい酒を市立ちの衆へ進ぜては、重ねて太郎が酒は悪しいなどゝ仰せらるれば、以来商売の邪魔になる事ぢやによつて、呑みたうはなけれども、少しばかりきかせてくれさしめ。
▲女「近頃尤ではござれども、その分は必ずお気遣ひなさるゝな。妾もいつもの旦那衆でござる程に、中々悪しい酒を進ずる事ではござらぬによつて、こなたのきいて見させらるゝには及ばぬ事でござる。
▲シ「その上甘い酒を好く衆もあり、又辛いを参る衆もある処で、とかく某がきいて見ねば知れぬ。深しう呑みはすまい。只一つきかせてくれさしめ。
▲女「いやいや。何程に仰せられても、売り初めをせぬ内は進ずる事はなりませぬぞ。
▲シ「いかに売り初めをせぬと云うて、他の者ではなし、身共に呑まするは則ち売り初めも同じ事でおりやる。
▲女「妾はお足を取らねば売り初めとは思ひませぬ。
▲シ「扨々そなたは義理の堅い事を仰しやる。たとへ売り初めをせぬ内に人に振舞うたとて、売るゝ酒ならば売れうぞ。又売れぬものならば売れまいまでよ。
▲女「なう。腹立ちや腹立ちや。こなたはこの酒を誰が物ぢやと思うてその様なさきの悪い事を仰しやるぞ。
▲シ「総じて商ひは吉相と云ふが、そなたの様にきつい事を云うたならば、え売れはすまいぞ。
▲女「いよいよさきの悪い事を仰しやる。その様に仰しやつたならば、尚々酒を振舞ふ事はなりませぬぞ。
▲シ「すればこれ程に云うても振舞ふ事はならぬか。
▲女「中々。なりませぬ。
▲シ「置き居れ。呑むまい。おのれ、後程来て酒が売れずば仕様があるぞ。《と云うて立つて》
扨々憎い奴でござる。散々に打擲致さうと存じてござれども、人多ければ外聞もいかゞぢやと存じて堪忍を致いたが、何と致さうぞ。いや。思ひ出いた。仕様がござる。《と云うて太鼓座へ引つ込む》
▲立衆「申し。いづれもござるか。
▲立衆「これに居りまする。
▲立衆「今日は河原の市でござるによつて、参つて市立ちを見物致し、又例の太郎が酒をたべうではござらぬか。
▲立衆「一段と良うござらう。
▲立衆「それならば、いづれもさあさあござれござれ。
▲立衆の皆「参りまする参りまする。
▲立「今日は天気も良うござるによつて、夥しい市立ちでござらう。
▲立「誠に夥しい市立ちでござらう。《立衆出るを見て、太郎、笠を着て一の松よりさし扇にて招く》
▲立「誰やら呼びまする。
▲立「誰やら呼びまする。
▲立「行て参りませう。
▲立「それが良うござらう。
▲立「誰ぢや。
▲シ「私でござる。
▲立「ゑい。太郎か。今そちが所へ行く処であつた。
▲シ「私も左様に存じて、これまで出迎へましてござる。
▲立「それは又いかやうの事でおりやるぞ。
▲シ「さればその事でござる。当年は何と致いてやら、私の酒を散々造り損なうて、中々召し上がらるゝ御酒ではござらぬ程に、女共に、な持つて出そと申してござれども、女のはかなさはそれをも承らいで、持つて出ましてござる程に、必ず召し上がられて下さるゝな。
▲立「扨々それは気の毒な事ぢや。さりながら皆いつも寄りつけた事ぢやによつて、少しづゝなりとも呑うでやらう。
▲シ「いかないかな。甘う酸う苦う辛うて、ひと口も召し上がらるゝ酒ではござらぬ程に、平に御無用でござる。
▲立「扨々そちは正直な者ぢや。総じて悪しい物をも良いと云うてこそ売るに、扨々そちは奇特な者ぢや。
▲シ「私も売りたうはござれども、いつもの旦那衆へ悪しい酒を進ぜては、以来が売れませぬによつて、かやうに申しまする。又良う出来た時分には左右を致しませう程に、皆御出なされて召し上がられて下されい。
▲立「何が扨左右を申したならば、皆行て呑うでやらうぞ。
▲シ「それは忝うござる。
▲立「それならば是非に及びませぬ。戻りませうぞ。
▲立「それが良うござらう。
▲立「さあさあ。ござれござれ。
▲立「参る参る。
▲立「今日は太郎が酒が悪しうて散々でござる。
▲立「左様でござる。《立衆一遍廻るを女見つけて》
▲女「申し申し。いつもの太郎が酒でござる。いづれもこれへ寄つて参りませい。
▲立「いやいや。その様な酸い酒は嫌ぢや。
▲女「いや。殊の外良う出来ましてござるぞや。
▲立「その様な辛い酒は嫌ぢや。
▲立「苦い酒は嫌ぢや。《など云うて引つ込む》
▲女「はて合点の行かぬ。いつも寄らるゝ衆が皆寄られぬ。《と云うて又居付く》
▲シ「なうなう嬉しや。まんまと調儀致いて、いつもの旦那衆は皆戻いた。他に珍しい人はえ参るまい。さらばあれへ行てねだらうと存ずる。いや。なうなう。今日は天気が良いによつて、夥しい市立ちゞや。定めて酒もゝはや売り切つたであらうと思うて迎へに参つた。
