子盗人(こぬすびと) 大蔵流本
▲女「《初めに乳母子を抱いて》扨も扨もよう御寝なるお子様かな。さらば表のお座敷へ連れまして休ませませう。申し申し。こゝにゆるりと休ませられい。妾は勝手へ行て茶をたべて参りませう。《と云うて中入り》
▲シテ「名誉の是者でござる。この間、辺りの若い者と寄り合うて、鹿の角を揉む程に揉む程に、縄に綯ふ程致いてござれば、散々揉み損なうて、家一跡は申すに及ばず、女共が身の周りまで打ち込うでござるによつて、宿へ戻る事もならず。何とも致さう様がござらぬ。誠に世話に申す如く、相撲の果ては喧嘩になり、博奕の果ては盗みを致すより他はないと申すが、某も只今は左様の手段ならでは致さう様がござらぬ。それにつき、下の町に誰殿と申して大有徳な人がござるが、殊ない道具好きで、ふだん道具が取り散らいてあると申すによつて、今夜あれへ参り、何ぞ道具の一色二色も案内なしにそつと借つて参り、それを元手に致し、何とぞ打ち返さうと存ずる。総じてかやうの事は宵からつけたが良いと申すによつて、時分も良うござる程に、まづそろりそろりと参らうと存ずる。誠にかやうの事を致せば、後には面白うなつて本のものになると申すが、私は中々左様の事ではござらぬ。参る程にこれでござる。扨も扨も用心厳しい体かな。これでは中々這入られまい。それそれ。先度裏道を通つたれば、まだ塀の手の合はぬ所があつた。さらば裏道へ参らう。何とぞ先度の儘であれば良うござるが。さればこそこの葭垣一重ぢや。これを切りあくれば則ち表の座敷ぢや。この様な事があらうと存じて鋸を用意致いた。さらば切りあけう。づかづかづか。づかづかづか。づゝかり。さればこれを引きめくらう。めりゝめりゝ。めりめりめり。鳴つたり鳴つたり。したゝかな鳴り様であつた。身共はうろたへた。人に聞かすまいと思うて、我が耳をちやつと塞いだ。人は聞きつけぬか知らぬ。誰も聞きつけぬと見えて静かな。さらばくゞらう。ゑいゑい。やつとな。はあ。しつけぬ事をすれば胸がだくめいて気味が悪い。いや。又これに塀がある。この分の塀は飛び越えて参らう。やつとな。さればこそこれが表の座敷ぢや。まづ戸をあけて見よう。さらさらさら。《肝を潰して退きて》火がともつてある。まづ落ち着いた。人が居るならばその儘取つて出ようが、人は居らぬと見えた。だますかも知れぬ。見届けて参らう。あゝ。これはこは物ぢやが。《抜き足にて行き、のぞき見て》なうなう。嬉しや嬉しや。誰も居らぬ。さらさらさら。扨も扨も結構な普請かな。いや又有徳人の普請は違うたものぢや。隅から隅までも手の込うだ良い普請ぢや。さればこそこれに早、いろいろ道具が取り散らいてある。これは何ぢや。はゝあ。茶の湯の道具ぢや。風炉・釜・茶碗・茶入。扨も扨も結構な道具ぢや。この釜は定めて芦屋であらう。又この茶碗は疑ひもない高麗であらう。扨又この茶入れの姿形のしほらしさ。これは何を一色取つても一かどの元手ぢや。はゝあ。武具・馬具。扨も扨も美々しい事かな。や。これに結構な小袖がある。これはこちらの道具とは取り合はぬ。それはともあれこの間、女共が機嫌が悪しうござつた程に、さらばこれを取つて行て女共に遣はさうと存ずる。《と云うて小袖を取り、子を見付けて》
