雷(かみなり)　大蔵流本

▲アト「《次第》薬種も持たぬ藪くすし、薬種も持たぬ藪くすし、きはだや頼みなるらん。
これは洛中に住居致す医師でござる。只今都には典薬頭の何のと申して上手の医師があまたござるによつて、我等如きの藪医師には誰も脈を見する者もござらぬ程に、今は渡世を送らう様がなうて迷惑致す事でござる。それにつき承れば東には医師が少ないと申すによつて、これより東へ下り、ひと稼ぎ稼いで見ようと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に住み慣れた花の都を振り捨てゝ他国へ参ると申すは、本意にはござらねども、これも浮世の習ひなれば是非もない事でござる。又仕合せを致いたならば都へ上らうと存ずる。いや。参る程にこれは渺々とした広い野へ出たが、これは何といふ所ぢや知らぬ。これはいかな事。俄かに空が曇つて神鳴りが致す。この様な所に長居は無用。只急いで里近くへ参らうと存ずる。
▲シテ「ぴかりぴかり。ぐわらりぐわらり。
▲ア「あゝ。桑原桑原。《一遍廻りて脇座へ屈む》
▲シ「ぴかりぴかり。ぐわらりぐわらり。ぐわらぐわらどう。あゝ。痛や痛や痛や痛や。今日は心面白う鳴り渡つたれば、ふと雲間を踏み外いてこの野へ落ちて、したゝかに腰の骨を打つた。いや。これに何者やら居る。やいやい。そこな奴。
▲ア「はあ。
▲シ「おのれは何者ぢや。
▲ア「私は医師でござる。
▲シ「石がものを云ふものか。
▲ア「いや。医師と申して人間の病ひを治す者でござる。
▲シ「何ぢや。医師と云うて人間の病ひを治す者ぢや。
▲ア「中々。
▲シ「身共は雷ぢやいやい。
▲ア「はあ。
▲シ「今日は心面白く鳴り廻つたれば、ふと雲間を踏み外いてこゝへ落ちて、腰の骨をしたゝかに打つた。さりながら何ぞ取り付く物があれば即ち天上するが、折節何もない所で、今は天上せう様がない。汝誠の医師ならば、身共が腰を治いてくれい。
▲ア「畏つてはござりまするが、私も今まで色々の療治を致いてござれども、お雷の御療治はつひに致いた事がござらぬ。これは御免なされて下されい。
▲シ「おのれは憎い奴の。人間の雷のと云うて別に違ふ事はあるまい。おのれ療治せずば引き裂いてのけう。
▲ア「はあ。真つ平助けて下されい。御療治を致しませう。
▲シ「何ぢや。療治をせうと云ふか。
▲ア「左様でござる。
▲シ「それならば命を助けてやらう程に、早う治いてくれい。
▲ア「畏つてござる。まづお脈を伺ひませう。
▲シ「いかやうにしてなりとも治いてくれい。
▲ア「心得ました。《と云うて頭脈を見る》
▲シ「これは何とする。
▲ア「はあ。人間の脈は左右の手で見まするが、お雷の脈は頭脈と申して頭で見まする。
▲シ「それ程知つて居るではないか。
▲ア「はあ。
▲シ「扨何とあるぞ。
▲ア「お雷には御持病に中風があると見えまする。
▲シ「扨々汝はいかい上手ぢや。中々。持病に中風があるわやい。
▲ア「左様でござらう。宿元でござらばお薬を上げませうが、こゝ元は途中でござるによつて、お針を致しませう。
▲シ「針とは。
▲ア「これでござる。
▲シ「それを何とするぞ。
▲ア「これを痛む所へ打ち込みまする。
▲シ「こゝな者は。何とそれが立てらるゝものぢや。
▲ア「これはいかな事。人間でさへ立てまするものを、お雷の立てさせられぬと申す事があるものでござるか
▲シ「何ぢや。人間が立つる。
▲ア「中々。
▲シ「良い良い。人間の立つるものならば身共も立てう程に、打つてくれい。
▲ア「畏つてござる。まづ横にならせられい。
▲シ「心得た。
▲ア「この辺りでござるか。
▲シ「おう。その辺りぢや。
▲ア「只今打ちまする程に動かせらるゝな。
▲シ「動く事ではない。
▲ア「はつしはつしはつし。
▲シ「あゝ。痛。
▲ア「申し。その様に動かせられてはなりませぬ程に、動かぬ様になされい。
