鶏鳴(けいめい) 大蔵流本

▲主「これはこの辺りに住居致す者でござる。明日は未明に太郎冠者を山一つあなたへ使ひに遣はさうと存ずる。呼び出いて申し付けう。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。明朝未明に山一つあなたへ使ひに遣る程に、一番鶏が歌うたならば起こせ。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「必ず忘れぬ様にせい。
▲シ「心得ました。
▲主「ゑい。
▲シ「はあ。これはいかな事。明朝未明にお使ひに遣はさるゝによつて、一番鶏が歌うたならば起こせと仰せ付けられた。何とぞ寝忘れぬ様に致さうと存ずる。
はあ。よう寝た。これはいかな事。抜群に日がたけた。何と致さう。いや。致し様がござる。申し申し。
▲主「何事ぢや。
▲シ「夜が明けましてござる。
▲主「これはいかな事。一番鶏が歌うたならば起こせと云ひ付けたに、これは早抜群に日がたけた。なぜに早う起こさぬぞ。
▲シ「さればその事でござる。私も鶏が歌ふか鶏が歌ふかと存じて耳を澄まいて居りましたが、世に鳴く鳥はござるが、歌ふ鳥はござりませぬ。
▲主「こゝな者はむざとした。鳴くと云ふも歌ふと云ふも同じ事ぢやいやい。
▲シ「古歌にも鳴くとこそござれ。歌ふとはござるまい。
▲主「推参な。おのれが分で古歌だてを云ひ居る。古歌にあらば読め。
▲シ「心得ました。
とりが鳴く東の奥のみちのくの小田守る山に黄金花咲く。
何と鳴くではござらぬか。
▲主「それは定めて歌ふであらう。
▲シ「こなたの分と致いて、古歌を直させらるゝ事はなりますまい。
▲主「某が方には歌ふといふ古歌がある。
▲シ「あらば読ませられい。
▲主「心得た。
鶏立の江のほとりにはそれ鶏も歌ふなりけり。
何と歌ふではないか。
▲シ「いや。申し。何とその様な短い歌があるものでござるぞ。
▲主「いやいや。長歌短歌と云うて、短い歌もあるいやい。
▲シ「いかに長歌短歌ぢやと申しても、その様な短い歌はござるまい。その上私の方にはまだ鳴くと申す古歌がござる。
▲主「あらば読め。
▲シ「心得ました。
鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の聞こえぬ里の暁もがな。
何と鳴くではござらぬか。
▲主「それも歌ふでがなあらう。
▲シ「こなたの分として、古歌を直させらるゝ事はなりますまい。
▲主「まだこちにもある。
▲シ「あらば読ませられい。
▲主「心得た。《又初めのを早く云ふ》
▲シ「扨はこなたの事でござる。
▲主「こなたの事とは。
▲シ「褻にも晴れにも歌一首と申すが、それは最前の歌でござる。
▲主「こゝな奴は。歌は一つなれども、早歌と云うて違うてある。
▲シ「いかに早歌でも歌は同じ歌でござる。その上私の方にはまだござる。
▲主「あらば読め。
▲シ「心得ました。
夜も明けばきつにはめなんくだかけのまだきに鳴きてせなをやりつる。
その上詩にも。
寂々たる函関鎖して未だ開かず。田文が車馬秦を出でゝ来たる。朱門三千の客を養はずんば。誰か雞鳴を為して放廻することを得ん。
この心は、昔唐土に函谷関と申す関の候ひしが、この関の習ひにて鶏の鳴く声を聞いて関の戸を開く。孟嘗君と云ひし人、討ち洩らされて隣国へ落ちて行く時、夜半ばかりにかの関に到り鶏の鳴く真似をさせければ、関の人々まことの鶏と心得、関の戸を開く。かるが故に難なく隣国へ落ちて行く。それにも鶏の空鳴きしつるとこそ候へ。やはか空唱ふとはござるまい。
▲主「まづそれに待て。
▲シ「心得ました。
▲主「これはいかな事。太郎冠者といらざる古歌詮索を致いてほうど詰まつた。何と致さう。いや。致し様がござる。やいやい。太郎冠者。
▲シ「何事でござる。
▲主「こちには歌ふといふ謡があるが、汝が方にもあるか。
▲シ「こなたの方にござれば私の方にもござる。あらば謡はせられい。
▲主「心得た。
うち歌ふうち歌ふ。
▲シ「いや。作り謡を謡はゞ、致し様がある。
▲主「ちましの鶏がうち歌ふ。
▲シ「ちまばかりに鶏が歌うて、よその鶏は鳴かぬか。
▲主「何でもない事。しさり居れ。
▲シ「はあ。
▲主「ゑい。
▲シ「はあ。

校訂者注
 1:底本は、「寂々函関鎖未開。田文車馬出秦来。朱門不養三千客。誰為雞鳴得放廻」(但し返り点は略す)。

底本:『狂言全集 中巻』「巻の二 二 鶏立の江」(国立国会図書館D.C.

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