はゝあ。これに子が寝させてある。これは定めて誰殿のいとけないでござらうが、何としてこの様な人遠い所へ寝させて置いたか知らぬ。定めて乳母めがこの子をこれへ寝させて、おのれは勝手へ行て雑談がな云うて居るでござらう。や。目をほつちりとあいて。何ぢや。手を出いて抱からう。おう。抱きませう抱きませう。さらば抱きませう。やつとな。扨も扨もこなたは良い子ぢや。総じて下々の子は知らぬ者を見ては必ず泣くものぢやが、和御料は有徳人の子程あつて、このむくつけな者を見て、ようお笑やるの。何ぞ芸はないか。手打ち手打ち手打ち。《笑ひて》もうないか。かぶりかぶりかぶり。《笑ふ》扨々そなたは芸者ぢや。余り声高に云うたによつて機嫌が損ねた。ちとすかしませう。ころころころ。や。愛し子でござるを誰が又泣かいた。いたちが来るによ。泣くまいぞや泣くまいぞや。《返して云ふ》さればこそ機嫌が直つた。某も子を持つて覚えがござるが、眉目の悪しい子でさへ親の身では可愛うござるに、誰殿は果報な人ぢや。そなたの様な良い子を持つて、さぞ嬉しうござらう。総じて狐の子は頬白と云ふが、そなたは誰殿にようお似やつて良い子ぢや。良い器量ぢや。もはや何も芸はないか。や。何ぢや。合点合点合点。もうないか。にぎにぎにぎにぎ。《笑うて》扨々芸者ぢや。あの余念のない顔は。ちとこそぐりませう。こそこそこそこそ。《笑ふ》扨々良い機嫌ぢや。あゝ。余り声高に申すによつて、又ちと機嫌が損ねた。今度は肩車に乗せてすかしませう。《子を肩に乗せて》はあ。愛し殿御を肩に乗せて。乗せて乗せて。御所へ参らう御所へ参らう。《いくつも返して云ふ》
▲女「最前、わ子様を表の座敷に寝さしましてござるが、よう御寝なると見えてお声が致さぬ。参つて見ようと思ひまする。《と云うて盗人を見付けて》
申し。ござりまするか。
▲亭主「何事ぢや。
▲女「表のお座敷へ盗人が入つてお子様のお守りをしまする。
▲亭「心得た。《と云うて肩ぬぎ、太刀持つて》
やいやい。表の座敷へ盗人が入つた。こゝは某が受け取つた。裏へも背戸へも人を廻せ。出合へ出合へ出合へ。
▲シ「これはいかな事。見付けられたさうな。《と云うて子を脇座へ置いて、シテ柱の方へ逃ぐる》
▲亭「やい。おのれ憎い奴の。胴斬りにしてやらう。
▲シ「お座敷を見物に参りました。
▲亭「何の夜中に座敷を見物。唐竹割りにしてやらう。
▲シ「あゝ。申し申し。聊爾をなさるゝな。私は盗人でない証拠には、こなたの御大切のわ子様を乳母めが人遠い所へ寝さしまして、おのれはどれへやら雑談に参つてござるによつて、則ちお守りを致いて居りました。
▲亭「何の子の守りをするものか。胴斬りにしてやらう。
▲シ「すればどうあつても斬らせらるゝか。
▲亭「斬らいで何とするものぢや。
▲シ「それならばまづこの子から斬らせられい。
▲亭「その子をそこに置け。
▲シ「さあ斬らせられい。
▲亭「置かずばその子ともに斬つて仕舞はう。《乳母もだえて「あゝ。危ない。まづ待たせられい。早うそのお子を置いて逃げて行け」と云うて主へ止める》
▲シ「さあ斬らせられい斬らせられい。《と云うて段々廻りて、シテ柱の際へ子を下ろし逃げて入る》
あゝ。許させられい許させられい許させられい。
▲亭「憎い奴の。あの横着者。その盗人を捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。《と云うて追ひ入る》
《乳母は後にて子を抱き上げ、「扨々危ない目に遭はせられた程に、御寿命は長からう。愛しのわ子様や。五百八十年七廻りまでも生き延びさせられう。なうなう。嬉しや嬉しや」と云うて入る》
底本:『狂言全集 中巻』「巻の一 七 子盗人」(国立国会図書館D.C.)
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