▲女「なう。腹立ちや腹立ちや。そなたはいつもの旦那衆へ何やら云うて、ようお帰しやつたの。
▲シ「こゝな者は何事を云ふぞ。何しに身共がその様な事をするものぢや。その上最前試しをせうと云へば、売り初めをせぬと云うて振舞はなんだ程に、定めて夥しう売れたであらう。鳥目もあまたあらう。これへお出しやれ。某が繋いでやらう。
▲女「ゑい。腹立ちや腹立ちや。我が酒を散々に悪口して売れぬ様にするといふ事があるものか。こゝな男畜生め。
▲シ「何ぢや。畜生ぢや。
▲女「中々。
▲シ「おのれ、云はせて置けば方領もない。藁で束ねても男は男ぢやに。夫に向かうて男畜生と云ふ事があるものか。
▲女「でも我が物を売れぬ様にするは、畜生も同じ事ではないか。
▲シ「言葉甘う云うて置けば勝ちに乗つて色々の事をぬかす。おのれ、散々に打擲してやらう。《「やつとな」と云うて酒林を取りて打擲する。女迷惑がりて酒壺を突き出す》
おのれが酒壺を身共にさしつけたというて、某は呑みたうはない。おのれ、腰の骨を打ち折つてやらう。《女又さしつくる》
何程さし出いたというても、呑む事ではない。おのれ、酒壺ともに打ち砕かう。《女又しきりにさしつくる》
最前からしきりにその酒壺を身共にさしつくるが、それは真実、某に呑ませうと思うてさし出すか。但し打たるゝが迷惑さにさし出すか。
▲女「真実こなたに進じませうと存じて出しまする。
▲シ「何ぢや。真実振舞ふ心でさし出すと云ふか。
▲女「中々。
▲シ「それ程に思ふ事ならば、呑みたうはなけれども、是非に及ばぬ。堪忍して呑うでやらうか。
▲女「それは忝うござる。何とぞ了簡をして呑うで下されい。
▲シ「それならばまづ下に居よう。
▲女「それが良うござらう。さあさあ。これで一つ参れ。《五度土器を出す》
▲シ「呑うでやらう程にこれへつがしめ。
▲女「心得ました。
▲シ「おう。恰度ある。
▲女「恰度ござる。扨風味は何とござるぞ。
▲シ「風味の。
▲女「中々。
▲シ「ありやうは、今朝から呑みたい呑みたいと思ふ処へ、つゝかけて呑うだによつて、只冷やりとばかりして風味を覚えぬ。今一つ呑うで風味を覚えう。
▲女「それが良うござらう。
▲シ「又つがしめ。
▲女「心得ました。
▲シ「恰度ある。
▲女「又恰度ござる。
▲シ「いや。なうなう。
▲女「何事でござる。
▲シ「誠にそなたの自慢をする程あつて、いつもとは云ひながら取り分き良う出来ておりやるわ。
▲女「中々。殊の外良う出来てござる。扨今一つ参りませぬか。
▲シ「むゝ。今一つ呑まうか。とてもの事にその酒壺の蓋で呑まう。
▲女「何でなりとも参りませい。
▲シ「又つがしめ。
▲女「心得ました。
▲シ「扨も扨も、呑めば呑む程うまい酒ぢや。扨そなたにちと願ひがある。
▲女「それはいかやうの事でござるぞ。
▲シ「某も今まで色々として呑うだれども、まだ滝呑みをした事がない程に、滝呑みをさせてくれさしめ。
▲女「何が扨こなたの酒でござるによつて、いかやうにしてなりとも参れ。
▲シ「それは近頃満足した。さあさあ。これへついでくれさしめ。
▲女「心得ました。
▲シ「さらば呑む程に、この盃の中に酒の絶えぬ様につがしめ。
▲女「心得ました。つぎまするぞ。
▲シ「さあさあ。つがしめつがしめ。むゝ。扨々甘い事ぢや。《女、顔へ酒を掛くる》
やい。こゝな者。なぜに顔へ酒をつぎかけたぞ。
▲女「今のは妾が粗相で掛けました。許させられい。
▲シ「それならば許す。今度は{*1}顔へ掛からぬ様についでくれさしめ。
▲女「心得ました。
▲シ「むゝ。扨も扨も気味の良い事ぢや。
▲女「さあさあ。参れ参れ。《と云ひながら又顔へ掛くる》
▲シ「これは何とするぞ。
▲女「さあさあ。呑ませられい呑ませられい。
▲シ「これは何とするぞ。
▲女「さあさあ。参れ参れ。
▲シ「あゝ。許さしめ。
▲女「どれへござるぞ。こなたの存分に参れ。《と云うて、女、後ろから注ぎ掛けながら追ひ入りにする》
《又酒を注ぎ掛くる時、「おのれ憎い奴め。顔へ酒を掛くるといふ事があるものか」と云うて、又酒林にて追ひ入る。女、「許させられい許させられい」と云うて逃げ入りにも{*2}》

校訂者注
 1:底本は、「此度は」。
 2:底本は、「追入るにも」。岩波文庫本(『能狂言』1943刊)に従い改めた。

底本:『狂言全集 中巻』「巻の一 六 河原新市」(国立国会図書館D.C.

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