▲シ「心得た。痛まぬ様に打て。
▲ア「畏つてござる。はつし。
▲シ「あ痛。
▲ア「はつし。
▲シ「あ痛。
▲ア「はつしはつしはつし。
▲シ「あ痛。あ痛。あ痛。早う取つてくれい。
▲ア「只今取りまする。何と良うござるか。
▲シ「むゝ。何とやらこちらの方は余程快う覚ゆる。今度はこちへも打つてくれい。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「必ず痛まぬ様に打て。
▲ア「今の様に動かせられては針が打たれませぬ程に、動かぬ様になされて下されい。
▲シ「心得た。
▲ア「この辺りでござるか。
▲シ「おう。その辺りぢや。
▲ア「今打ちまする。
▲シ「心得た。
▲ア「はつし。
▲シ「あ痛。
▲ア「これはいかな事。その様に動かせらるゝな。
▲シ「痛まぬ様に打て。
▲ア「心得ました。はつし。
▲シ「あゝ痛。
▲ア「はつし。
▲シ「あ痛。
▲ア「はつしはつしはつしはつし。
▲シ「あ痛。あ痛。あ痛。あ痛。早う取つてくれい。
▲ア「畏つてござる。はあ。取りましてござる。
▲シ「何と取つたか。
▲ア「中々。取りました。
▲シ「それならば起きて見よう。やつとな。はあ。一段と快うなつた。とてもの事に立つて見よう。
▲ア「それが良うござらう。
▲シ「はゝあ。すきと快うなつた。もはやすぐに天上せう。
▲ア「あゝ。まづ待たせられい。
▲シ「何事ぢや。
▲ア「薬礼を下されい。
▲シ「薬礼とは。
▲ア「さればその事でござる。人間の病ひも、療治致せば分限に応じてそれぞれに礼を致しまする。こなたも礼をして天上なされい。
▲シ「むゝ。これは尤ぢや。さりながら今日はふと雲間を踏み外いてこゝへ落ちたによつて、何も持ち合はせがない。汝が宿を云うて置け。重ねて落ちて取らせうぞ。
▲ア「それは何とも迷惑にござる程に、何ぞ薬礼を置いてござれ。
▲シ「それならばこの撥をやらう。
▲ア「それは何の役に立ちませぬ物でござる。
▲シ「それならばこの太鼓をやらうか。
▲ア「それもいらぬ物でござる。
▲シ「今も云ふ通り、他には何も持ち合はせがない。それにつき、人間といふものは願望のあるものぢやが、汝はその様な事はないか。
▲ア「中々。望みがござりまする。
▲シ「それを云うて見よ。
▲ア「雨風はこなたの御自由になりまするか。
▲シ「中々。雨風は身共が儘になる事ぢや。
▲ア「総じて人間は、当年は旱損の又は水損のと申して薬礼をくれませぬ。我等如きの者は、世の中さへ良うござれば渡世が致し良うござる程に、旱損水損のない様に守つて下されい。
▲シ「これは尤な望みぢや。それはいか程の間、守つてとらせうぞ。
▲ア「いか程と申す事はござらぬ。いつまでも世の中の良い様にして下されい。
▲シ「いつまでもと云うては限りがない。百年が間、旱損水損のない様にしてとらせう。
▲ア「百年と云うては余り少なうござる。一万年ばかりも守つて下されい。
▲シ「それも夥しい事ぢや。良い良い。某が了簡を以て八百年が間、旱損水損のない様にしてとらせう。
▲ア「これは忝うござる。
▲シ「その上汝を典薬の頭にないてとらせうぞ。
▲ア「尚々でござる。
▲シ「約束の違はぬ様に、この由を謡うて天上せう。それへ寄つて聞け。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「降りつ照らいつ、降りつ照らいつ、八百年がその間、旱損水損もあるまじや。御身は薬師の化現かや、中風を治すくすしを、典薬の頭と云ひ捨てゝ、又雷は上りけり、またかみなりはのぼりけり。
ぴかりぴかり。ぐわらりぐわらりぐわらり。
▲ア「桑原、桑原、桑原。
《と云うて耳を塞ぎ、後より入る》

底本：『狂言全集　中巻』「巻の一　九　針立雷」（国立国会図書館D.C.）

前頁　　目次　　次頁